8 ロゼッタの香り
離宮の朝は、まだ完全には動き出していなかった。庭木を鳴らす風も、人の行き来も少ない。
ルチアーノは、いつもの壁際に立っていた。右手に蛇の意匠の杖を持ち、床の反響を確かめながら、頭の中で空間を組み立てていく。配置も距離も昨日と変わらない。歩幅も壁との間隔も、すでに身体が覚えている。
それなのに昨日とは違って、心が不思議なほど安らいでいた。
(理由はわかる)
聞き慣れた足音がルチアーノに近づいてくる。
「おはようございます、殿下。ロゼッタです」
その声で、半歩前の左に彼女が立ったとわかった。輪郭のくっきりした発音と、急に距離を詰めない歩き方。石鹸の香りに、微かな柑橘。
強い香りではない。彼女が寄っても離れても、心地いい距離感が保たれる。それが今のルチアーノには、声と同じくらい確かな目印になっていた。
「歩行訓練の前に、今日の予定をお伝えします。午前はここで昨日までの確認をして、そのあと執務室までの廊下を一度歩きます」
聞きながら、ルチアーノは悟られない程度に風を動かした。空気の流れが変わり、香りの位置が少し掴みやすくなる。
「殿下?」
「……何でもない」
ロゼッタは問い返さず、いつも通り半歩前へ出る。
「では、壁際を離れます。正面は平らです。杖で確かめてからどうぞ」
杖を前に出す。床の感触は一定で、小石も段差もない。そのまま一歩踏み出すと、すぐ前でロゼッタの足音が揃った。
声が先に来て、足音がぶれない。香りがそこにある。それだけで迷いが減る。
曲がり角では事前に声がかかり、扉の前では開く音より先に知らせが届いた。ルチアーノの意思で彼女の腕に触れ、段差では肩へ移る。どれも訓練として正しく、何ひとつ判断を奪われていない。
それなのに歩き終えた頃には、ルチアーノは別のことばかり意識していた。
「今朝はここまでにいたします。午後は食堂までの動線を確認しましょう」
「ああ」
返事は簡単に済ませたが、内心は冷静ではなかった。昨日より歩きやすかった。その理由が、手順だけではないとわかってしまったからだ。
「少し席を外します。すぐ戻ります」
ロゼッタの足音が遠ざかる。それだけで、室内が急に広くなった気がした。反響は同じなのに、空気が頼りなく感じる。
理由は明確だった。ロゼッタの声がない。足音がない。あの香りがない。
「失礼いたします」
戻ってきた彼女の声に、密かに胸を撫で下ろした。石鹸の香りに混じる微かな柑橘が、変わらない距離で感じられる。
ルチアーノは杖を握り直した。
甘い感情だと決めるには、まだ早い。だが、彼女がいると判断が途切れづらく、いないと反応が遅れる。そこまでわかってしまった以上、何でもない顔をしている方が難しかった。
◇ ◇ ◇
回廊の陰で、ニコラス・サルヴィは耳を澄ませていた。直接見なくてもわかる。殿下の歩幅、呼吸、言葉の間。それだけで十分だった。
(専属侍女の任命は、正しかったですね)
ロゼッタが離れたあとの沈黙は長く、戻ってきたあとの一歩は早い。問題があるとすれば、別のところだ。
(身分的な問題は残ります。しかし、殿下の心の均衡は今、ロゼッタ嬢に強く結びついています)
殿下は今、ロゼッタの存在に助けられている。寄りかかりすぎれば危ういが、何も感じなくなるよりは、ずっといい。
痛みや喪失のあと、感情まで閉ざしてしまう者は多い。しかしルチアーノは、怒りも不安も、戸惑いすら失っていない。それどころか、誰かに惹かれて揺れる余地まで残している。
それを、ニコラスは喜ばしく思ってしまう。
ソフィアが願ったのは、王として完璧であることではない。王子である前に、一人の人間として生きることだった。
隣で様子を見ていたステラが、小声で言う。
「……ねえ、ニコラス様。殿下、もうロゼッタじゃないと歩きづらいのでは」
「ええ、そうですね」
ニコラスはあえて淡々と返答する。
「見えないから、余計にロゼッタが身近なんでしょうね」
「そうでしょうね」
回廊の向こうでロゼッタの声がした。それに合わせるように、殿下の歩幅がすぐ安定する。
ニコラスは何も言わず、その変化のみを見届けた。
(……あなたの息子は、きちんと育っていますよ)
胸の中でそう告げながら、ニコラスは微かに表情を綻ばせた。




