9 セリーヌ・デ・モンレーヴの苛立ち
夜会の会場に足を踏み入れた瞬間、視線が集まるのをセリーヌは感じ取った。
ホワイトブロンドの髪は燭台の光を反射し、オリーブ色の瞳はその中で強く輝く。立ち方も、扇の持ち方も、王妃教育の指導官が「非の打ち所がない」と言った通りだ。
(当然よ。わたくしは学びに来た王女で、同時に評価されに来た存在)
微笑みは上品に留め、感情を乱さない。場を支配するのは声の大きさではなく、余裕だと教わってきた。
隣に立つのは、ヴァレンティア王国第二王子リカルド・ディ・ヴァレンティーノ。
母である王妃イリナの派閥が、現在の王宮を動かしている。第一王子が離宮に退いた以上、王位に近いのはこの第二王子だ――セリーヌはそう判断している。
ただ今日の彼の上着に、王女として強く違和感を抱いた。
大胆な刺繍が目立つ、豪奢な上着。しかし、王宮仕立て特有の優雅さがない。紋章の配置が誇示的で、色合いも派手な印象が強い。
(王宮の正式な仕立てではないわね。……急いで誂えた?)
側近の顔ぶれも変わっていた。いつもの侍従が後ろにいない。距離の取り方が雑で、流れもあまり読めていない。
セリーヌは何も言わない。王女が露骨に顔へ出せば、余計な噂が増える。
「セリーヌ。ほら、向こうだ。貴族たちが集まってる」
リカルドが顎で示す。その仕草に内心で眉をひそめながら、セリーヌは笑みを浮かべて扇を持ち直した。
「ええ。参りましょう、殿下」
夜会は、ひとつの舞台だ。ここでの一言は、翌日の王宮の空気を変える。
セリーヌは輪の中心へ進んだ。貴族たちが礼を執り、口々に賛辞を述べる。
「モンレーヴ王国第一王女殿下。今宵もお美しい」
「この会場が一段と明るくなりましたな」
セリーヌは称賛を受け、同じ温度の礼で返す。それが王女の作法だ。
やがて会話が政治の話へ移っていった。
一人の伯爵が、慎重な声音で切り出す。
「……北方の件は、落ち着くのでしょうか」
セリーヌは扇の動きを、わずかに止めた。
「北方の件、とは?」
探るのではなく、促す形で柔らかく問いかける。
「寒害です。昨年より厳しく、麦の収穫が落ちています。家畜も……。第一王子殿下が進めておられた北方国境沿い一帯への支援策が、今は止まっていると聞きましたが」
その瞬間、空気がほんの少し緊張を帯びた。
夜会の場で困窮の話を持ち出すのは好まれない。だが北方は遠い。遠い場所の不都合が、噂になりやすいことは周知の事実だった。
そこでリカルドが、思い出したように口を挟む。
「ああ、北方支援か。兄上がやってたやつだな。安心しろ、俺が引き継いでる」
その言い方はあまりにも軽かった。セリーヌは表情を変えないまま、気持ちが徐々に冷えていく。
(引き継いでいる、という言葉のわりに……)
伯爵が遠慮がちに続ける。
「殿下、第一王子殿下は、北方国境沿いの複数領、鉱山、交易路から上がる報告を重視されていました。現地の鉱山稼働、輸送の目詰まり、冬季の備蓄――」
「鉱山?」
リカルドが眉を上げた。
「石の話まで俺が面倒を見る必要があるのか? そんなのは商人に任せればいいだろ」
セリーヌは扇の骨を指先で押さえた。微笑んだまま、ただ心だけが苛立つ。
(今の一言で、どれだけ評価を落としたかわかっていない)
鉱山は「石」ではない。
北方支援は、寒害対策だけでは回らない。資源や物流、国境防衛が絡む政策だ。――それを、第一王子は理解していた。
貴族たちの反応が遅れる。誰も指摘せず、訂正もしない。だからこそ怖い。
沈黙は評価だということを、セリーヌはよく知っている。
「殿下のお言葉も一理ございますわ。ですが北方は王国の要。寒害の年ほど、資源と物流の調整は重要になりますもの」
セリーヌはリカルドを立てるのと同時に、伯爵の不安を肯定する。
伯爵は救われたように頷き、別の貴族が同調した。
「第一王子殿下は、北方国境沿いから上がる報告を即日で精査し、支援物資の配分を調整しておられました。……数字だけでなく、現場の声を」
そこにルチアーノの名が出ても嘲笑はない。むしろ尊敬が混じっている。
(……不在なのに、まだ勝っている)
セリーヌは扇を一度だけ閉じ、また開く。
指先の動きで感情を調節する癖が、今夜ほど役に立ったことはない。
「まあ、兄上は細かいことが好きだったからな。俺はもっと大きく動く。支援なんて、金を出せばいい」
リカルドの軽薄な言葉に、会話の温度がまた下がっていく。セリーヌはそれを肌で感じ取った。
(大きく動くには、土台がいる)
土台は数字と輸送と現場だ。王妃教育の授業で、それは何度も叩き込まれた。
隣で笑うリカルドが、すでに勝った気になっている。この場の全員がそう思っているだろう。
セリーヌは視線を外へ滑らせた。柱の陰で、侍従たちが声を潜めている。
「……最近、第二王子殿下の側近、変わったよな」
「王妃派の内輪揉めか?」
「北方支援も現場が困ってるって話だ。配分が偏っているらしい」
セリーヌは、その断片をきちんと拾う。
噂は噂だ。だが噂が増える時点で、隙が生じている。
(わたくしは、価値のある側についたはずなのに。国境の向こうの宮廷なら、この程度のやり取りで空気は揺れない)
夜会の楽団が曲を変える。
踊りの輪が広がり、会話は散って溶けていく。セリーヌはリカルドの腕を取るふりをして、人の少ない場所へ誘導した。
「殿下。少しお水を」
「水? 俺は平気だ」
「今夜は視線が多いからですわ。殿下が疲れて見えるのは、惜しいのです」
あくまでリカルドへの配慮を口にする。しかし内心は棘を含んでいた。
(疲れているのではない。考えが浅いのよ)
責任の重さを理解していない。そのどうしようもない軽さが、周囲に伝わってしまっている。
リカルドは笑いながら、グラスを受け取った。
「セリーヌは神経質だな。心配する必要はない。俺は次の王になる」
その言葉に、セリーヌは微笑みを保ったまま、扇を握り直した。
笑みがなくなれば、自分の価値まで落ちる。
(次の王、ね)
セリーヌは一瞬、離宮にいる第一王子の姿を思い浮かべた。
金色の髪に端整な横顔、思慮深い声。
そして北方支援の話題が出たときの、貴族たちが露わにした尊敬の念。
(見えなくなったから、価値が下がったと思った)
だから切った。そうするのが合理的だと信じたけれど――。
(見えているのに、何も見ていない人がいる)
その事実が、今夜の苛立ちの正体だった。セリーヌは扇を閉じ、軽く押さえる。
(噂を集めましょう。北方支援の配分が偏っているというなら、理由がある)
理由がわかれば、先を読める。先を読めれば、有利に動ける。
価値のある側に立つというのが、自分のやり方だ。
夜会の光は眩しく、音楽は華やかだった。
ただ、セリーヌの内側は、リカルドを見るたびに冷えていく。
選んだはずの側が、本当に正しいのか。その答えが、今夜の空気に薄く滲んでいた。




