7 専属侍女の任命
離宮の執務室は、王宮よりも静かだった。
窓から入る風の音も、書類をめくる響きも、互いを邪魔しない。
「お呼びでしょうか、ニコラス様」
「はい。少し確認したいことがあります」
ニコラス・サルヴィは机に座ったまま、向かいに立つ少女を見上げた。
ロゼッタ・マリーニ。年齢は十九歳。
北方国境を治めるマリーニ子爵家の娘で、現在は王宮侍女見習いとして離宮に配属されている。
机の上の簡易記録には、出自、年齢、配属、そして離宮行きを志願した理由――必要最低限の情報が並んでいた。
「本題に入りましょう。マリーニ子爵家の教育方針について。あなたの動き方は、王宮の侍女見習いとしては少し珍しい」
ロゼッタは考え、それからニコラスの目を見つめて答えた。
「母の教育が少し変わっていたのだと思います。礼儀や作法も大切ですが、まず判断を誤らないことを優先しなさいと」
ニコラスはロゼッタの回答に頷く。
「距離の取り方も、同様ですか」
「はい。相手の判断を邪魔しない距離を、常に意識するように言われていました」
「……視覚に不自由のある方と、関わった経験は?」
一瞬、ロゼッタの表情が硬くなった。だが視線は逸らさない。
「……身近な家族に、視力を失った者がおりました」
簡潔な返答だった。そして過去形。
ニコラスは、その一点を記憶に留める。
身近な家族を過去として語る距離感。それ以上を掘り下げるべきではないと判断した。
「その方を、あなたが?」
「はい。ただ……私が介助したのは、その人だけです。殿下は立場も性格もまったく異なります。同じやり方が通じるとは思っていません」
ロゼッタは一度、言葉を区切ってから続けた。
「合っているのかどうか、ずっと不安でした」
ニコラスは遮らなかった。
「その不安は、正しい」
意識して、口調を和らげる。
「一人に通じた方法を、すべての人に当てはめるのが一番危険です。あなたはそれを理解している」
ロゼッタの緊張が少し解けたように見えた。
「確認しながら進めている。声かけ、止まれる合図、手の位置の移動……殿下の不安を増やさない配慮ができています。ここまで、よくやっています」
「……ありがとうございます」
礼儀正しい返事だったが、そこには安堵が滲んでいた。
「殿下は、杖を引かれることを特に恐れています」
事実としてニコラスは告げる。
「そこを避けている点は、非常に重要です。今後も最優先で」
「はい。絶対にいたしません」
ニコラスは書類に視線を落としてから、ロゼッタへ結論を口にした。
「ロゼッタ・マリーニ。本日付で、第一王子ルチアーノ殿下の専属侍女を命じます」
蜂蜜色の大きな瞳が、さらに見開かれる。
「……よろしいのですか」
「暫定ではありません。正式な任命です」
一拍の沈黙ののち、ロゼッタは深く一礼した。
「身に余る任を、ありがとうございます。殿下の判断が成立するよう努めます」
ニコラスはロゼッタに気づかれないように、小さく息をついた。
(身分的な問題は残る。だが――今は、他に選択肢がない)
それは感情ではなく、側近としての判断だった。
◇ ◇ ◇
ロゼッタが執務室に呼ばれている間、ルチアーノは回廊の壁際で待っていた。
右手には蛇の意匠の杖。床を軽く探り、音や障害物を確かめる。だが、いつもより落ち着かない。
(……遅い)
理由はわからない。ただ、いつもの位置に、いつもの気配がない。
「殿下、ご案内いたします」
聞き慣れない女性の声がした。ロゼッタではない。
「……名は?」
「マリア・アルベルティと申します、殿下」
丁寧で落ち着いた声色。礼儀もしっかりしている。
それでも、ルチアーノは小さな引っかかりを覚えた。
逡巡している間に、マリアの腕が探るように触れてくる。指先が想定していたよりも早い。
(少し早いか?)
王宮作法としては完璧だった。
だがそれは、視覚を失った相手の歩行ではなく、王族を滞りなく導くための型だった。
「では、こちらへ」
言葉と同時に、腕が前へ動いた。つられて足が出そうになる。
だが、杖の先がまだ床を探り切っていない。
小石があるかもしれない。段差が潜んでいるかもしれない。
可能性が一気に頭に浮かび、背筋が凍った。
「待て」
思ったより強い制止の声が出た。
「申し訳ございません……ゆっくり参りましょう」
だが距離が定まらない。半歩前でも、隣でもない。距離が揺れるたび、杖の役目が奪われていく。
(杖が、先に出ない)
その感覚が、ルチアーノの危機感を募らせていく。
「この先、扉でございます」
マリアの声が耳に届いたのは、腕が動き出してからだった。次の瞬間、杖が引かれる。
ほんのわずかだったが、それでもルチアーノの恐怖を煽るには十分だった。
「――やめろ」
拒絶ではなく、ただ止めたかった。
マリアの腕が緩み、ルチアーノの世界が戻る。杖を床に戻し、慎重に足元を探る。
石畳の凹凸を指先に感じ、壁の冷たさが近づく。左肩に石壁が触れた瞬間、世界が固定された。
(……違う)
一時的な怒りではない。もっと深いところで、自分の判断を奪われるような怖さに近かった。
ロゼッタは決してルチアーノの杖を引かなかった。衣擦れの音も、呼吸の間も、体温の伝わり方も、いつも同じだった。
だが何より、杖が役目を果たせない瞬間があることが決定的に違っている。
そのとき、廊下の向こうから声がした。
「殿下」
聞き慣れた低い声によって、ルチアーノの位置がすぐに定まる。
「……ニコラス」
それだけで、周囲の配置が頭の中に戻った。
「殿下、おはようございます」
ロゼッタの声だった。近づき方が一定で、距離が急に変わらない。
そっと左手に触れる腕から、ゆっくりと体温が伝わってくる。自分より少し高い、覚えのある温度。
(そうか)
理由がようやくわかった。ロゼッタが来たからではない。彼女が近くにいると、自分の判断が戻ってくるのだ。
「少し、お待たせしました」
いつも通りのロゼッタの声に、ルチアーノの気持ちが落ち着いていく。
「問題ない」
淡々と答えながら、内心では確定していた。
(彼女の代わりはきかない)
それが恋なのかどうかは、まだわからない。
この日、制度としてロゼッタの専属侍女任命が行われた。
そして同時に、ルチアーノの中で、別の判断も固まっていた。
ロゼッタ・マリーニは、隣にいなければならない人間だ。
それはまだ言葉にならない。だが、意思を覆すつもりもなかった。




