8 ロゼッタの香り
離宮の朝は、まだ完全には動き出していなかった。庭から入る風の音も、人の気配も、どこか昨夜の名残を引きずっている。
ルチアーノは、いつもの位置に立っていた。壁際で右手に蛇の意匠の杖を持ち、床の反響を確かめながら、頭の中で空間を組み立てていく。配置も距離も、昨日と変わらない。歩幅も壁との間隔も、すでに身体が覚えている。
それなのに、胸の奥が不思議なほど落ち着いていた。
(……理由は、わかる)
静かな足音が近づく。
「おはようございます、殿下。ロゼッタです」
輪郭のはっきりした発音が届いた。
名乗りと同時に、位置が定まる。半歩前の左側。近すぎず、遠すぎない距離。
そして――香り。
石鹸に似た清潔な香りに、ほんの少しだけ柑橘の爽やかさが混じる。強くはなく、意識しなければ、すぐに溶けてしまうほど淡い。それでも、今のルチアーノにははっきりとわかった。
(……昨日は、この濃さではなかった)
正確には、香りが位置の目印として、ここまで安定していなかった。
空間は同じでも、立つ人間が変われば、空気のまとまり方も変わる。
(……ロゼッタだ)
その事実だけで、胸の奥に溜まっていたざらつきが、ゆっくりと引いていく。
「歩行訓練の前に、今日の予定を確認いたします」
言葉は簡潔で、語尾が途切れない。聞くだけで、次の動きが自然と組み立てられる。ルチアーノは無意識のうちに彼女の気配を追っていた。ロゼッタが動くたび、空気がわずかに揺れ、香りがほんの少しだけ近くなる。
(……確かめている)
意識した瞬間、ルチアーノはごく浅く魔力を流した。
自然を装って風魔法を発動する。自分の意思で、空気の流れを整えた。
彼女の香りが、先ほどよりはっきりと輪郭を持つ。距離が縮まったわけではない。ただ、位置がより正確にわかるようになっただけだった。
(……そういうことか)
昨日、落ち着かなかった理由は、マリアの介助が悪かったわけではない。技術も配慮も、十分だった。
ただ、この香りがなかった。
「殿下?」
ロゼッタの声が、わずかに近づく。
「……何でもない」
端的に返す。説明する必要はないし、説明できる言葉もまだ見つからない。ロゼッタはそれ以上踏み込まず、いつも通り半歩前に立った。
「では、壁際を離れます。正面は平らで、障害物はありません」
その声を聞きながら、ルチアーノは理解する。見えるかどうかではなく、安全かどうかでもない。香りと、音と、距離。それらが一つにまとまり、次の一歩が迷わなくなる。
杖を前に出し、床を確かめる。反発は一定で、小石も段差も感じない。ルチアーノは一歩踏み出した。
風が、もう一度香りを運ぶ。
名を呼ぶほどの理由はないのに、呼びたくなる衝動だけが胸に残る。
(……ロゼッタ)
彼女はいつもと同じように歩いている。自分が、ルチアーノの判断の基準点になっていることなど、何も知らずに。その無自覚さが、なおさら厄介だった。
歩行訓練は滞りなく進んだ。曲がり角は事前に告げられ、扉は開ける前に声が来る。必要なときは腕に手を添え、扉や段差の場面では肩へ移す。どれも訓練として正しく、判断は奪われていない。
終わったあと、ロゼッタは一礼した。
「今朝はここまでにいたします。午後は、食堂までの動線を確認しましょう」
「ああ」
返事は淡々としているのに、内側では違っていた。昨日より今日の方が歩きやすかった。その理由が、技術だけではないことを理解してしまっている。
ロゼッタが一度席を外すと、空気が少しだけ変わった。反響の仕方は同じなのに、室内が広く感じる。
(……落ち着かない)
理由を言語化する前に、答えが浮かぶ。
(……香りがない)
それだけで、判断の速度が一拍遅れる。自分がそれに気づいたことが、さらに厄介だった。
扉が開き、足音が戻ってくる。次いで、くっきりとした声が届く。
「失礼いたします」
香りが戻り、空間の輪郭が戻る。呼吸が戻る。
ルチアーノは、奥歯を噛みしめた。
(……これは)
甘い感情だと決めつけるには、まだ早い。だが、生活の基準が一人に寄っているのは事実だった。いないと落ち着かない。いると判断が切れない。これを、何と呼べばいいのかはわからないまま、理性より感情だけが先に理解してしまっている。
◇ ◇ ◇
回廊の陰で、ニコラス・サルヴィは一連の流れを聞き取っていた。直接見なくても十分だった。殿下の歩調、呼吸、言葉数、そしてロゼッタが席を外した瞬間の沈黙の質。それらが、はっきりと違っている。
(……専属侍女の任命は、正しかったですね)
判断としては、揺らぎようがない。問題は別にある。
(身分的な問題は残ります。しかし、殿下の心の均衡は今、ロゼッタ嬢に強く結びついています)
それを危ういと感じる一方で、ニコラスは別の感情が芽生えていることを否定できなかった。
年相応の揺らぎだ。
誰かに惹かれ、距離を測り、触れてはいけない線を必死に意識する。それは、健全な成長の証でもある。
治癒魔術師として、彼は多くの人間を見てきた。痛みや喪失のあと、感情そのものを閉ざしてしまう者も少なくない。
だが、ルチアーノは違う。
見えなくなっても、恐怖だけに呑まれなかった。怒りや不安だけでなく、戸惑いも、焦りも、そして今は――恋に近い感情さえ抱いている。
それを、ニコラスは喜ばしく思ってしまう。
ソフィアが最期に託したのは、「王としての資質」ではない。王子である前に、一人の人間として生きられるかどうかだった。
(……あなたの息子は、きちんと育っていますよ)
胸の内でそう告げながら、ニコラスは表情を変えない。喜びと警戒、肯定と抑制。その両方を抱えたまま調整を続けることが、自分に与えられた役割だと理解しているからだった。
隣で様子を見ていたステラが、呆れたように囁く。
「……ねえ、ニコラス様。殿下、もうロゼッタじゃないと駄目ですよね」
「ええ。完全に」
丁寧な返答なのに、内容は容赦がない。
「さっき、ロゼッタが席を外した瞬間、空気が変わりました。殿下の呼吸が一拍遅れました」
「見えなくてもわかるんですね」
「見えないから、わかるのでしょう」
殿下が選べる環境を守り続ける。ロゼッタが判断を奪わないことを守り続ける。そして、そのうえで身分差という現実が二人を壊さないように調整する。
それが今のニコラスの役割だった。
回廊の向こうで、ロゼッタの声が再び聞こえる。はっきりと輪郭のある発音で、殿下の次の動きを組み立てていく声だった。
その声を聞きながら、ステラが小さく言う。
「……ロゼッタに、はまりましたね」
「ええ」
答えは淡々としている。だが、その結論は揺るがない。
香りと、音と、距離によって、離宮の朝は今日も進んでいく。




