5 歩く距離と、三度目の戸惑い
離宮に移ってから、三日目の午後だった。
この回廊を歩く訓練も、今日で三度目になる。
ルチアーノは、回廊の壁に沿って立っていた。
右肩のすぐ横に、石壁の冷たい気配がある。音が反射して戻ってくるため、空間の広さや向きが把握しやすい。
見えない今、壁際は落ち着ける位置だった。
右手にある蛇の意匠の杖を床へ伸ばし、軽く左右に振る。
先端が小石に触れ、乾いた音が跳ねた。
(……ここに落ちている)
位置を覚え、避けられると判断する。それだけで無駄な緊張が減る。
「殿下、こちらにおります」
少し前方から、ロゼッタの声が届いた。
距離は二歩ほど。近すぎず、遠すぎない。
「……始めよう」
「はい。では、壁際を離れるところからいきましょう」
ロゼッタが半歩前に立つ気配がする。
その直後、ほんの一瞬だけ、彼女の右腕がルチアーノの左手に触れた。
位置を知らせるための、短い接触。この動作も、もう三度目だった。
訓練として理解している。同じ手順を、同じ目的で繰り返しているだけだ。
ルチアーノはためらいなく指先を動かし、ロゼッタの腕にそっと手を添えた。
掴まない。引かない。ただ、位置を確かめる。
「正面に一歩。床は平らです。杖で確かめてから進んでください」
声は落ち着いていて、急かさない。
杖を前へ出す。反発は一定で、障害物はない。
一歩、踏み出す。
壁の気配が肩から離れ、空間が広がった。
「いいですね。安定しています」
確認の言葉だった。
腕に添えた手をそのまま保ち、ルチアーノは歩行を続ける。
ロゼッタは半歩前を維持し、歩調も変えない。
(……やりやすい)
判断が途切れない。思考と動作が、自然に繋がっている。
だからこそ、遅れて別の感覚に気づいた。
(……触れている)
三度目のはずなのに。慣れたはずなのに。
触れた感触を、意識してしまっている。
(……訓練だ)
自分に言い聞かせ、意識を前へ戻す。
「この先、低い段差があります。降ります」
ロゼッタの声が、わずかに低くなる。
「私が先に降りますね。杖で縁を探してください」
足音が一段、低くなる。彼女が段差を降りたのだと、すぐにわかった。
杖を動かし、縁に触れる。
(……確認)
そのとき、ロゼッタが続ける。
「今、私の位置が低くなるので……腕だとわかりにくいかもしれません。私の肩に手を移していただいても大丈夫ですか?」
一拍置いて、ルチアーノは答える。
「……構わない」
腕から、肩へ。
この動作も、三度目だ。
(慣れているはずだ)
そう思った直後、胸の奥がわずかに騒いだ。
布越しに伝わる位置。近さ。
それを、必要以上に意識してしまう。
「段差を降りてから、扉を開けます」
ロゼッタの声は変わらない。
扉を開ける音がして、空気の流れが変わる。
肩に添えた手と杖を頼りに、ルチアーノは一歩降りた。
足裏が、違う高さを捉える。安定している。
「……問題ない」
「はい。そのまま進みましょう」
ロゼッタはすぐに半歩前へ戻り、距離を取り直す。
肩にあった手も、自然に腕に添え直した。
訓練だ。ただの訓練だ。
そう理解しているのに、理解しているからこそ、ロゼッタの感触を意識してしまう。
数歩進んだところで、ロゼッタが言った。
「このやり方、もう慣れましたね。殿下は覚えるのが早いです」
「……ああ」
短く答えながら、内心では否定していた。
(慣れているのは、動作だけだ)
それ以外は――まだ、処理できていない。
歩行を終え、ルチアーノは口を開いた。
「……一つ、確認させてほしい」
「はい。確認、でしょうか」
ロゼッタの声は、変わらず穏やかだ。
「魔力だ。念のため」
一拍置いて、彼女はすぐに答えた。
「わかりました。どうすればよろしいですか」
「そのまま、そこにいてほしい」
「はい」
光属性の魔力を、薄く立ち上げる。探るための光は、なぞる程度で十分だった。
ロゼッタの魔力が、輪郭を持って浮かび上がる。
(……澄んでいる)
歪みも、闇の残滓もない。
それだけで終わるはずだった。
だが、魔力の質が、やけに穏やかだった。
主張せず、こちらの動きを邪魔しない。思わず、光を引く。
「確認は終わった」
「お役に立てたなら、よかったです」
それだけだった。
試されたことを、怒る様子もない。
(……彼女と一緒に戦える)
そう理解した瞬間、胸の奥に別の熱が生まれた。
それが何なのかは、まだ考えない。
「……助かる」
「はい?」
「いや。問題ない」
再び歩き出す。
ロゼッタは半歩前を保ち、ルチアーノは自分の足で進む。
壁際で待つ。
杖で探る。
必要なときだけ、肩に手を移す。
すべて、これから戦うための判断だった。
(……同志、か)
胸の奥が、またわずかに騒いだ。
今は、歩く。
考えるのは、あとでいい。
離宮の回廊には、午後の光が差し込んでいる。
ロゼッタは半歩前を守り、ルチアーノは自分の判断で世界を測っていた。
それだけで、今日は十分だった。
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