4 ロゼッタとステラの午後
王宮から馬車で半刻ほど。王都の中でも閑静な場所に離宮はあった。
同じ王都であるはずなのに、空気の質が違う。人の往来が少なく、足音がそこまで気にならない。午前中に中庭で見た第一王子の姿がロゼッタの脳裏をよぎった。
(……ここなら、余計な視線は入りづらい)
ロゼッタ・マリーニは回廊を歩きながら、自然と歩調を落とした。
ローズブラウンの髪は低い位置でしっかりとまとめられている。蜂蜜色の瞳は柔らかな印象を与えるが、視線に迷いはない。身だしなみは清潔で、実務に慣れた落ち着きがある。体格は華奢すぎず、長く立っていても軸が崩れない。
侍女見習いとして王宮に上がってから、意識して身につけてきた立ち方だった。
足を止めると床の硬さが変わり、音の反響がわずかに遅れる。
(ここは響き方が違う)
殿下が通るなら、声をかける位置を考えなければならない。ロゼッタは頭の中で、回廊に印をつけた。
「ロゼッタ」
聞き慣れた声がして振り返ると、友人であるステラ・バルトーネが歩いてきた。
シルバーアッシュの髪をまとめ、若草色の瞳は瞬時に周囲を捉えている。前に出すぎず、控えるべき場所では確実に控える。
十八歳のステラは、年のわりに落ち着いていて、実務向きの所作が身についていた。
「もう来てたのね。王宮の荷物が多くて、少し遅れたわ」
「大丈夫よ。ちょうど見ていたところだから」
ロゼッタは足元と周辺を示した。
「見ていた?」
「廊下の幅と音の反響、それから扉の開き方」
ステラは束の間考え、すぐに理解したように頷く。
「……もう仕事を始めているのね」
「始めるというより、覚えていたいだけ。今日は、殿下の部屋には入らないわ」
二人が並んで歩き出した、そのときだった。
「――随分と熱心ですね」
横合いから、わざと感心したような声が割り込んできた。
振り向くと、王妃派に連なる従者が立っていた。リカルドの側近として、王宮で何度か見かけた顔だ。口元には笑みを浮かべているが、その視線は値踏みするように冷たい。
「離宮とはいえ、殿下は殿下。まさか、見習いの方お一人で対応なさるおつもりではありませんよね?」
その言葉は丁寧だが、わかりやすい牽制だった。
「殿下は、今とても繊細なご状況ですし」
従者は大袈裟に溜息をつく。
「判断を誤られでもしたら、それこそ取り返しがつきません。付き添いは多い方が、安心かと存じますが?」
ステラが、反射的に口を開きかけた。
だが、ロゼッタはステラの背に手を置いてから、穏やかに声を出す。
「ご心配いただき、ありがとうございます」
ロゼッタの声音は柔らかい。しかし、返答の切れ味は鋭かった。
「ただ、殿下が歩かれるときに、一番必要なのは付き添いの数ではないと思うのです」
従者が不快そうに眉をひそめる。
「殿下ご自身が、今どこに立っていて、どう進むかを判断できる空間です」
ロゼッタは一歩も引かずに続けた。
「大勢の人が先に動いてしまいますと、その判断を奪ってしまいますから」
回廊に沈黙が落ちた。
従者は言葉を探すように口を開き、結局、何も言い返せなかった。
そのまま、作法通りに一礼する。
「……ご立派なお考えですね」
皮肉を残して、踵を返して去っていった。
従者の背中が見えなくなってから、ステラが小さく零す。
「……ああいう言い方、王宮では誰も止めないのよ」
「でしょうね。でも、離宮では必要ないもの」
ロゼッタはただ事実を述べるように、淡々と答えた。
「あなたが真っ先に離宮に行くって立候補したって聞いたとき、正直驚いたわ」
ステラは歩きながら、ちらりと横目でロゼッタを見る。
「責任は重いし、目立つ役目よ。それなのに迷いがなかった」
「理由を考える前に行きたいって思ったの。行かなきゃ、って」
ロゼッタは率直な気持ちを打ち明ける。
「その思いだけは、最初から揺れてなかったわ」
ステラは一度、視線を前に戻してから、静かに言った。
「……すごくまっすぐね」
回廊の先に、第一王子の居室がある。ロゼッタは無意識に足音を一定にした。
「午前中、殿下に会ったんでしょう」
「ええ」
「どうだった?」
ロゼッタは少し間を置いて答える。
「第二王子に身体は一度倒されたわ。でも……殿下の心は倒れていなかった」
「判断を手放してなかった?」
「ええ。周りがどう動いているかを、ずっと探っていたわ」
ロゼッタは、あのときの殿下の立ち姿を思い出していた。
「……正直、驚いたわ」
「何が?」
「身体が倒れても、ああやって周囲を窺っている人を、私は初めて見たの」
ステラは頷いて、ロゼッタに同意した。
「だから、あなたは行くって言えたのね」
「そう。放っておけなかったの」
「で、次は何をするのかしら?」
「今日は殿下の部屋の外から確認するの。扉の開き方、音の響き方、動線で危ないところがないかを見て、それをニコラス様に伝えるわ」
ロゼッタはやるべきことを数えて、考えを巡らせる。
「お世話はまだ?」
「まだよ。先に環境を把握しないと、殿下の判断を邪魔してしまうから」
ステラは納得したように、表情を緩めた。
「前に出ないのね」
「出たら……奪ってしまいそうだから」
そう言って、ロゼッタは再び歩き出す。必要な場所で止まり、確かめてから次へ進む。足取りに迷いはない。
扉の向こうに、午前中に会った盲目の王子がいる。ロゼッタは声の届く距離と立ち位置を確かめ、深呼吸をした。
(私は奪わない)
離宮での一日は、まだ始まったばかりだ。
ロゼッタは前に出るためではなく、殿下が自分で選び続けられるよう、世界の形を一つずつ確かめていた。




