6.角砂糖失踪事件
休日。
午後の喫茶店は平日より少しだけ静かだった。
窓から差し込む日差しがテーブルを照らし、店内にはコーヒーの香りが漂っている。
いつもの席。
カウンターから少し離れたテーブル席。
私の前には冷たいカフェオレ。
向かいには鷺森恒一。
コーヒーカップを片手に新聞を広げている。
そしてテーブルの端には、いつものように六法全書。
分厚い。
重い。
存在感がある。
もはや私の一部と言ってもいい。
私はテーブルの下に置いていた鞄を開く。
鞄の中へ手を入れる。
指先が紙の束に触れる。
厚いファイル。
角が少し擦り切れている。
表紙には自分で貼ったラベル。
【E案件】
ただアルファベット一文字。
誰が見ても意味は分からない。
私だけが分かる。
その文字を指でなぞる。
ふと。
あの日のテラス席が頭をよぎった。
待ち合わせ。
来なかった後輩。
空になったガラスカップ。
時間だけが過ぎていく午後。
ファイルを取り出そうとした。
その瞬間。
新聞の向こうから嫌そうな視線が飛んできた。
「おい」
「はい?」
「しまえ」
まだ何も出していない。
「何をです?」
「それだ」
「まだ出してません」
「出そうとしてる」
その通りだった。
私は素直に認める。
「先日の猫探しの件をまとめようかと」
「やめろ」
「記録は大事です」
「終わった話だろ」
「終わったからこそ残すんです」
恒一は深いため息を吐いた。
新聞を半分に折る。
「帰るぞ」
「まだ来て十分ですよ」
「今日はここまでだ」
「何も始まってません」
「それが一番いい」
心底そう思っている顔だった。
少しだけ頬を膨らませる。
おじさんは本当に面倒事を嫌う。
いや。
正確には違う。
面倒事を嫌うと言いながら、なぜか最後まで付き合う。
だから余計に質が悪い。
恒一はコーヒーを一口飲む。
「大学生なら大学生らしくしろ」
「しています」
「休日だぞ」
「はい」
「友達と遊ぶとか」
「いますよ」
「本当にか?」
「失礼ですね」
「俺に付き合ってる時点で変わり者だ」
それは少し否定できなかった。
私は黙る。
恒一も黙る。
静かな時間が流れる。
私は再び鞄に手を入れた。
今度は課題の資料でも出そうかと思った。
その時だった。
「おかしいんだよなぁ……」
独り言のような声。
私は顔を上げた。
カウンターの方を見る。
店主のおじさんが腕を組んで首を傾げていた。
何か考えている。
そして困っている。
その顔だった。
私は反射的に立ち上がった。
「事件ですか?」
恒一が頭を抱えた。
「座れ」
聞こえないふりをした。
店主が苦笑する。
「いや、事件ってほどじゃないんだけどな」
「何があったんですか?」
「いやぁ」
店主は後頭部を掻く。
「当たり前の話なんだが」
少し間を置く。
「最近やけに角砂糖が減るんだ」
沈黙。
私は真顔になる。
店主を見る。
角砂糖。
減る。
つまり。
私はゆっくりと頷いた。
「内部犯ですね」
恒一がコーヒーを吹きそうになった。
「物騒だな」
「内部の犯行です」
「砂糖だぞ」
「窃盗です」
「砂糖だぞ」
「被害品目が角砂糖なだけです」
「角砂糖なんだよ」
私は既にメモ帳を取り出していた。
ボールペンも構える。
店主の顔は少しニヤニヤしている。
「被害総額は」
「たぶん三百円くらい?」
「発覚したのはいつですか」
「三日くらい前かな」
「容疑者は」
「わからない」
「監視カメラは」
「ない」
私はメモを取る。
恒一は呆れた顔をしている。
「本当にやるのか」
「当然です」
「当然じゃねぇ」
「角砂糖は店の備品です」
「そうだな」
「つまり財産です」
「そうだな」
「財産の消失です」
「砂糖だぞ」
会話が一周した。
私は気にしない。
店内を見渡す。
客はそれなりにいる。
窓際で本を読んでいる老人。
新聞を広げているサラリーマン。
ノートパソコンを開いている大学生。
常連らしき主婦。
全員が怪しく見えてきた。
私はペン先を走らせる。
「容疑者多数」
「書くな」
恒一が言う。
「まだ容疑者ですらない」
「可能性はあります」
「砂糖だぞ」
店主が笑いを堪えている。
完全に面白がっていた様子に不思議に思った。
私は立ち上がる。
「聞き込みを開始します」
「やめろ」
「証言を集めます」
「やめろ」
「犯人は必ずいます」
「いない可能性を考えろ」
私は真剣だった。
恒一は諦めたように天井を見上げる。
「休日が終わったな……」
ぼそりと呟く。
私は聞こえないふりをした。
事件は、既に始まっているのだから。
角砂糖失踪事件。
被害総額三百円。
容疑者多数。
動機不明。
証拠なし。
そして。
鷺森恒一、やる気なし。
私はメモ帳の余白に大きく書き込んだ。
【捜査開始】
それを見た恒一が額を押さえる。
「だから砂糖だって言ってるだろ……」
私は顔を上げた。
「おじさん」
「なんだ」
「協力してください」
「嫌だ」
「事件ですよ」
「砂糖だ」
即答だった。
私は少しだけ考えたあと、静かに頷く。
「分かりました」
「おう」
「単独捜査します」
「やめろ」
店内に店主の笑い声が響いた。




