5. 帰る場所
猫は、ただ寝ていただけだった。
それだけだった。
誰かに追われていたわけでもない。
怪我をしていたわけでもない。
閉じ込められていたわけでもない。
神社の裏手。
木陰の涼しい場所で、
ただ気持ちよさそうに昼寝をしていた。
私は腕の中の猫を見下ろす。
タマはすっかり大人しくなっていた。
いや、大人しいというより慣れているのだろう。
抱かれることに。
撫でられることに。
人に可愛がられることに。
喉の奥からゴロゴロと音が聞こえる。
機嫌がいいらしい。
時折、前足を私の胸に押し当てては揉むような仕草を繰り返す。
もみ、もみ。
赤ちゃんが母親の胸を探す時のような動き。
私は少しだけ笑ってしまった。
ついさっきまで必死だったのに。
見つからないかもしれないと思っていたのに。
抱き上げた途端。
この猫が妙に可愛く見えてくる。
「見つかってよかったです」
横を歩く恒一に言う。
「そうだな」
相変わらず気の抜けた返事だった。
神社の石段を降りる。
街灯が少しずつ灯り始めている。
昼と夜の境目。
人の影も長くなっていた。
私は猫を抱えたまま歩く。
「帰ってこないかもしれないって思いました」
「そうだろうな」
「どこかで倒れてるかもしれないって」
「そうだろうな」
「事故かもしれないし」
「そうだろうな」
私は思わず立ち止まりそうになる。
「でもちゃんといました」
「そうだな」
今度は少しだけ違った返事だった。
私は猫の頭を撫でる。
タマは目を細める。
気持ちよさそうだ。
私は横を歩く恒一を見る。
「おじさん」
「ん?」
「最初から分かってたんですか」
恒一は少し考えるように鼻を鳴らした。
「半分くらいな」
「半分?」
「絶対じゃねぇ」
「でも探しに来たんですよね」
「そうだな」
「どうして分かったんですか」
少しの沈黙。
恒一はポケットに手を突っ込んだまま前を向いている。
そして。
「まぁ、なんだ」
言葉を探すように頭を掻いた。
「帰る場所があるやつは案外帰る」
私はその言葉を反芻する。
帰る場所。
タマは帰る場所を知っていた。
だから帰る。
ただそれだけ。
商店街の明かりが見えてくる。
人の声。
自転車のベル。
閉店準備をする店。
いつもの景色。
おばあさんの家も見えた。
その姿を見た瞬間だった。
腕の中でタマが暴れ始める。
「わっ」
前足で私を押す。
続いて後ろ足。
そして。
ぴょん。
軽やかに飛び降りた。
年寄り猫とは思えない動きだった。
そのまま地面を駆ける。
一直線。
おばあさんの方へ。
「タマ!」
声が響いた。
おばあさんだった。
驚いた顔。
そのあと。
安心した顔。
そして。
涙。
「もう帰ってこないかと思ったよぉ」
しゃがみ込むと、
タマが足元に擦り寄る。
「ニャア」
まるで返事みたいだった。
おばあさんの皺だらけの手がタマを抱き上げる。
何度も撫でる。
何度も。
何度も。
タマは嫌がる様子もない。
喉を鳴らしている。
その様子を見ていると、
胸の奥の張り詰めていたものがゆっくり解けていく。
良かった。
本当に。
良かった。
その時だった。
横から声がする。
「ほらな」
おじさん。
「何がです?」
おばあさんと猫を顎で示す。
「帰る場所」
私は言葉の意味を考える。
おじさんは続けた。
「飯があって」
「寝る場所があって」
「待ってるやつがいる」
少しだけ笑う。
「猫だって忘れねぇよ」
私は再びおばあさんを見る。
おばあさんが顔を上げる。
「ありがとうねぇ」
私は首を振る。
「いいえ」
言葉が続かない。
おばあさんはタマを抱いたまま何度も頭を下げた。
おばあさんの家を離れる。
タマはもうこちらを見ない。
おばあさんの腕の中で満足そうに丸くなっている。
玄関の灯りが点いた。
扉が閉まる。
それで終わりだった。
私はしばらくその家を見ていた。
「帰るぞ」
おじさんが歩き出す。
私は返事をしなかった。
ただ後ろを付いていく。
商店街の街灯が並ぶ。
人の声が聞こえる。
自転車が通り過ぎる。
いつもと同じ景色。
なのに妙に静かだった。
胸の奥にあった焦りがなくなっている。
代わりに何が残ったのか。
それが分からない。
気付けばメモ帳も閉じたまま。
録音機も止まったままだった。
探す理由がなくなった途端、 身体から力が抜けたようだった。
「……終わりましたね」
ぽつりと呟く。
おじさんは前を向いたまま答える。
「ああ」
それだけだった。
それから二人で商店街へ戻った。
夜の喫茶店は昼とは少し違う。
店内の照明は暖かい。
ガラス窓に街灯が映り込んでいる。
私たちは窓際の席に座った。
恒一の前にはコーヒー。
私の前にはアイスカフェオレ。
そして。
いつものように六法全書。
テーブルの上では異様な存在感を放っている。
私はストローを咥える。
冷たい。
甘い。
少しだけ疲れた身体に染み渡る。
気分も良かった。
達成感というやつかもしれない。
私は胸を張る。
「解決しました」
恒一がコーヒーを飲む。
「猫が寝てただけだぞ」
「解決しました」
「そうか」
「しました」
「そうだな」
私は満足そうに頷いた。
恒一は呆れたようにコーヒーカップを置く。
そして。
「頑張ったついでに」
そう言ってこちらを見る。
嫌な予感がした。
「タバコも買ってくれねぇか」
私は無言で六法全書を開いた。
「未成年への喫煙教唆について調べますか?」
「やめろ」
即答だった。
ページをめくる。
「条例の確認もしますか?」
「やめろ」
「受動喫煙についても」
「やめろって」
私は頷く。
「分かりました」
おじさんは安心したようにコーヒーを飲む。
少しだけ。
ほんの少しだけ。
今日一番笑った気がした。




