2,消えた猫はどこへ
午後四時過ぎ。
大学の講義を終えた人々が駅へ向かい、商店街には買い物帰りの人が増え始める時間。
私はいつもの喫茶店の前で立ち止まった。
ガラス越しに見えるテラス席。
白いパラソルの下。
見慣れた姿がある。
「あ」
いた。
案の定だった。
椅子に深く背を預け、新聞を顔に被せている。
どう見ても昼寝。
誰が見ても昼寝。
店員も見て見ぬふりをしている。
私はテラス席へ歩み寄った。
「おじさん」
反応なし。
「おじさん」
新聞の端が僅かに揺れた。
「起きてください」
沈黙。
そして数秒後。
「……」
低く唸るような声。
「今日も来たのか……帰れ……」
新聞を被ったまま言う。
私は向かいの椅子を引いて腰掛けた。
持っていた六法全書をテーブルに置く。
ドスン。
その音にようやく新聞が持ち上がった。
「今日はコーヒー代は大丈夫なんですか」
「いきなりそれか……」
新聞を脇へ置きながら恒一は大きく欠伸をした。
「財布ならある。心配すんな」
「確認します」
「確認するな」
「確認は大事です」
「大事じゃねぇ」
会話が噛み合わない。
いつものことだった。
私は手を差し出した。
恒一は面倒そうな顔でこちらを見る。
「……」
「……」
「……」
根負けしたのは恒一だった。
深いため息。
そして革財布が飛んでくる。
私はそれを受け取った。
少し擦り切れた革財布。
角は潰れ、色も落ちている。
長年使い込まれているのがわかる。
まず札入れを開く。
千円札が一枚。
確認。
次に小銭入れ。
チャックを開ける。
ジャラリ。
大量の小銭。
「増えてますね」
「何がだ」
「小銭です」
「そうか」
私はメモ帳を開いた。
以前の記録を確認する。
五月十二日。
小銭総額千八百八十九円。
その数字の横に新しい記録を書き込む。
一円。
五円。
十円。
五十円。
百円。
五百円。
一枚ずつ確認していく。
「お前、それ楽しいのか」
「結果が出るので」
「変わった趣味だな」
「趣味じゃありません」
「じゃあ何だ」
少し考える。
答えはすぐ出た。
「確認です」
「だから何の確認だ」
「おじさんが生きてる確認です」
恒一が黙った。
私は小銭を数え続ける。
合計。
二千百四十三円。
以前より二百五十四円増えている。
メモに書く。
おじさんの財布
二千百四十三円
千円札一枚
記録完了。
「終わりました」
財布を滑らせる。
恒一は受け取る。
「気が済んだか」
「はい」
「そうか」
短い会話。
それで終わる。
私は少しだけ安心した。
財布の中身が増えている。
コーヒー代も払える。
少なくとも餓死はしていない。
それが分かる。
昔、百円ショップで小銭を整理するケースを買ったことがある。
きっちり種類ごとにまとめられる便利なものだった。
渡した。
翌週。
全部外されていた。
『邪魔』
そう言われた。
『取り出して戻すの面倒だろ』
私はそれ以上言わなかった。
強制する権利はない。
妻でもない。
家族でもない。
人には距離がある。
踏み込みすぎれば壊れる距離。
越えてはいけない境界。
だから私は許された範囲だけを見る。
それ以上はしない。
出来ない。
そこへ声が飛び込んできた。
「探しておくれよぉ!」
女性の声。
私は反射的に立ち上がった。
「おい」
後ろから恒一の声。
けれど、聞こえなかったことにする。
声の方へ向かう。
商店街のおばあさん。
見覚えがある。
八百屋の隣に住んでいる人だ。
「何かあったんですか!?」
「探しておくれよぉ」
「事件ですか!?」
恒一が遠くで顔を覆った。
おばあさんは困った顔で頷く。
「うちのタマがいなくなったんだよ」
私はすぐにメモ帳を開いた。
同時にボイスレコーダーのスイッチを入れる。
カチッ。
「お名前は?」
「猫のタマだよ」
「年齢は?」
「十四歳」
「最後に確認した時刻は?」
「昨日の昼前かねぇ」
私は一気に書き込む。
高齢。
失踪。
最後の目撃。
行動範囲。
考えることはたくさんある。
事故。
迷子。
連れ去り。
病気。
様々な可能性が浮かぶ。
「これは…」
私は振り返った。
「事件です」
恒一は頭を抱えていた。
「猫だぞ」
「高齢猫の失踪です」
「猫だぞ」
「行方不明です」
「猫だぞ」
私は真剣だった。
反対に恒一は心底面倒そうだった。
けれど席を立った。
そして大きくため息をつく。
「……しゃあねぇな」
その言葉に少しだけ胸が軽くなった。
こうして。
商店街の老猫タマ捜索事件が始まった。




