3, 帰ってこないもの(上)
喫茶店を出る。
ガラス戸の向こうで店員が会釈をした。
私は軽く頭を下げて商店街へ足を向ける。
片手にはスマートフォン。
胸ポケットにはメモ帳。
録音機もある。
準備は万全だった。
「おじさんも付いてきてくださいね」
後ろを振り返る。
鷺森恒一は気怠そうに欠伸をしながら歩いてくる。
「ああ……いるぞ」
返事だけはする。
やる気はない。
それでも付いてくる。
私は少しだけ気合いを入れた。
今の私なら見つけられる気がした。
情報を集める。
整理する。
繋ぎ合わせる。
そうすれば答えは出る。
きっと。
まずはパン屋だった。
「おばあさんとこのタマか?」
店主が腕を組む。
「昨日の夕方に見かけたかな」
私はすぐにメモを取る。
昨日、夕方。
パン屋前。
次は魚屋。
「いたよ」
魚を捌きながら店主が答える。
「昨日の午後にな。小魚欲しそうに見てたから少しやった」
昨日午後。
魚屋。
さらに記録。
八百屋。
「今朝見たかな」
野菜を並べながら答える。
「日向で寝てたぞ」
今朝。
八百屋前。
私は次々に書き込んでいく。
商店街を行き交う人にも声を掛けた。
「今日の昼に公園で見たかも」
「猫が集まってるところにいた」
「昼くらいに走ってた」
「昨日は喫茶店の前で寝てたな」
「知らない」
「裏通り歩いてたぞ」
「見てない」
「分からない」
情報が増える。
どんどん増える。
なのに。
私は眉を寄せた。
「……おかしい」
立ち止まる。
メモ帳を開く。
書き込まれた証言。
昨日の夕方。
昨日の午後。
今朝。
昼。
公園。
裏通り。
魚屋。
喫茶店。
八百屋。
全部違う。
一致する情報がない。
いや、
正確には違う。
全部が一致している。
タマはいつも通り商店街を歩いていた。
それしか分からない。
ボールペンを頬に当てる。
「んー……」
唸る。
恒一はその後ろで缶コーヒーを飲んでいた。
何もしていない。
本当に何もしていない。
私は聞き込み。
私は記録。
私は整理。
私は推測。
おじさん。
缶コーヒー。
以上。
「わりぃ、トイレ行ってくる」
「……あ、はい」
恒一が喫茶店の方へ戻っていく。
私は近くのベンチに腰掛けた。
去っていく背中を見る。
少しだけ不満が湧く。
もっと協力してくれてもいいのに。
そう思う。
けれど。
私が勝手に首を突っ込んでいるだけとも言える。
元々はおばあさんの依頼だ。
恒一は付き合ってくれているだけ。
それも分かっている。
分かっているけれど。
「探してくれてありがとうねぇ」
声がした。
顔を上げる。
依頼人のおばあさんだった。
「毎日顔見せてくれるんだよ」
優しく笑う。
「朝になると来てねぇ」
「ご飯食べて」
「縁側で寝て」
「夕方になると出ていくんだ」
少し寂しそうだった。
「息子みたいなもんでねぇ」
その言葉に私は何も言えなくなる。
ただ頷く。
「大丈夫です」
代わりにそう答えた。
「絶対に見つけますから」
おばあさんは少し驚いたように笑った。
そしてポケットから何かを取り出す。
飴玉だった。
黄色い輪っかの飴。
昔ながらの駄菓子。
懐かしい。
「ありがとう」
受け取る。
「無理しないでねぇ」
その言葉を残しておばあさんは去っていった。
私は飴を見つめる。
少しだけ想像したら、胸が痛かった。
毎日来る。
ご飯を食べる。
寝る。
そして帰る。
当たり前のこと。
それだけのこと。
それだけなのに。
帰ってこなくなる。
空の皿。
毛布。
そこに猫がいないだけ。
そんなことがある。
私は飴を握る。
その時だった。
「戻ったぞ」
聞き慣れた声。
恒一が戻ってきた。
ベンチへ腰を下ろす。
深く背を預けて、足を投げ出す。
昼寝を始めそうな姿勢。
いや。
たぶん始める。
この人はそういう人だ。
私はしばらく黙って見ていた。
そして。
限界だった。
「あの」
「ん?」
「おじさんも探してください」
少し語気が強くなる。
恒一は気にした様子もない。
「探してる」
即答。
私は眉をひそめた。
「どこをです?」
「猫」
沈黙。
腹が立つ。
どうしてそんなに呑気でいられるのか。
十四歳。
高齢猫。
事故だってある。
病気だってある。
誰かに連れて行かれたかもしれない。
どこかで動けなくなっているかもしれない。
死んでいるかもしれない。
考えたくない想像ばかりが浮かぶ。
どんどん。
どんどん。
悪い方へ。
最悪の方へ。
転がっていく。
見つけなきゃ。
早く。
何か起きてからじゃ遅い。
取り返しがつかなくなってからじゃ遅い。
私は立ち上がった。
「もういいです」
恒一がこちらを見る。
「私一人で探しますから」
声が少し震えていた。
「おじさんはそこで寝ててください」
吐き捨てるように言う。
そして歩き出そうとする。
その背中へ。
恒一の静かな声が落ちた。
「瑠夏」
足が止まる。
振り返らない。
「猫はな」
少し間があった。
「お前より猫やってる歴が長ぇぞ」
私は眉を寄せる。
意味が分からない。
けれど。
その声だけは妙に落ち着いて聞こえた。




