1 再開
午後四時過ぎ。
大学の講義が終わる時間だった。
まだ空は明るい。
高層ビルの窓ガラスが西日に照らされて光り、人の流れが歩道を埋めている。
信号機の電子音。
車のエンジン音。
遠くから聞こえる救急車のサイレン。
誰かの笑い声。
街は今日も騒がしかった。
風宮瑠夏は人混みを縫うように歩く。
左腕には分厚い六法全書。
胸ポケットには小さなメモ帳。
右手には録音機。
大学生の持ち物としては少々偏っている。
もっとも本人は何も気にしていない。
必要だから持っているだけだ。
世の中には分からないことが多すぎる。
契約書。
保険。
示談。
訴訟。
法律。
そして人間。
何かが起きてからでは遅い。
だから備える。
それだけだった。
交差点が見えてくる。
停止線の前で車列が止まり、歩行者信号から小鳥のような電子音が鳴り始めた。
人波が一斉に動き出す。
瑠夏も流れに乗って横断歩道を渡った。
途中、公園へ視線を向ける。
ベンチ。
東屋。
自動販売機の脇。
見当たる場所を確認する。
いない。
「……いませんね」
小さく呟く。
次は商店街だった。
図書館の窓際。
古本屋の奥。
フードコート。
喫茶店。
見当がつく場所を一つずつ見ていく。
いない。
別に約束していたわけじゃない。
急ぎの用事があるわけでもない。
それでも少しだけ足取りが早くなる。
──待つのは嫌いだった。
いや。
正確には違う。
待っても来ない時間が嫌いだった。
ふと、昔の光景が頭をよぎる。
パラソルの下。
冷めていくアイスティー。
向かいの空席。
『先輩、すぐ行きます!』
そんなメッセージが残っていた。
何度も時間を確認した。
何度も通りを見た。
何度もスマホを見た。
来ると思っていた。
だから待った。
待ち続けた。
そして来なかった。
…。
頭を振る。
思い出す必要はない。
今探しているのはおじさんだ。
消えるような人ではない。
たぶん。
周辺に見渡して、考える。
おじさんの行動範囲は驚くほど狭い。
定職がないせいか、暇なのか。
あるいはその両方か。
大体その辺にいる。
少しだけ歩調が速くなる。
それでも、いつもの場所にいないと落ち着かなかった。
そして本当にいた。
「あ」
思わず声が漏れる。
商店街の外れ。
古い喫茶店のテラス席。
白いパラソルの下。
そこに見覚えのある男がいた。
新聞。
空になったコーヒーカップ。
椅子に深く腰掛けた中年男。
そして昼寝。
完全に昼寝だった。
顎を少し上げたまま眠っている。
「いました」
安心したように呟く。
それだけのことなのに。
少しだけ肩の力が抜けた。
いつもの場所にいることが。
なぜだか少し嬉しかった。
……変なの。
男は目を閉じたまま口を開いた。
「……なんだ」
少し間が空く。
「もうそんな時間か……?」
声が眠そうだった。
瑠夏は首を傾げる。
「起きてたんですか?」
「今起きた」
「それは起きてないと思います」
「そうか」
「そうです」
男――鷺森恒一は欠伸をひとつした。
まるで猫だった。
やる気のない猫。
元探偵らしい。
本人は否定している。
瑠夏も半分くらいしか信じていない。
ただ妙なことだけは知っている。
このおじさんは怠け者なのに妙なことによく気付く。
そして面倒事を嫌うくせに面倒事に巻き込まれる。
本人の意思とは関係なく。
恒一は目を擦りながら瑠夏を見上げた。
「で」
短い一言。
「何か事件か」
「まだ分かりません」
「証拠か」
「あるかもしれません」
「なるほど」
何もなるほどではない。
瑠夏は空いている向かいの席へ腰掛けた。
鞄からクリアファイルを取り出す。
恒一はそれを見て露骨に嫌そうな顔をした。
「帰るか」
「まだ何も話してません」
「嫌な予感しかしねぇ」
「偏見です」
「経験則だ」
即答だった。
瑠夏は少し考える。
確かに経験則かもしれない。
自分が資料を持ってくる時は大体何か起きている。
その自覚はあった。
恒一は再び大きく欠伸をした。
「まぁいい」
そして数秒考えた後。
ぼそりと言う。
「ところで瑠夏」
「はい」
「一つ頼みがある」
珍しい。
この人が自分から何か頼むのは珍しい。
思わず、少し身を乗り出した。
「なんですか?」
恒一は真顔だった。
実に真面目な顔だった。
だから少し身構えてしまう。
事件だろうか。
依頼だろうか。
何か新しい情報だろうか。
そんな期待を込めて待つ。
すると恒一は空になったカップを指差した。
「そこの会計」
間。
「持ってくれねぇか」
沈黙。
数秒。
瑠夏はゆっくり瞬きをした。
「……」
「……」
「おじさん」
「なんだ」
「最低です」
「知ってる」
堂々と言った。
瑠夏は深くため息を吐いた。
そして財布を取り出しながら思う。
やっぱり今日は事件の日かもしれない。
少なくとも。
このおじさんの金欠事件は、今この瞬間、確定していた。




