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 午後四時過ぎ。


 大学の講義が終わる時間だった。


 まだ空は明るい。


 高層ビルの窓ガラスが西日に照らされて光り、人の流れが歩道を埋めている。


 信号機の電子音。

 車のエンジン音。

 遠くから聞こえる救急車のサイレン。


 誰かの笑い声。


 街は今日も騒がしかった。


 風宮瑠夏(かざみや るか)は人混みを縫うように歩く。


 左腕には分厚い六法全書。

 胸ポケットには小さなメモ帳。

 右手には録音機。


 大学生の持ち物としては少々偏っている。


 もっとも本人は何も気にしていない。

 必要だから持っているだけだ。


 世の中には分からないことが多すぎる。


 契約書。

 保険。

 示談。

 訴訟。

 法律。

 そして人間。


 何かが起きてからでは遅い。

 だから備える。

 それだけだった。


 交差点が見えてくる。


 停止線の前で車列が止まり、歩行者信号から小鳥のような電子音が鳴り始めた。


 人波が一斉に動き出す。


 瑠夏も流れに乗って横断歩道を渡った。


 途中、公園へ視線を向ける。


 ベンチ。

 東屋。

 自動販売機の脇。


 見当たる場所を確認する。


 いない。


「……いませんね」


 小さく呟く。


 次は商店街だった。



 図書館の窓際。

 古本屋の奥。

 フードコート。

 喫茶店。


 見当がつく場所を一つずつ見ていく。


 いない。


 別に約束していたわけじゃない。

 急ぎの用事があるわけでもない。


 それでも少しだけ足取りが早くなる。


 

 ──待つのは嫌いだった。 

 いや。

 正確には違う。


 待っても来ない時間が嫌いだった。 

 ふと、昔の光景が頭をよぎる。

 

 パラソルの下。

 冷めていくアイスティー。

 向かいの空席。

 


『先輩、すぐ行きます!』

 

 そんなメッセージが残っていた。

 

 何度も時間を確認した。

 何度も通りを見た。

 何度もスマホを見た。

 

 来ると思っていた。


 だから待った。

 

 待ち続けた。

 

 そして来なかった。

 

 …。

 

 頭を振る。

 

 思い出す必要はない。

 

 今探しているのはおじさんだ。

 

 消えるような人ではない。




 たぶん。





 周辺に見渡して、考える。



 おじさんの行動範囲は驚くほど狭い。

 定職がないせいか、暇なのか。

 あるいはその両方か。


 大体その辺にいる。


 少しだけ歩調が速くなる。


 それでも、いつもの場所にいないと落ち着かなかった。



 そして本当にいた。


「あ」


 思わず声が漏れる。


 商店街の外れ。

 古い喫茶店のテラス席。


 白いパラソルの下。

 そこに見覚えのある男がいた。


 新聞。

 空になったコーヒーカップ。


 椅子に深く腰掛けた中年男。


 そして昼寝。

 完全に昼寝だった。


 顎を少し上げたまま眠っている。


「いました」


 安心したように呟く。

 

 それだけのことなのに。

 少しだけ肩の力が抜けた。

 

 いつもの場所にいることが。

 なぜだか少し嬉しかった。 


 ……変なの。


 男は目を閉じたまま口を開いた。


「……なんだ」


 少し間が空く。


「もうそんな時間か……?」


 声が眠そうだった。


 瑠夏は首を傾げる。


「起きてたんですか?」


「今起きた」


「それは起きてないと思います」


「そうか」


「そうです」


 男――鷺森恒一(さぎもり こういち)は欠伸をひとつした。


 まるで猫だった。

 やる気のない猫。


 元探偵らしい。


 本人は否定している。


 瑠夏も半分くらいしか信じていない。


 ただ妙なことだけは知っている。

 このおじさんは怠け者なのに妙なことによく気付く。


 そして面倒事を嫌うくせに面倒事に巻き込まれる。


 本人の意思とは関係なく。


 恒一は目を擦りながら瑠夏を見上げた。


「で」


 短い一言。


「何か事件か」


「まだ分かりません」


「証拠か」


「あるかもしれません」


「なるほど」


 何もなるほどではない。

 瑠夏は空いている向かいの席へ腰掛けた。


 鞄からクリアファイルを取り出す。


 恒一はそれを見て露骨に嫌そうな顔をした。


「帰るか」


「まだ何も話してません」


「嫌な予感しかしねぇ」


「偏見です」


「経験則だ」


 即答だった。


 瑠夏は少し考える。


 確かに経験則かもしれない。


 自分が資料を持ってくる時は大体何か起きている。


 その自覚はあった。


 恒一は再び大きく欠伸をした。


「まぁいい」


 そして数秒考えた後。


 ぼそりと言う。


「ところで瑠夏」


「はい」


「一つ頼みがある」


 珍しい。

 この人が自分から何か頼むのは珍しい。


 思わず、少し身を乗り出した。


「なんですか?」


 恒一は真顔だった。

 実に真面目な顔だった。

 だから少し身構えてしまう。


 事件だろうか。

 依頼だろうか。

 何か新しい情報だろうか。


 そんな期待を込めて待つ。


 すると恒一は空になったカップを指差した。


「そこの会計」


 間。


「持ってくれねぇか」



 沈黙。


 数秒。




 瑠夏はゆっくり瞬きをした。



「……」


「……」


「おじさん」


「なんだ」


「最低です」


「知ってる」


 堂々と言った。


 瑠夏は深くため息を吐いた。


 そして財布を取り出しながら思う。


 やっぱり今日は事件の日かもしれない。


 少なくとも。


 このおじさんの金欠事件は、今この瞬間、確定していた。

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