表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/16

まとめ


 本来、ドストエフスキーについて語るのであれば「カラマーゾフの兄弟」や「悪霊」について語らなければ手落ちになるだろう。しかし、今の僕がドストエフスキーについて語れる事は大体、これぐらいの所であるように思う。それでは最後に、その点についてまとめて終わる事にしたい。



 ① 物語の発生は全ての物語が鳴り止んだ「後」の事である。また、物語の発生には自意識が深く関与する。自意識が全てを個人の脳中に引き受ける事により、最初の物語の萌芽が生まれる。


 ② 自意識そのものは空間的なものであって、それ自体は限界を持たない。従って、時間軸による起伏ーーー通常の物語性は生まれないか、非常に生まれにくい。だから、そこに時間軸を導入する事が必要になる。また、自己意識そのものを眺めるもう一つの目が導入され、この自意識そのものが対象化されなければならない。それは永遠に続く「1、2、3、4、5、6………」を「∞」と対象化するようなものである。そしてそう定義する事によって、それ自体を一つの客体として物語性の軸の中に『主人公』という形で導入する事ができる。



 ③ 時間として完成した物語には起伏がある。そこには何らかの主人公の変化や体験がある。そしてドストエフスキーの場合、あらゆる体験、あらゆる経験や現実事象が全て主人公の脳中で起こっていたので、主人公はいわばそれを「取り戻すために」、物語の中を時間に沿って動く。だから、ラスコーリニコフは常に時間の中を逆行するがゆえに、個性ある現代の物語を手に入れる事ができたとも言える。それは、先に殺人という結果を得てから、過程をさかのぼってたどっていくという、それ以前の物語とは全く違う構造の物語である。


 ④ 物語の起伏そのものは、意識の地上からの離反→地上への復帰という方向へ動く。その場合、地上という概念と、ドストエフスキーの大衆賛美とはほとんど一致する。世界から遊離した意識は、世界から遊離したゆえにその意味を理解する。我々がその日常性を理解する事が可能なのは、我々が非日常的空間、非日常的世界をくぐり抜けたがゆえなのだ。したがって、この弁証法的運動に、ドストエフスキーの物語の本体がある。


 ⑤ 最後の肯定的結論、最後の真理、千年至福に意味があるのは、徹底した懐疑、否定を経るがゆえである。絶望のない者には幸福はない。生きていることの喜びを噛みしめる事ができるのは、死以上の病ーー『絶望』を辿った者のみである。そしてこの絶望は、ドストエフスキーにおいては極めて現代的な事に、ラスコーリニコフという自意識過剰の青年の脳中で起こる。


 ⑥ ドストエフスキーの小説において、『他者』と出会う事ができるのは、地上の外、人々の秩序の外側においてである。ラスコーリニコフは殺人犯であり、ソーニャは売春婦であった。しかし、だからこそ、二人は出会う事ができた。現代的な世界では、人間とは、「人間であるとされたもの」である。しかし、それは定式化された概念であり、共同観念であるがゆえに、個人としての独立性を欠いている。人が人になるには、最終的にはこの世界の外側、秩序の外側に出なければならない。自分以外の本物の『他者』に出会う事ができるのはその領域においてのみである。しかし、その領域から最終的にはまた、地上に帰ってこなければならない。秩序の外で得たものを持って、山上で得た真理を持って人は街路に帰らなければならない。ブッダのように。だから、シェストフのように、秩序の外にとどまれと宣言するのは、ドストエフスキーの半面しか言い当ててはいない。



 以上、僕の言いたい事をざっとまとめてみた。例えば、ミハイル・バフチンはドストエフスキーの作品のポリフォニー性を指摘する。もちろん、バフチンの開拓した領域とその歩みは極めて偉大だろう。しかし、バフチンの評論には物語の時間性についての理解が欠けている。それに、いくらポリフォニーと言っても、結局の所、それを統御する作者の精神は一つである。作者が一人一人の違う精神を統一する心を持っていず、多重人格者のように存在していたなら、あんな作品は書く事ができないはずである。だから、ポリフォニーの奥になお、それまでの(例えば、トルストイ的な)作品を統括する真理とは全く違う真理を見つけ出そうとする事は全く妥当であると思える。しかし、バフチンの槍はそこまでは届いていないように見受けられる。


 以上が大体、今の僕がドストエフスキーについて言及する事ができる全てである。僕個人としては、一年の評論活動の集大成にしたいと思ってこの原稿を書いてきた。僕は「神聖かまってちゃん」というバンドに非常に衝撃を受け、感銘を受けて、自分の芸術活動をスタートさせたわけだが、そこでもやはり、個人の自意識は問題になっている。「神聖かまってちゃん」の本質は『叫び』である。それは自己意識の爆発による、世界への最初の第一歩、その抵抗の歩みである。そしてそれは丁度、「地下室の手記」と同じような叫びである。世界に対する絶えざる抗言。しかしなぜそれが『叫び』なのかと言うと、世界はもうすでに観念化しており、人々は『共同声音』となっていた。そして、それに対して個人が抵抗するとするなら、その人々の『共同声音』そのものに抵抗する、もっと巨大なシャウトが必要だったのだ。人々は今や、一つの巨大な集塊、意見する一つの声である。その声はメディアを通じて絶対の至上命令として世界に響く。しかしそれに対して弱い個人が叫ぶ事、抵抗する事、その事に、極めて重大な哲学的、文学的な意味が存在する。だから、全て物事の第一歩とは、少年の、恥辱にまみれた切ない心の反動から生まれると言う事もできる。もちろん、少年云々というの比喩であり、少女でも構わないが。


 しかし、その先にはまだ道がある。その事をドストエフスキーはすでに僕達に示していくれた。物語には先がある。道には続きがある。人々の歩みが途絶えたところが、我々の歩むスタート地点である。声はやがて大人になり、一つの対象、客観物とならねばならない。いや、世の優れたアーティストは自分自身を発掘する事から始めて、次第に自分を対象化する過程に入らなければならない。そしてそこで芸術家ははじめて、自分自身の生涯を俯瞰で見下ろす事ができるようになる。世のノウハウ本に書いてあるように、物語とは手本を見ながら書き写すなにものかではない。それは自身が歩む道であり、物語が整備されていない泥濘を歩む事によってできる道跡の事である。「僕の前に道はない 僕の後ろに道はできる」 …これは真実であり、ドストエフスキーはまさにそういう道を歩んだ。しかし後世の人間は都合の良いように解釈する。後世の人間はその人間がその道を「作った」にも関わらず、それをすでにできていた道を「辿った」と解釈する。概ねの批評家らがやっているのはそういう仕事だ。思えば、楽な仕事である。


 ドストエフスキーの物語はまさに地獄をくぐり抜ける行為そのものであった。現在の享楽至上主義、なんでも娯楽と捉える心性、無邪気に幸福を求め、そして安易な幸福を得ようとするがゆえに不幸に落ち込んでいくその顛末、そうした現代の一般性とドストエフスキーの物語は全く乖離してる。それはシベリアの牢獄から始まった地獄の道であり、そしてそれがゆえに、天上の王国に入る事を許された一本の道である。人々はシベリアの牢獄など、人外が済む魔の巣窟としか思わないだろう。ドストエフスキー本人も牢獄に入る以前はそう感じていたかもしれない。しかし、そこにはいたのは自分と同じ人間であった! 人は牢獄に入っても人間である。残忍な犯罪を犯した死刑囚ですらも、やはり一人の人間である。こんな簡単な事実をドストエフスキーは「知った」。ここで「知った」という意味は肌で直接感じたという事であり、魂で理解したという事である。しかし現代人はそれを薄っぺらな頭脳だけで「理解した」という風に誤解する。そして実はそれは、ラスコーリニコフも全く同じである。ラスコーリニコフは最初の現代人である。だから、ラスコーリニコフは現代の僕達と同じように、その薄っぺらな頭脳と、深淵な魂の間を移動する、そうした物語を辿らざるを得なかったのだ。


 

 ドストエフスキーの小説は、丁度、セルバンテスの「ドン・キホーテ」が近代小説の曙だったように、現代文学の始まりそのものだ。従って、ドストエフスキーは現代人たる我々と同じ感覚をたくさん有している。それは百年以上前の物語なのに、未だに我々には、まるで自分の事のように感じられる。その主人公が体験する軌跡は、まさに我々の辿るべき軌跡だと、我々には感じられる。それは何故かと言うと、彼がラスコーリニコフという典型的な人物を創造する事に成功したからだ。そしてこの成功への道は、実に長い苦闘の歴史であった。今は「中二病」だの何だのと、個人の自意識や苦悩を軽視する見方が相変わらず、強い力を持っている。人は外面的な動機ある苦悩にはたやすく同情するが、動機なき真の苦悩に関しては全くといっていいくらい理解できる力を持っていない。


 ドストエフスキーは全く、現代的な作家であり、その物語は現代人全てに開かれている。それは一部のインテリ達が自分の地位を高める為に高く掲げようとする、そのような偶像物ではない。偶像は偶像であるという性質によってやがて打ち砕かれるだろう。ドストエフスキーの物語は全く我々に開かれている。我々は今、メディアの発達によって空間化した世界に生きている。そこでは時間的な概念は存在せず、人という存在は、言ってみればシステムの一つの歯車として機能するだけの非人間的な存在である。そして今や、人はその事を心から承認すらしている。人々は今や、自分達の給与や待遇についての改善については求めるが、しかし、自分を一人の人間として扱ってくれとは社会に対して要請する事を思いつきもしない。人は金と物との間に挟まれた中間物であり、我々の理想はもはや快楽と享楽のみになった。そしてそこで現れる物語は全て、ノウハウ本から切り取られた体の良い仮の物語である。それらの物語は全て、世界が我々に用意した見かけだけの綺麗な玩具にすぎない。我々はその玩具で遊んで生涯を過ごす。そして一番良い玩具を持っている人間が一番幸福とされる。そういう世界に我々は生きている。そしてこういう世界は、ラスコーリニコフの脳中のように、空間だけがあって、時間が存在しない。そこには過程はないが結果はある。いや、そこにはもう結果すら存在しない。我々はむき出しの真理を社会からつきつけられ、それを受容する事を強制されるが、しかし、自分自身の真理を作り出す事だけは許されていない。我々に自分の物語は存在しない。しかし、与えられた物語だけはある。しかし、そんなものはゴミみたいなものである。少なくとも、この人生を自分の足で歩こうとする者にとっては。


 従って、今や世界はラスコーリニコフ以前に戻っているのである。ラスコーリニコフが屋根裏に寝そべって考え事をする「以前」に我々はいる。我々は孤独ですらないし、苦悩すらしていない。我々はすでにできあがっており、我々には何一つ学ぶべき事もなく、成長すべき事もない。ただ与えられたものを飲み込む事だけが強制されている。


 しかし、我々の物語はここから始まらなければならないだろう。全ては、終わった所から始まるのだ。おそらく我々はまた、ラスコーリニコフのように、孤独に、貧しくなって、汚らしい部屋で一人考え事をする事からはじめなければならないだろう。もちろん、そこから殺人という凶行へ至るのは間違っている。絶対に。しかし、いずれは我々も何かの歩みを始めなくてはならないだろう。おそらくは、止まっているよりは歩き出した方がマシなのだ。ーーたとえそれが、過ちを含んでいたとしても。


 我々の世界は今やこのように空間化されている。そこに時間性を生み出す事はおそらく無限の苦痛を伴う事となるだろう。ラスコーリニコフのように。そして、ドストエフスキーこそはまさに道なき道を歩いた人物であった。そしてその歩みは極めて現代的であるがゆえに、僕達に実に多くのヒントを、いや、透徹とした一つの答えを差し出している。しかし、我々はその答えを一つの問いに変える事から歩き始めなければならないだろう。「罪と罰」のエピローグで示した物語を、作者は僕達に描いて見せてはいない。しかし、それは我々が歩まなければならないその余地を、作者が残しておいてくれたものと考える事もできる。いや、そう考えたほうが我々が歩き出すのに好都合である。


 では、この論考はここで終わる。僕は現代から見たドストエフスキーの意味を、その価値を自分なりに立体的に再現したものと信じる。そしてこの論考を人がどう受け取り、どう感じるかは人次第である。もちろん、僕もこのまま無名のままに、歴史の闇に葬り去られてしまうかしれない。しかし、今までの所、とりあえず僕は持てるだけの力を放出した。そしてその結果が、誰かの問いに変わる事を僕は願っている。

 物語はまだ続くのだ。無名の領域を経ても、なお。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ