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 少し戻って、ラスコーリニコフがソーニャに殺人を犯した事を告白する場面について考えてみたい。ラスコーリニコフはソーニャの薄暗い部屋で自身の罪を語る。ラスコーリニコフがラズミーヒンでもドゥーニャでもなく、ソーニャに自身の罪を語るのは、ソーニャがラスコーリニコフと同じく、世界から「疎外」された存在だからである。二人は殺人犯と売春婦という、世界のカテゴリから外れた人間外の生き物として、暗い部屋の中で面会する。


 そしてこの時、ラスコーリニコフがソーニャに自分の罪を話す時、ラスコーリニコフはソーニャを秤にかけていた、とも言う事ができる。つまり、僕達がーーー例えば、誰でもいい、知人や友人に突然、殺人の罪を告白されたとしたらどうするだろう? 僕達が、自分の恋人、友人、家族らに、いきなり「私は〇〇を殺しました」と告白されたら、僕達はどういう反応を取るだろうか?


 僕達の大半がどういう反応を取るのかは、考えないでもすぐに想像する事ができる。我々は、その人間が罪を告白した瞬間、その人間を、僕達と同じテーブルから外し、そして僕達とは全く違う異質な、人間外の存在へと貶める事だろう。間違いなく。それは世間の残酷なニュースに対する人々の反応の仕方を見れば、一目瞭然である。つまりそこにおいて起こっている全ての事象は、我々が社会の共同性というそのテーブルによって支えられている事により始めて成り立つ何かであって、このテーブルから外れてしまえば、その人間はすぐに人間ではなくなる。確かに、この人物は話もし、感情があり、表情もあり、自分の理念や思考を持ち、服を着て、店で食料やら何やらを買うごく普通の人間かもしれない。しかし、我々の意識の中ではこの人物が罪を犯したという事を告白したり、その事が判明した瞬間に、その人物は完全に人間ではなくなる。この人物は完全に人間ではなくなる。この人物はただちに、獣以下の、醜い「非ー存在」である事が認識される。それは、もはや存在外、存在以下の存在でしかない。


 そして、この最も悲劇的な例が冤罪事件であり、また、こういう非人間こそが、我々の社会の頂点を占める可能性も考えられる。不思議な事に、我々はこのテーブルから外れた存在を非人間として貶めるか、あるいはそれとも、この非人間を、全く人間的でない神のごとき存在として祀り上げるという事もありうるのだ。ラスコーリニコフはもちろん、その事を意識して、自分の理屈を構築していたのだろう。毛沢東、スターリン、ヒットラーは表情を失った非人間的な神であった。神故に、我々が崇める対象となった。


 もし、友人や恋人や家族が僕達に罪を告白したなら、僕達はおそらく苦笑いしつつ、そして後ろずさりながら、真っ先に自分が殺されないように気を配る事だろう。そして目の前の人物を非人間のポジションに入れてから、自分達の人間としての生を続けようとするだろう。生きるという大抵そんなものだ。しかし、ソーニャはそれとは逆の行動を取る。ソーニャはラスコーリニコフを強く抱きしめる。この時、こんな行動を取る事ができるソーニャという人物はどんな人間なのだろう?


 この時、ソーニャの背後に射しているのは当然、「地下室の手記」のリーザである。ソーニャの姿はそのままリーザの姿と重なる。しかし、リーザよりも更に一歩進んだ存在である。


 小林秀雄はソーニャは実は、ラスコーリニコフの創作であると言っている。実にうまい事を言ったものだ。これと同じ事を、ドストエフスキーの晩年の妻、アンナに対しても言う事はできる。アンナの回想録を読めばわかるが、アンナはドストエフスキーによって創作、あるいは作り替えられた存在であった。そしてそういう事が幸福か不幸なのかはなんとも言い様がない。ただ、アンナはドストエフスキーという強烈な天才によって、自分自身の人生をねじ曲げられた存在である事は間違いない。おそらくは、病身で借金持ちで偏屈な天才作家などと結婚するよりも、もっと普通の穏やかで、それなりの地位にあるような青年と結婚した方が幸福な人生を送れた事だろう。僕の考えでは、キルケゴールやカフカが婚約者と婚約破棄したのは、そういう所にひっかかりがあった。彼らは他人の運命をねじ曲げる事を望まなかった。自分などと結婚するよりも、もっと普通の人と結婚した方がいいではないか。自分には、一人の人間としての責任、社会的地位を引き受ける事ができない…。結婚する事と付き合う事とは別個の事である。結婚には社会的責任、つまり大人になる事が求められる。つまり、そこで人は青年の自由を失わなければならない。そして他者ーー知力や精神力において自分ほどではない相手の女性に対して、そう望まなくとも結局は、自分の影響力をふるう事になる。他人に対して影響力を振るうという事は悪である。少なくとも、自由にとっては。しかし、自由というのは、最後には「より小さな悪」という概念に帰着しなければならない。我々の精神の自由は最後には地上に帰着しなければならないのである。しかし、彼ら二人は自由を信奉する為に、地上に帰る事を拒んだ。それによって二人は独身のままに死んだ。


 一人の女性が運命的な相手と出会い、自分の人生をねじ曲げられるという事がいい事なのか悪い事なのか、という事は我々には極めて難しい問題だと言える。ある凶悪な犯罪のルポルタージュを呼んでいると、そこに出てきたごく普通の女性が、運命的に悪魔的な男と出会って、そしてその男に逆らえずに共犯者となっていく様が描かれていた。もちろん、運命にはそういう事がある。だとすると、ドストエフスキーと出会ったアンナは、その生涯をドストエフスキーという怪物によって不幸にされたのか、それとも幸福に祝福されたというのか? そういう事は簡単に結論をくだす事ができない。しかし、普通に生きる事、普通の意味での幸福という事、そういう幸不幸を越える事に人生の意味というものがあるのではないだろうか。だとすると、ドストエフスキーの借金も神経質で苛立たしい性格も、その先にある何かの為に、彼らが互いに引き受けた代償だったと考える事は不可能ではない。そして我々は自分の親友にドストエフスキーが「いない」という理由によって、これら夫婦が協力して作り上げたものを離れた場所から享受する事ができるのだ。彼らが幸か不幸かは判断できないが、彼らが一つの運命であったと言う事はできる。だとするとそれは犯罪者とその伴侶の先にあるものとは何が違うのか。どちらも、社会からドロップアウトした疎外された存在ではあるに違いない。しかしそこに理想の有無の差がある。しかし、乞食が世界への理想を抱いているか、世界に対する復讐心を抱いているか、我々には簡単に判別できない。乞食は、ただ乞食であるとされる。それが『社会』だ。


 ソーニャがラスコーリニコフを抱きしめ、彼を受け入れる瞬間、我々は彼らの世界と我々の世界が完全に隔離されたという事を知る。もし、世界に彼岸と此岸との二種類があるとしたら、彼ら二人は彼岸へと行き着いた存在である。そして我々は一般市民であり、秩序を守ろうとするが為に、此岸に立ち止まる。そこにはシェストフ的な意味での「深淵」が存在する。人が他者と巡りあう事ができるのは彼岸での事であり、此岸ではない。なぜなら、此岸では、我々の一般秩序が個人としての独立性をはっきりさせる事を拒んでいるからだ。我々は常にぼんやりとした共同観念の中で生きている。そしてソーニャは未だ、この殺人者を拒否するその権利、その可能性を保持していた。しかし、彼女は何という考えも打算もなく、ただ単純に愛の力によって此岸を捨て去り、彼岸にいるラスコーリニコフを抱きとめるのだ。


 ソーニャは愛の力によって、ラスコーリニコフの理性、その理知の力を乗り越える。この言葉がどんなに陳腐であろうとそれは真実である。現在この社会では「愛」という言葉は徹底的に陳腐な、お飾りだけの言葉となったが、それは我々の存在そのものが陳腐化し、我々の愛そのものが徹底的に陳腐であるからである。しかし、真の愛は全てを越える。この場面でソーニャは、「地下室の手記」のリーザの行動をなぞっている。そして「地下室の手記」では、主人公の孤独は、ただ世界に対する主人公の嫌厭という形によって表現されていたが、「罪と罰」においては、殺人による孤独という時間軸の因果関係が導入されている。そしてこの事が作者の成長の証である。そしてラスコーリニコフはソーニャに罪を告白し、それを受け止められる事から、徐々に更生への道を辿る事になる。彼は自分の理知とは違った、我知らずの領域に引っ張られているのであり、彼はそれが何故かを説明できない。だが、全てを説明し得たという理性によって体験された現象であるからこそ、ラスコーリニコフの出会う事には一つ一つ意味があるのだ。この点を間違えてはならない。体験はそれだけでは意味はない。真理に意味が存在するのは、徹底した懐疑論をくぐり抜け、その試練を経たからなのである。

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