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こうして事件は起こった。二人の人間が斧で惨殺された。血は流れた。しかし、事態に何一つ変わらなかった。
『結果』が先に起こり、そして『過程』がその後に起こった。ラスコーリニコフの心中には、彼が予期していなかった心理的疎外が現れた。彼はもう二度と、誰とも、普通の世間話、ちょっとした愉しげな会話、そんなものをできないであろう。彼はその事をまざまざと直感する。ラスコーリニコフの内面において起こるこの事実は、殺人がもたらした結果であった。彼は最初に全てを予期し、反芻していたために、最初に現実を飛び越してしまっていた。彼の頭脳は先走った。頭脳はどこまでも浸潤し、一人どこまでも走る。しかし、その後で、存在、そして肉体が、のろのろとこの頭脳なるものを追いかけ、そしてこの者に復讐する。置き去りにされていたその仕返しだ。頭脳はただ、肉体の不在を感じる。あるいは疎外された己自身を感じる。社会から見捨てられた個人。しかし、『社会から見捨てられた個人』とは人々にとっては頭脳上の出来事、ただの観念やぼんやりした観想でしかない。だが、ラスコーリニコフにとってそれは感覚なのだ! 肉体的な、まざまざとした感覚なのだ。それは人々の頭脳に宿る空想的観念とは違う。ここで、ラスコーリニコフははじめて自分の肉体を感じる。人間は世界から放逐されなければ、自分という存在を発見できない切ない生き物なのだろうか? …間違いなく、そうだ。人は世界の内にいる時、海の中の一滴の水のように自分を知らない。ラスコーリニコフは世界から見捨てられてはじめて自分自身を発見する。それはまるで、病にかかって自分の肉体をはっきりと意識するようなものだ。そこで始めて、ラスコーリニコフは孤独になる。しかし、この孤独はこれまで存在していたどんな孤独とも違う。それは、人類という群れから追い出された獣の嘆き悲しみなのだ。
この獣はむせび泣き、悲しむ。しかし、驚く事に、その嘆き悲しみさえ、このラスコーリニコフという人物の観念によって封じられてしまっている。この時、シェイクスピア作品の登場人物であれば、ラスコーリニコフは風雨の中で自身の嘆き悲しみを表現しきった事だろう! だが、ラスコーリニコフは自身でそれを封じていた。彼は観念で自身の存在に蓋をしていた。ここでこの人物は真っ二つに分裂してしまう。ラスコーリニコフはもがき苦しむが、そのもがき苦しみがストレートに表現される事はない。彼はある時から感情を封殺してしまったので、彼はまるで遠景から響いてくる雷の音を聴くように自身の感情の響きを聴く。しかしながら、その『存在の太鼓』は何よりも強く、彼の神経を打つ。ラスコーリニコフはそれに耐えられなくなる。そして、彼は最後にはソーニャに辿り着き、自白する事になる。自分が二人を殺したのだと。しかし、彼は自分が何故それを告白しなければならないのか、それが依然として理解できないのでいるのだ。
従って、この殺人事件は異様な事件である。それは余りにも異様である。そんな事は分かっている、と人は言うかもしれない。しかし、僕は「わかっていない」と抗言する。断固として。人は、ある事件に対してすぐにわかりやすい因果関係を想定する。それはあるいは親のせいかもしれず、環境のせいかもしれず、あるいはそれは経済問題のせいかもしれない。「心の闇」なるものが昨今の若者達の心中には見られるせいかもしれず、ある種のイデオロギーが人に宿るからかもしれない。あるいは、カルト教団に入信して洗脳されたからだろうか? それらはいずれも正しい。しかし、いずれも「正しくはない」。人間にはその存在そのものが罰せられている領域というものがあるものだ。人間というものは、その存在自体が一つの闇である。心の闇なるものを言う識者が心の闇を抱えていないなら、その者は人間ではない。なぜなら、全て心というものは闇そのものであるからだ。そして、闇だけが光を感受する事できるのだ。闇と悪への鋭敏な神経は、それだけに一層、光を強く感じ取る事ができる一つの器官である。そしてドストエフスキー自体がそうであった。彼は悪人ではなかったが、善人というわけでもなかった。しかし、彼が自身の神経の苛立ちや、他人に対するルサンチマンや憤懣を誰よりも強く感じ取っていた人間だという事は確かだ。彼は人を傷つけ、そしてその分、いや、それ以上に彼自身が傷ついた。彼はそうやって自分の感受性を作り上げていった。そしてそれゆえに、彼の中にキリスト教的理想が現れる事になる。光を得るには、闇を研ぎ澄ます事が必要である。ただ光の中にぼんやりと佇んでいる者には、何一つ理解し、感受できる資格はない。
「罪と罰」に起こるこの殺人事件はよく考えれば、その因果関係が不明だ。ラスコーリニコフの最後の改心も、また、彼がソーニャに罪を告白さねばならない理由も、はっきりとは示されていない。これに因果論者は不思議がるかもしれない。彼らは、ある出自や民族性や環境や家族に、犯罪や悪の根源を発見して、『自分は彼らと違う』というその根拠を見つけさえすれば、それでもう大喜びなのだ。しかし、犯罪者も人間である。これほど辛い事実がこの世にあるだろうか? だから、ラスコーリニコフはその矛盾を自分の存在で受け止めたのである。あるいは、受け止めざるを得なかったのだ。
哲学においては真理とは、論理に還元できない、最終項として示される。かつての理性的な哲学者達が素朴に神を信じていたという事、あるいは理知的な科学者が『無知蒙昧にも』神を信じていた事、その事は現代人たる僕達には不思議に見えるかもしれない。だが、論理の橋を徹底して渡ると、その先に何があるのか。そこには論理ならざる場所があり、それは感覚、あるいはーーー言葉では表現し得ないものである。ラスコーリニコフは物語の最後で改心する。彼はシベリアの獄中ーーあるいはその収容生活の中で、ふいに自分自身を更生させるきっかけを掴む。それは様々な事、様々な思い、観念、自分自身への根拠付けが過ぎ去った後に現れるある瞬間であった。ラスコーリニコフはシベリアで、目の前の草原を、「檻の外」の早朝の草原を眺める。そこには遊牧民たちが昔ながらの生活をしており、彼らには自由がある。そして、ふいにラスコーリニコフに「その時」が訪れる。彼は改心する。彼は目覚める。そして隣のソーニャの手を優しく握る。
こういう時に、何故この人物が改心したのか、その理屈や因果関係は不明である。しかし、人生とはそういうものではないだろうか? しかし、人生とはそういうものだという事に我々が気付く為には、真っ暗な理性の中をひたすらに歩く、その歩みが必要なのかもしれない。これは真に恐ろしい事だ。人間が理性あらざるものに、つまりは不可解にして不可思議な真実にたどり着くには、徹底した懐疑論をくぐらねばならない。懐疑論は試練である。しかし、それは試練であるとみなした途端に、安易な結論と化する類の試練である。人は懸命に生きなければならないが、それはつまり悪戦苦闘するという事でもある。しかし多くの人にとって、「自分達は悪戦苦闘している」というバッヂさえ手に入れられれば、もうすぐにその苦闘はやんでしまう。彼らは止まっているが、口だけは必死に走っているかのように言う。人間というのはそういうものかもしれない。しかし、その先に答えがあるとするならーーそれは問いを生み出すものだけが作り出すことのできる解答であるに違いない。そして、多くの人はすぐに半端な解答にたどり着くために、自ら問いを生み出す事はできない。ラスコーリニコフは自ら迷いの中に入ったが故に、答えにありつく可能性が生まれ、最後にそこへ入り込んだ。ここに因果を説明するとするなら、かろうじてそう言う事ができる。しかし、これはほとんど何も言っていないに等しい。
シェストフはその虚無主義でもって、ドストエフスキーの全作品を「地下室の手記」に押し込めようとしている。それをするのはシェストフの勝手だが、しかし、それは明らかに間違っている。(自身、気づいていただろうが) ドストエフスキーにとって結局、「美にして崇高なるもの」は形を変えて彼の手に帰ってきたのだ。ドストエフスキーは決して、「地下室」の虚無主義で終わった人間ではない。そこには弁証法的発展がある。シェストフは自分を語るために、ドストエフスキーの作品をして語らしめているがしかし、それはドストエフスキーの半身しか語り得ていない。そしてもう半身を語る事ができなければ、それは手落ちである。そしてその残りの半身こそが、ドストエフスキーが後年に辿り着いた新たな理想、新たな「美にして崇高なるもの」、あらたな人生の肯定的な面なのである。しかしその肯定的な面とは、理性と意識、その階梯における闇から逆説的に炙りだされる類のものであって、決してそのままカメラのレンズに収まるものではない。だから、ドストエフスキーはその作品において、肯定的な場面をその長大な作品ではほんの一瞬見せるに留まっている。勝利の栄光、最後の真理に対する声、歓喜の歓声はそれほど長続きするものではない。しかし、それはほんの一瞬だとしても、これまでの暗い道のりを明るく輝かす最後の光であり、そしてそれゆえに、闇や虚無に意味を与える事ができるのだ。これは相補的な関係になっており、どちらも究極的に重要である。そしてこの点をシェストフは、自身の説を語るために、意識的に見落としている。




