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物語とは時間性である。そこには起伏がある。そしてドストエフスキーは「地下室の手記」から「罪と罰」で、そこへのジャンプアップを果たした。そこで始めて、自意識の空間性を、事件という時間性へと還元する事に成功した。…あるいはこれは仮定だが、自己意識というものは各々の時代で、その限界が定められているのかもしれない。それはまるで、無限すらも数学的に「∞」と規定できるかのようなものだ。そしてこの「∞」が歩き出す事で物語は歩み出す。
夏目漱石にとってこの無限というのは、「それから」の主人公代助の内面、その頭脳とイコールである。代助はその内面に社会の無限を背負う事から、一歩を歩き出す。代助は、その後、不倫行為という自分自身の規則とも矛盾した事をやりだす。この辺りはラスコーリニコフと似ている。代助にとっては自身と矛盾する行為をする事が彼にとっての「自然」なのであった。漱石は代助に、「何故、自分はもっと早く『自然』の道に従わなかったのだろう?」と述懐させる。この思考法はアジア的なものであり、ドストエフスキーのキリスト教的な結論とは若干ニュアンスが違う。しかし、本質的には同じ事である。ドストエフスキーにしろ、漱石にしろ、時代の限界を越える為に、限界そのものを脳髄に引き受けた人物を動かす事によって、時代が課した限界を踏み越えたのだった。人は、矛盾した存在である。そしてその矛盾を確かめる為に「他者」が必要なのである。
僕は先に、「地下室の手記」において、はじめてドストエフスキーの内向的な主人公に「他者」が現れたと書いた。それは事実である。ある人間に他者が現れるのは、ディケンズ風の他者ばかりの小説の内部において、ではない。それは徹底した孤独と、懐疑のその限界を越える点に現れるのであって、馴れ合いや同和、感情的反発の先に現れるのではない。そこで問題になっているのは「他者」ではない。他者の存在は全くそこでは問題になっておらず、そこで問題になっているのはただ、他者の表情や言葉や、要するに表面的なもの全てである。だが、人間には本質がーーつまり、実存が存在する。そしてドストエフスキーの小説においては、この実存、本質、その存在と、その表面的、あるいは頭脳的観念とがいつも分裂した存在として現れた。
話を元に戻そう。物語の時間性は元々、自己意識の空間性から現れたと書いた。では、僕は次にそれについて本格的に考えてみよう。
「地下室の手記」的な、あるいはニーチェ的、あるいはキルケゴール的な自己意識とは元々限界を持たない。しかし、それに時間性を与える事によって物語が生まれる。
ドストエフスキーはラスコーリニコフに一応の、殺人の因果、原因を与えている。それがラスコーリニコフの貧困であり、屋根裏部屋で孤独に、埃まみれに過ごしているその姿である。しかし、そういう原因は外面的なものである事をドストエフスキーはもちろん心得ている。
金貸しの婆さんを殺すという事実はまず、ラスコーリニコフの頭の中に空想として現れる。そしてラスコーリニコフはそれが空想である事を知っている。それが馬鹿げた空想である事、そしてもっと言うならば、殺した後で、殺した自分も殺された婆さんと同じ「虱」みたいな存在であると、そう感じるということもすでにこのラスコーリニコフは予感している。彼はおそらく全てを知っている。しかし、彼は『現実に』その問題を試してみようとする。彼は空想の中から飛び出て、本当に斧を振り上げる。
人間にはどうして過程があるのだろうか? そして、どうして人間には物語があるのだろうか? あるいは生涯というものが、その人生のコースというものがどうしてあるのだろうか? これは疑問である。もし全てが、確定された真理でガチガチに固められていたとしたら、我々は生まれた瞬間から、過去ー現在ー未来が結合した一つの時間の不在の中に存在し続ける事になる。そこでは、時間は存在しない。そして生まれた瞬間から幸福であり、また真理であり、同時に真理でないものは排除される。世界のシステムというのは絶えず広がる空間であって、時間や過程というものは存在しない。
ラスコーリニコフが何故殺人を犯したのか? 僕がその問いに答えるなら、それは空間を蹴破り、もう一度、時間を自らの内に取り戻す為、と言える。あるいは空想の中で失われた現実をもう一度取り戻すためだ、と。もちろん、こんな間違いが現実に行われたら、僕はそれを否定する。それは犯罪である。しかし、犯罪が何かを考える事は罪ではない。当たり前の事だ。
秋葉原で起こった連続殺傷事件のルポルタージュを僕は読んだ。あの加藤被告が何を望み、何を理解していなかったか。おそらく、この人物は失われた自分のアイデンティティを取り戻そうとしたのだろう。あるいは、自分を他者に見せつける事を心から望んでいたのだろう。この人間はその幼少期において、両親の教育(あるいはその不在)から、その存在を抹消されたような存在だった。しかし、それだけでは犯罪は起こらない。それは犯罪の芽にすぎないだろう。そして、それに対する絶えざるルサンチマンが、この人物の中でマグマのように熱され、噴火し、そして事件が起きた。存在しない自分を取り戻すためには、他人を亡き者にするしかない。しかし、この加藤被告は自分の存在が不在であるという事に最後の最後まで気付く事ができなかった。気付く事ができていれば、あの犯罪は起こらなかっただろう。マスコミの報道は常にいい加減だが、この人物がどれほど外面的に、「彼女」「友人」「金」に囲まれていようが、それは深い海に土砂を降ろして埋め立てようとする努力に似ている。そんな外面的なものではこの人物が満たされる事は決してなかったろう。そんな事は、ラスコーリニコフにとっての貧困と同じように外面的な事情に過ぎない。しかし、外面的な事情は事件のきっかけとなりうる。しかしそれはもちろん、事件の本質ではない。
ラスコーリニコフと加藤被告は全然違う存在だ。しかし、核の部分では似ている所がある。ラスコーリニコフが殺人を犯したのは、彼の生涯が行き詰っていたからだ。しかし、その行き詰り自体、彼が望んでいたものでもあった。ラスコーリニコフの背後には「地下室の手記」のあの叫びが隠されている。ラスコーリニコフは全てが終わった所から一歩を踏み出す。彼には時間性は失われていた。時は止まっていた。確定された真理の中で時が止まっていたか、あるいは閉塞した自分の生活の中で時が止まっていたのか。…おそらくそのいずれもが正解だろう。だから、ラスコーリニコフはこの空間を蹴破る事にした。彼は斧を持って、二人の人物を惨殺した。一人は計画通り、もう一人は突発的に。彼は二人を殺した。彼の手は血塗られた。しかし、彼の頭の中では彼の手は清いはずだった。しかしとにかくも、こうしてラスコーリニコフは、先に結果を手に入れる事に成功した。それは最低の結果だが、すくなとも結果だ。ラスコーリニコフは先に結果を手に入れた。そして、後から『過程』がやってきた。つまり、それが彼が辿った心理的過程である。殺人による、彼の存在の世界からの疎外である。ドストエフスキーは実存主義の先駆けであるとされる。この際、重要な事は、彼が徹底してアウトサイダーの個人を描く事によって、逆に、集塊化した『世界』を立体的に、逆説的に浮かび上がらせた点にある。彼は疎外された個人と、また同時にそこから見える『世界』を発見した。おそらく、秋葉原事件の加藤被告がトラックで人の波に突っ込む時、人々は一つの集塊に、わけのわからない化け物のような存在に見えた事だろう。彼は最初に世界に疎外されていた為に、それに復讐する事を決意した。そしてそれが最悪の事態となった。しかしこの、人間の根底的な疎外というものは、一人異端な犯罪者にのみやってくる問題ではない。それは我々の問題でもある。この人物を精神障害で簡単に片付けるには、我々はもう十分世界に疎外されているのだ。




