七百二十七回目
俺は、床の刻みの前に立った。
息を吸う。
――七百二十七回目だ。
二十年、意味を知らずに唱えてきた。
二年、意味を追いかけてきた。
今は、三分の二を知っている。
◇
サルの繋ぎ目へ、帰る。
――帰る。
二十年、俺は毎朝これを唱えてから遺跡に降りた。
降りる前に「帰る」と言っていた。
言葉の意味を知らずに、正しいことを言っていた。
◇
俺は、唱えた。
――シャルカディ・オム・ネイア。
床の刻みが、光った。
同心円が、内側から順に。
三本の線が、六方へ走る。
四つの弧が、順に明るくなった。
◇
一つ目。
二つ目。
三つ目。
四つ目――
光らなかった。
三つが光って、四つ目だけが暗いままだった。
◇
「マリ」
「――ひとつ、つかない」
「そうだ」
俺は言った。
「三つは応えた。……四つ目が、応えない」
俺は、その四つ目に手を当てた。
冷たいままだ。
◇
俺は、そこで考えた。
――なぜ、四つ目だけが。
寸法が四分の三。温度が違う。光らない。
三つとも、同じことを言っている。
この門は、機能していない。
◇
「マリ」
「うん」
「――これは、壊れてるんじゃない」
「じゃあ、なに」
「閉めてある」
俺は言った。
「二年二月前に、カランで見た壁と同じだ。……あれも、内側から塞いであった」
◇
その時、光が動いた。
三つの弧の光が、床を伝って四つ目へ流れた。
流れて、四つ目の手前で止まった。
止まって、消えた。
――届かない。
三つの門から、四つ目へ何かを送ろうとして、届いていない。
◇
「――足りてない」
俺は言った。
「三つぶんじゃ、四つ目を開けられない」
「よっつ、いる?」
「そう見える」
俺は言った。
「だが、四つ目を開けるのに四つ目が要るなら、永久に開かん」
◇
俺は、そこで止まった。
――違う。
順が逆だ。
俺は、床の光をもう一度見た。
三つの弧が光っている。
その光は、外から来ている。
◇
「マリ。この三つは、どこから光ってる」
「――そとから」
「そうだ」
俺は言った。
「この部屋の外だ。……三つの門が、それぞれ別の場所にある」
「どこ」
「一つは、カラン村だ」
◇
俺は、指を折った。
「二年二月前に、俺が開けた。……あれが一つ」
「もうひとつは」
「柱の下だ」
俺は言った。
「二年二月前、あれが自分で開けた。……あれが二つ目」
「みっつめは」
「――今日だ」
◇
「きょう」
「浅い家の蓋だ」
俺は言った。
「俺が今夜、ここへ来るのに開けた。……あれが三つ目だ」
俺は、床を見た。
「三つとも、俺が関わってる」
◇
マリが、少し黙った。
「ハルト」
「なんだ」
「じゃあ、よっつめも」
「――俺が開けることになる」
俺は言った。
「たぶんな」
◇
俺は、その四つ目に手を当てたまま考えた。
開け方が分からない。
句は使った。今日はもう使えない。
――日に一度。
三百年前の門番が書き残した規則だ。
二年二月、俺は一度も破っていない。
◇
俺は、野帳を開いた。
今日の欄に、線を引く。
一。
それだけだ。
破れば、何が減るか分からない。
守れば、今夜は開かない。
◇
その時、上から二度目の音が来た。
さっきより重い。
水が、大きく波打った。
天井から、細かい砂が落ちてきた。
――量を増やした。
◇
俺は、天井を見上げた。
砂は、まだ落ちている。
石は落ちていない。
だが、次はどうか分からない。
「マリ」
「うん」
「――時間がない」
◇
俺は、そこで初めて迷った。
規則を破るかどうか。
二年二月、俺は一度も破らなかった。
守ったから、千二百語を渡せた。
破れば、その全部が無になるかもしれない。
◇
「マリ」
「なに」
「――どう思う」
彼女は、少し考えた。
いつも通り、一度上を見た。
「ハルト」
「なんだ」
「きく、ひとが、ちがう」
◇
「――どういう意味だ」
「そのきまり、だれが、つくった」
「三百年前の門番だ」
「その、ひとに、きけないでしょ」
彼女は言った。
「でも、オルソには、きける」
◇
俺は、手を止めた。
――そうだ。
規則を作ったのは、三百年前の人間だ。
だが、規則が守っているのは、オルソの側の何かだ。
なら、訊く相手はオルソだ。
◇
「マリ。だが、訊くのに句が要る」
「いらない」
彼女は言った。
「かず、つかえば、いい」
彼女は、床を指した。
「にねんにかげつ、そうやって、はなしてきた」
◇
俺は、その通りだと思った。
句は、扉を開けるための鍵だ。
話すのは、数だ。
俺は、杆の石突きで床を叩いた。
一度。
◇
それから、間を置いて、二度。
――一と、二。
「今日、一度使った。二度目を使っていいか」
伝わるかは、分からない。
二年二月で、俺はこの相手に「訊く」形を渡してある。
◇
床の光が、動いた。
三つの弧が、順に明滅した。
三度。
それから、止まった。
俺は、その並びを読んだ。
◇
――高、低、低。
二年前、初めて聞いた形だ。
あの時は、意味が分からなかった。
今は、分かる。
これは、〈マダ〉ではない。
◇
「マリ」
「――ハルト」
「これは」
俺は言った。
「『違う』だ」
◇
「ちがう」
「そうだ」
俺は言った。
「二年で、三十回くらい聞いた。……俺が間違った形を渡したとき、必ずこれが返る」
俺は、床を見た。
「訊き方が、間違ってる」
◇
俺は、その場に座った。
上で火薬が鳴っている最中に、座った。
急ぐときほど、座る。
二十年、崩落の現場でそうしてきた。走る奴から先に埋まる。
「マリ。手を貸せ」
「なに」
「――何が間違ってるかを、二人で出す」
◇
俺は、野帳を開いた。
今、渡したのは「一と二」だ。
意味は「一度使った。二度目はいいか」のつもりだった。
だが、あれにそう伝わる保証はない。
「マリ。この数だけ見たら、どう読む」
「いちと、に」
「他には」
「――ふえてる」
◇
俺は、その一言に手を止めた。
――増えている。
一の次に二。
それは「数が増える」という意味にも読める。
俺は、二年で数を渡してきた。四十一。十七。四百二十六。
全部、「これだけの数がある」という意味で渡してきた。
◇
「――許可を訊く形を、渡してない」
俺は言った。
「二年、俺は数を『いくつある』としてしか使ってない」
「じゃあ」
「あれは、今の一と二を『一が二に増える』と読んだ」
俺は言った。
「そして『違う』と返した」
◇
「なにが、ちがうの」
「――分からん」
俺は言った。
「だが、一つ思い当たる」
俺は、床の三つの光を見た。
「今日、俺は一度しか使ってない。……だが、門は三つ開いてる」
◇
「あ」
マリが、声を出した。
「――そうか」
「言え」
「いち、じゃない」
彼女は言った。
「きょう、ハルト、みっつめの、ふたを、あけた。……いえのやつ」
「それも、句を使った」
「うん」
◇
俺は、野帳を見直した。
――二度、使っている。
浅い家の蓋で一度。この部屋で一度。
俺は、それを数え忘れていた。
規則を守っているつもりで、今日はもう二度使っていた。
◇
「――俺が間違ってた」
俺は言った。
「『一度使った』と言ったが、二度使ってる」
俺は、その事実を野帳に書いた。
書きながら、背中が冷えた。
二年二月、俺は一度も数を間違えなかった。
今夜、初めて間違えた。
◇
「マリ」
「うん」
「――疲れてるな、俺は」
「うん」
彼女は、あっさり言った。
「よるはん、ちかい。……あさから、あるいてる」
「そうだ」
俺は言った。
「だから、お前がいる」




