入る
俺は、その穴の前で止まった。
入るかどうかを決める前に、やることがある。
――測る。
高さ三尺。幅二尺。奥行き、灯りを差し込んで見た。
三歩ほどで、床が落ちている。
◇
「マリ。ここは、俺が先に入る」
「うん」
「三歩で床が落ちてる。……深さは分からん」
「うん」
「もし俺が落ちたら」
俺は言った。
「――追ってくるな」
◇
彼女は、答えなかった。
「マリ」
「……きこえてる」
「返事をしろ」
「――やだ」
◇
俺は、その返事を受け取った。
二年二月、この娘が「やだ」と言ったのは、これが二度目だ。
一度目は、二年二月前。蓋の前で「さがらない」と言った時だ。
「マリ」
「なに」
「――なら、条件を出す」
◇
「俺が落ちたら、縄を引け」
俺は、腰の縄を示した。
「引いて、返事がなければ、そこで止まれ」
「とまって、どうする」
「――待て」
俺は言った。
「十を五十数えるまでだ。……さっき決めた通りだ」
◇
彼女は、しばらく黙っていた。
「わかった」
彼女は言った。
「でも、ひとつ、いう」
「言え」
「ハルトは、いつも、じぶんが、さきにいく」
◇
「――そうだ」
「なんで」
「測れるからだ」
俺は言った。
「二十年やってる。どこが危ないか、俺のほうが分かる」
「それだけ?」
◇
俺は、少し黙った。
「――それだけじゃない」
俺は言った。
「お前を、落としたくない」
「うん」
「それは、正しい理由じゃない」
俺は言った。
「仕事なら、軽いほうを先に行かせる。……そっちが合理だ」
◇
「じゃあ、なんで、しない」
「――できん」
俺は言った。
「二十年、俺は合理でやってきた。……お前に対してだけ、できん」
俺は、穴に手をかけた。
「それは、俺の弱さだ。……分かってて、直さん」
◇
彼女は、しばらく何も言わなかった。
それから、こう言った。
「ハルト」
「なんだ」
「それ、はじめて、いった」
「――言ったか」
「にねんにかげつ、いってない」
彼女は言った。
「いま、はじめて」
◇
俺は、その通りだと思った。
二年二月、俺はこの娘に何も言わなかった。
言わなくても伝わると思っていた。
――伝わらない。
二年前、俺は野帳にそう書いた。
書いて、二年守らなかった。
◇
「マリ」
「うん」
「――遅くなった」
「いい」
彼女は言った。
「いまで、いい」
◇
俺は、穴に入った。
屈んで、三歩。
床が落ちている場所で止まった。
灯りを下ろす。
◇
――階段だ。
落ちているのではない。
段になっている。
蹴上げ、六寸。
俺は、測った。
六寸。
◇
「マリ。降りていい」
「――だいじょうぶ?」
「階段だ」
俺は言った。
「蹴上げ六寸。……いつもと同じだ」
◇
彼女が、入ってきた。
俺たちは、その階段を降りた。
十二段。
降りきると、部屋だった。
◇
九尺かける十二尺。
俺は、二度測った。
同じだった。
「――また、この寸法だ」
俺は言った。
「カラン村。柱の下。……ここで三つ目だ」
◇
部屋は、乾いていた。
水が入っていない。
水面より下にあるはずなのに、乾いている。
俺は、壁に手を当てた。
濡れていない。
◇
「セレンが、いたら」
マリが言った。
「――何て言うと思う」
「『そんなはずはありません』」
彼女は言った。
俺は、少し笑った。
似ている。
◇
部屋の中央に、床の刻みがあった。
同心円と、枝分かれする線。
そして、その周りに四つの弧。
斜路の壁で見たものと、同じ形だ。
ただし小さい。直径、一尺八寸。
◇
俺は、四つの弧を測った。
一つ目、四寸。
二つ目、四寸。
三つ目、四寸。
四つ目、三寸。
――同じだ。
一つだけ、小さい。
◇
「マリ」
「うん」
「四つ目が小さいのは、偶然じゃない」
俺は言った。
「二か所で、同じ比率だ。……五尺八寸の方も、一尺八寸の方も、四つ目だけ四分の三になってる」
◇
「よっつめが、ちいさい」
彼女は言った。
「なんで」
「――分からん」
俺は言った。
「だが、意味がある」
俺は、その四つ目の弧に手を当てた。
◇
冷たい。
他の三つは、床と同じ温度だ。
四つ目だけが、冷たい。
「マリ。触ってみろ」
「――つめたい」
「三つ目は」
「ふつう」
◇
俺は、その差を野帳に書いた。
〈四ツ目ノ弧ノミ、寸法四分ノ三。且ツ冷タイ〉
書いて、俺は考えた。
――冷たいということは、向こうに何かがある。
温度が違うのは、境目だからだ。
二十年、坑でそれを見てきた。
◇
「マリ」
「うん」
「――ここが、四つ目の門だ」
俺は言った。
「三つは開いてる。……四つ目だけ、まだ小さい」
「ちいさい、って」
「閉まりかけてる、ということだ」
◇
俺は、その考えを口に出してから、背筋が冷えた。
――閉まりかけている。
千年かけて。
オルソが一人になったのと、同じ速さで。
◇
俺は、その前にもう一つ確かめた。
部屋の四隅を見た。
三つは、何もない。
四つ目の隅に、物が置いてあった。
俺は、灯りを寄せた。
◇
――道具だ。
鉄の棒。長さ、俺の背丈より少し長い。
先端に、球体がついている。
俺は、動きを止めた。
「マリ」
「――ハルト。それ」
「杆だ」
◇
俺は、自分の杆を横に置いた。
並べた。
同じ長さ。同じ太さ。
石突きの形も同じ。
違うのは、握りの革だけだ。こちらは巻いていない。
◇
俺は、その杆の柄を見た。
銘が彫ってある。
俺のものと同じ位置に。
俺は、それを読んだ。
――〈オルソガ、サルカドノ、九×十二ノ、タメニ、作ッタ〉
◇
俺は、自分の杆の銘を思い出した。
――〈オルソガ、カランノ、九×十二ノ、タメニ、作ッタ〉
カランと、サルカド。
地名だけが違う。
「マリ」
「うん」
「――二本あった」
◇
「にほん」
「そうだ」
俺は言った。
「同じ職人が、同じ日に、二本作った。……一本はカランへ、一本はここへ」
俺は、二本の杆を見た。
「片方が、千年かけて俺の手に来た」
◇
俺は、その意味を組んだ。
俺の杆は、師匠から来た。師匠は親父から。親父はその前から。
百年、二百年、誰かが握って、次に渡した。
――カラン村の部屋を測るために作られた道具が。
誰も、それを知らずに。
◇
俺は、立ち上がった。
今日の一言を、まだ使っていない。
「マリ。灯りを」
「うん」
斜め後ろ、少し高く。
二年二月、一度もずれていない位置に。
◇
俺は、息を吸った。
――七百二十七回目だ。
この二年で、俺はこの句の意味を三分の二知った。
サルの繋ぎ目へ、帰る。
知って唱えるのは、初めてだった。




