沈んだ家
俺は、水に入った。
九歩手前まで。それ以上は行かない。
腰まで浸かった。
冷たい。だが、耐えられないほどではない。
――地下水にしては、ぬるい。
「マリ。水温を覚えておけ」
「うん」
◇
俺は、建物の角までの距離を測った。
目測で、四十歩。
その間に、九歩先の穴がある。
――回り込むしかない。
俺は、縄に杆を結んで、右へ投げた。
◇
三歩右。底あり。
六歩右。底あり。
そこから前へ。
三歩前。底あり。
六歩前。底あり。
俺は、その経路を野帳に書いた。
水の中で書けるように、蝋を引いた紙を使っている。
◇
四半刻かけて、俺は道を作った。
右へ六歩。前へ十八歩。左へ四歩。前へ十二歩。
合計四十歩。
穴を避けて、建物の角に着く経路だ。
「マリ。この順を覚えろ」
「みぎろく、まえじゅうはち、ひだりよん、まえじゅうに」
「そうだ」
◇
「一度で覚えたな」
「ハルトが、いった、から」
彼女は言った。
「ハルトのかずは、まちがってない」
俺は、その信用の重さを少し考えた。
――間違うこともある。
二十年で、三度あった。
言わなかった。
◇
俺たちは、その経路を進んだ。
水は、腰から胸に上がった。
建物の角に着いたとき、俺は手を伸ばした。
石ではない。
継ぎ目のない材だ。
――遺跡の奥と同じだ。
◇
俺は、その面を撫でた。
凹凸がある。
彫ってある。
「マリ。灯りを寄せろ」
「うん」
◇
文字だった。
縦に並んでいる。
俺は、二年でこの文字を少し読めるようになった。
だが、読めたのは最初の三文字だけだった。
――〈サルカド〉。
◇
「マリ」
「――なに」
「サルカド、と書いてある」
俺は言った。
「地名じゃない。……表札だ」
◇
俺は、その下を読もうとした。
水面に近い。半分沈んでいる。
俺は、しゃがんで顔を水につけた。
灯りを水面に近づける。
――読めない。
水が揺れて、文字が歪む。
◇
「ハルト」
「――だめだ。揺れる」
「まって」
マリが、荷を探った。
布包みを出す。
狐だ。
「これ」
「――何をする」
「みずに、いれる」
◇
俺は、止めようとした。
「壊れるぞ」
「こわれない」
彼女は言った。
「せんねん、みずのなかに、あった、いせきの、ものだよ」
俺は、その理屈を検討した。
――一理ある。
この狐は、千年錆びない金属でできている。
◇
「どうやって使う」
「しずめて、みる」
彼女は言った。
「せなかの、もようが、ひかったら、みずのなかが、みえる」
「二年、光ってないぞ」
「うん」
彼女は言った。
「でも、きょうは、ちがうかも」
◇
俺は、その「かも」を認めた。
二年で、この娘の「かも」は何度か当たっている。
「――やれ」
「うん」
彼女は、狐を両手で持った。
そして、静かに水へ沈めた。
◇
何も起きなかった。
十を数えた。
二十を数えた。
狐は、水の中で沈んでいる。
背中は暗いままだ。
「――マリ」
「まって」
◇
彼女は、狐を持ち上げなかった。
沈めたまま、待っている。
三十を数えた。
四十を数えた。
俺は、そこで気づいた。
――彼女は、数えている。
口を動かしている。
◇
「マリ。何を数えてる」
「じゅうに」
彼女は言った。
「みずが、うごく、かんかく」
「――合わせてるのか」
「うん」
彼女は言った。
「みずが、さがったとき、しずめた」
◇
俺は、その発想に手を止めた。
――規則に合わせる。
二年二月前、柱は規則的な入力にしか応えなかった。
この娘は、それを水に当てはめている。
俺は、そこまで考えていなかった。
◇
水が、下がった。
十二回目だ。
その瞬間、狐の背中が光った。
青い。
同心円の、一番内側だけ。
◇
光は、水を通した。
文字が、見えた。
揺れていない。
――光が水面を押さえている。
理屈は分からない。
だが、見える。
◇
俺は、その文字を読んだ。
〈サルカド〉
その下に、続きがあった。
俺は、一字ずつ追った。
二年、セレンに教わった字だ。
◇
読めた。
三語だった。
〈サルカド オルソ ネイア〉
俺は、その三語を声に出した。
サルカド。オルソ。ネイア。
◇
――繋ぎ目。オルソ。帰る。
オルソは、下にいるものの名だ。
二年、俺が話してきた相手の名だ。
その名が、この家の表札に彫ってある。
「マリ」
「――ハルト」
「これは」
◇
俺は、そこで言葉を切った。
――オルソの家だ。
二百尺の底に沈んだ、この家は。
俺が二年通ってきた相手の、家だ。
◇
狐の光が、消えた。
文字が、また揺れ始めた。
マリが、狐を引き上げた。
水を切って、布で拭く。
背中は、もう暗い。
◇
「マリ」
「うん」
「――こいつは、なぜ光った」
「わかんない」
彼女は言った。
「でも、にじゅうねん、ハルトが、なおしてた」
彼女は、狐を包み直した。
「なおして、はこんで、ここまで、きた」
◇
俺は、その言い方を聞いた。
――運んできた。
二十年、俺はこいつを直しては仕舞い、直しては仕舞いしてきた。
金にもならず、動きもしないものを。
その二十年が、今、水の中の三語を読ませた。
◇
俺は、水の中に立ったまま、しばらく動かなかった。
――家に帰ってきた。
オルソは、千年、自分の家の上に立っていた。
水に沈んだ家の上で、繋ぎ目を保っていた。
俺が二年、毎日訊いていた「なぜそこにいる」の答えが、足元にある。
◇
その時、上から音が来た。
水を伝って、腹に響いた。
鶴嘴ではない。
もっと重い。一度きりの、押し潰すような音。
――火薬だ。
◇
俺は、水面を見た。
波が立った。
一度、大きく。
それから、細かく震え続けている。
「マリ。壁につかまれ」
「うん」
◇
震えは、十を数えるほど続いた。
止まった。
俺は、耳を澄ませた。
――崩れる音はない。
落石の音も、しない。
「――保った」
俺は言った。
「壁は割れてない」
◇
「じゃあ、だいじょうぶ?」
「今のは、な」
俺は言った。
「割れなかったから、また量を増やす。……次が本番だ」
俺は、天井を見上げた。
二百尺の岩の向こう。
「二度目までに、決着をつける」
◇
俺は、建物の角に手を当てた。
この家に入口があるはずだ。
沈んでいるなら、上の方だ。
俺は、角に沿って手を這わせた。
水面から、十尺。
――窓がある。
◇
「マリ。灯りを」
彼女が、掲げた。
水面より上の壁に、四角い穴が開いている。
高さ、三尺。幅、二尺。
人が一人、屈んで通れる。
――窓ではない。
「――点検口だ」
俺は言った。
「二尺八寸じゃないが、同じ考え方だ」




