二百尺
二十尺、降りた。
止まる。
「マリ」
「いる」
声が返った。
俺は、次の二十尺へ足を出した。
斜面は乾いている。滑らない。
――作られた道だ。
自然の傾斜ではない。表面に、細かい刻みが入っている。
◇
俺は、その刻みを指で確かめた。
滑り止めだ。
等間隔。三寸ごと。
――人が歩くために作ってある。
千年、誰も歩いていない道に、滑り止めがある。
◇
四十尺。
六十尺。
八十尺で、俺は足を止めた。
壁の色が変わっている。
灯りを近づけた。
◇
――模様だ。
同心円と、枝分かれする線。
だが、大きい。
俺の背丈ほどある。
これまで見たどれより、大きい。
◇
俺は、それを測った。
直径、五尺八寸。
線の本数を数えた。
――三本。
中心を通る線が三本。そこから六方へ伸びている。
それは、いつもと同じだ。
◇
違うのは、その外側だった。
円の外に、弧が四つ。
門の形をしている。
二年二月前、俺はこの形を紙の上で何度も見た。
だが、実物でこれほど大きいものは初めてだ。
「マリ」
「――なに」
「降りてこい」
◇
彼女が、二十尺降りてきた。
灯りを掲げる。
模様の全体が見えた。
「――おおきい」
「五尺八寸だ」
「ハルト。これ」
「なんだ」
「もんが、よっつ、ある」
◇
「見えるか」
「みえる」
彼女は言った。
「まえに、かみで、みた」
「そうだ」
俺は言った。
「二年二月前、セレンが写した紋章の絵だ。……あれと同じだ」
◇
俺は、その四つの弧を順に指した。
「一つ。二つ。三つ。四つ」
指しながら、あることに気づいた。
四つの弧は、同じ大きさではない。
微妙に違う。
俺は、測った。
◇
一つ目、幅一尺二寸。
二つ目、一尺二寸。
三つ目、一尺二寸。
四つ目――
「……九寸」
俺は言った。
「一つだけ、小さい」
◇
「ハルト」
「――ああ」
「みっつと、ひとつ」
「そうだ」
俺は、その四つを見た。
三つが同じ。一つだけ違う。
――四つの門。
二年二月前、俺は「同心円は深さの層、三本の線は主要通路、四つのアーチは四つの門」だと推測した。
推測しただけで、確かめていない。
◇
俺は、模様の前に立った。
今日、まだ句を使っていない。
――日に一度。
二年二月、俺はこの規則を守ってきた。
守って、七百二十六回唱えた。
今夜が、七百二十七回目になる。
◇
だが、俺は唱えなかった。
――まだだ。
二百尺の底に着いていない。
途中で使えば、底で使えない。
俺は、その模様を野帳に写した。
寸法を書いて、四つ目が九寸だと書き添えた。
◇
百尺。
百二十尺。
降りるほど、空気が変わった。
湿ってきている。
水の匂いがする。
――井戸だ。
カラン村の井戸は、五十四尺で水に着いた。
◇
百六十尺で、足が濡れた。
浅い。指の第一関節ほどだ。
だが、確かに水がある。
「マリ。止まれ」
「うん」
「そこから先は、水がある」
俺は言った。
「深さを測ってから降りる」
◇
俺は、杆を水に差した。
一寸。
三歩進んで、また差した。
一寸五分。
――増えてる。
俺は、傾斜と水位の関係を計算した。
この勾配なら、二百尺の底で――
◇
「……四尺だ」
俺は言った。
「底に、四尺の水がある」
「およげる?」
「歩ける」
俺は言った。
「四尺なら、腰までだ。……ただし、底が見えん」
◇
俺は、そこで一度止まった。
――底の見えない水に入るのは、素人だ。
二十年、俺はそう言い続けてきた。
言い続けて、若い連中に教えてきた。
「マリ」
「うん」
「――俺は今から、自分で禁じてきたことをする」
◇
彼女は、少し黙った。
「やめる?」
「やめん」
俺は言った。
「だが、手順は変える。……水に入る前に、底を測る」
俺は、縄の先に杆を結んだ。
◇
俺は、その杆を前方に投げた。
沈む。
縄を引く。
引きながら、抵抗を感じた。
――底に当たってる。
俺は、縄の結び目を数えた。
◇
三歩先。底あり。
六歩先。底あり。
九歩先――
縄が、急に軽くなった。
抵抗がない。
俺は、縄を引き戻した。
◇
「――穴だ」
俺は言った。
「九歩先で、底が落ちてる」
「どのくらい」
「分からん」
俺は言った。
「縄が二十尺全部出ても、当たらなかった」
◇
俺は、その位置を野帳に書いた。
〈斜路二百尺。底ニ水四尺。九歩先ニ深孔〉
書いて、俺は顔を上げた。
――ここで終わりか。
三百年前の測量士は、この手前で「ここまで」と書いた。
その気持ちが、分かる。
◇
俺は、灯りを高く掲げた。
水面が、光を返した。
その向こうに、何かが見えた。
――柱だ。
水の中から、柱が立っている。
◇
「マリ。あれを見ろ」
「みてる」
彼女は言った。
「はしら、じゃない」
「――なんだ」
「かたち、ちがう」
彼女は言った。
「はしらは、まるい。あれ、しかくい」
◇
俺は、目を凝らした。
その通りだった。
四角い。
角が立っている。
高さは、水面から十尺ほど。
――建物だ。
柱ではない。建物の角だ。
◇
俺は、その意味を組んだ。
――沈んでる。
水の下に、建物がある。
角だけが出ている。
二百尺の底に、水に沈んだ建物がある。
「マリ」
「うん」
「――家だ」
◇
「いえ」
「そうだ」
俺は言った。
「旧市街と同じだ。……ここも、家が沈んでる」
俺は、その角を見た。
「ただし、こっちは水の下だ」
◇
俺は、野帳に書き足した。
〈水面下ニ建物。角ノミ露出〉
書いて、筆を止めた。
――偉い者の家ほど、深かった。
この野原の言い伝えだ。
根拠はない。掘れば掘るほどその通りになるので、誰も疑わなくなった。
◇
その時、水が動いた。
波ではない。
水面が、一度だけ下がった。
指の幅ほど。
それから、戻った。
「――マリ。下がれ」
「なに」
「水が動いた」
◇
俺は、水面を見ていた。
もう一度、下がった。
同じ幅。同じ速さ。
――規則的だ。
息をしているような動き方だ。
だが、生き物ではない。生き物の呼吸は、こんなに正確ではない。
◇
「セレンが、いれば」
マリが言った。
「――なぜだ」
「かぞえてもらう」
彼女は言った。
「わたし、ひとりだと、まちがえる」
「数えろ」
俺は言った。
「間違えていい。……二人で数えて、後で突き合わせる」
◇
俺たちは、数えた。
水が下がってから、次に下がるまで。
俺が数えて、彼女が数える。
三度やった。
◇
「ハルト。わたし、じゅうに」
「俺も十二だ」
俺は言った。
「三度とも十二だった」
「じゅうに」
彼女は言った。
「――それ、なに」
◇
「分からん」
俺は言った。
「だが、十二で繰り返すものを、俺は一つ知ってる」
俺は、天井を見上げた。
二百尺の岩の向こう。
その上の空。
「――一年が、十二か月だ」
◇
俺は、二百尺の底に立っている。
この野原で、一番深い場所だ。
その一番深いところに、家が一軒ある。
――誰の家だ。
俺は、その問いを口に出さなかった。
答えが、一つしかないからだ。




