ここまで
俺たちは、八百歩の地点に着いた。
鶴嘴の音が、頭の上にある。
真上ではない。少し右だ。
距離、六十尺。
――近い。
「マリ。灯りを絞れ」
「うん」
◇
俺は、天井に手を当てた。
振動が来ている。
規則的だ。一定の間隔で叩いている。
俺は、その間隔を数えた。
一息に、二回。
――疲れていない。
始めたばかりだ。
◇
「セレン。上の壁の厚みは」
彼女は、図面を見た。
「――描いてありません」
「なら、音で出す」
俺は、杆の石突きで天井を叩いた。
二度。
返りを聞いた。
◇
鈍い。
厚い。
「――四尺以上ある」
俺は言った。
「鶴嘴じゃ、一晩かかっても抜けん」
「では、間に合いますか」
「間に合わん」
俺は言った。
「連中が火薬に切り替えるまでだ。……たぶん、四半刻で諦める」
◇
俺は、選択肢を並べた。
一つ。上へ回り込んで、止めに行く。
二つ。このまま下へ降りる。
三つ。ここで待つ。
――一つ目は、半刻かかる。石段まで戻って、正面から入ることになる。
入れば、四十二人と当たる。
◇
「セレン」
「はい」
「俺が上へ行ったとして、何と言って止める」
「――『やめろ』では、止まりません」
「そうだ」
俺は言った。
「相手は許可を持ってる。俺は担当だが、作業を止める権限はない」
俺は、天井を見た。
「殴って止めるなら、四十二人だ」
◇
マリが、口を開いた。
「ハルト」
「なんだ」
「とめなくても、いい、かも」
「――どういう意味だ」
「あのかべ、ぬけない、って、ハルトが、いった」
彼女は言った。
「ぬけないなら、とめなくて、いい」
◇
俺は、その言い分を検討した。
――抜けない。
鶴嘴では抜けない。火薬でも、あの材は割れない。
割れずに、周りが崩れる。
崩れるのは――
「マリ」
「うん」
「――上だ」
◇
「うえ」
「そうだ」
俺は言った。
「壁は抜けん。だが、周りの石が緩む」
俺は、図面を指した。
「あの踊り場の上は、石段だ。石段の上は、円の広間だ。その上に、旧市街の地層が四つある」
俺は、指を上へ動かした。
「一番上が、南区だ」
◇
セレンが、息を呑んだ。
「――繋がっているのですか」
「繋がってない」
俺は言った。
「十里離れてる。……だが、地層は続いてる」
「なら」
「同じ層の中で、一か所抜けると」
俺は言った。
「弱いところから順に落ちる」
◇
「どこが弱いのですか」
「南区だ」
俺は言った。
「二十年、俺が測ってきた。……あそこは一番浅い。地表から十八尺しかない」
俺は、天井を見上げた。
「一番浅いところが、一番先に落ちる」
◇
俺は、そこで一つ決めた。
「セレン。図面をよこせ」
「はい」
俺は、その図面の裏に書き始めた。
線を引く。
斜めの道。二百尺の落差。
その途中に、印を三つ打った。
◇
「何を書いておられます」
「支えだ」
俺は言った。
「この斜めの道は、上の層を支えてる。……図面の線の太さで分かる」
俺は、三つの印を指した。
「ここと、ここと、ここ。……この三点が生きてる限り、上は落ちん」
◇
「なぜ、それが分かるのですか」
「二十年、崩落を測ってきたからだ」
俺は言った。
「崩れた後の形を見れば、どこが先に抜けたか分かる。……逆も出る」
俺は、図面を丸めた。
「崩れる前に、どこを守れば持つかも出る」
◇
俺は、立ち上がった。
「セレン。これを持って、上へ戻れ」
「――え」
「石段から出て、レイヴに渡せ」
俺は言った。
「ダウムに届けろと言え。……三点の位置が書いてある」
◇
「私が、ですか」
「あんただ」
俺は言った。
「その図面を読めるのは、この場で二人だけだ。俺と、あんただ」
俺は、彼女を見た。
「俺は下へ行く」
◇
セレンは、動かなかった。
「ハルトさん」
「なんだ」
「私は、助手として登録しました」
彼女は言った。
「今夜は、記録官ではないと申し上げました」
「知ってる」
「なら」
「――条件をつけたはずだ」
◇
彼女は、口を閉じた。
二年二月前に俺が出した条件だ。
俺が「上がれ」と言ったら上がる。議論しない。理由も訊かない。
「……はい」
彼女は言った。
「上がります」
◇
彼女は、図面を懐に入れた。
入れてから、こう言った。
「一つだけ、申し上げます。理由は訊きません」
「言え」
「あなたは、私を安全な場所へ逃がしたのではありません」
彼女は言った。
「一番大事な紙を、一番遠くへ運ばせています」
◇
俺は、答えなかった。
――そうだ。
この女が上がれば、図面が町へ届く。
届けば、南区が動く。
俺が持っていたら、下で死んだ時に一緒に消える。
「セレン」
「はい」
「――そういうことだ」
◇
彼女は、頷いた。
それから、来た道を戻り始めた。
三歩進んで、振り返った。
「ハルトさん」
「なんだ」
「二年二月前、石段で十七人の名を読み上げました」
彼女は言った。
「あれから、私は毎晩、四十一人の名を唱えています」
◇
「――五十三人になったぞ」
「五十三、覚えました」
彼女は言った。
「六十二になったのなら、九人足します」
彼女は、灯りを掲げた。
「名前を、増やさないでください」
◇
彼女の足音が、遠ざかった。
通路に、俺とマリが残った。
鶴嘴の音は、まだ続いている。
「マリ」
「うん」
「――降りるぞ」
「うん」
◇
俺たちは、斜めの道の入口に立った。
図面の線が途切れていた場所だ。
傾斜、およそ三寸勾配。歩ける。
だが、下が見えない。
灯りが届かない。
◇
俺は、石を投げた。
落ちた。
音が、返ってきた。
――返った。
六十二話の穴とは違う。
あそこは、音が返らなかった。
「マリ」
「うん」
「――底がある」
俺は言った。
「ここは、測れる」
◇
俺は、投げた石の音を数え直した。
落ちてから、返るまで。
三つ数えた。
――深い。
石が落ちる速さは決まっている。三つ数えて底に着くなら、百尺以上ある。
図面には二百尺と書いてあった。
合っている。
◇
「マリ。縄を出せ」
「うん」
「二十尺ごとに結び目を作る」
「もうつくってある」
彼女は言った。
「にねんまえに、おしえてもらった」
俺は、その縄を受け取った。
結び目の間隔を、一つだけ測った。
二十尺。狂っていない。
◇
「マリ」
「うん」
「――誰に教わった」
「ハルト」
「教えたか」
「おしえてない」
彼女は言った。
「よこで、みてた」
◇
俺は、その縄を腰に回した。
斜面は三寸勾配だ。歩けるが、滑れば止まらない。
二百尺落ちれば、まず死ぬ。
「先に俺が行く。二十尺ごとに止まる」
「うん」
「止まるたびに、声を出す」
「うん」
「声が返らなかったら、上がれ」
◇
彼女は、そこで初めて返事をしなかった。
「マリ」
「――かえらない」
「返らなかったら、上がれと言った」
「かえらない」
彼女は、もう一度言った。
「にねんにかげつまえ、わたしは『もどる』って、いった」
◇
「ハルトは、もどった」
彼女は言った。
「あのとき、ハルトは、あと三十歩で、はしらに、さわれた」
「――覚えてるのか」
「かぞえてた」
彼女は言った。
「だから、こんどは、わたしが、まつ」
◇
俺は、その言い分を検討した。
――取引ではない。
貸し借りでもない。
この娘は、二年二月前に自分が言った言葉を、自分で引き受けている。
「――分かった」
俺は言った。
「声が返らなかったら、待て。……十を五十数えるまでだ」
「ごじゅっかい」
「五十だ」
俺は言った。
「それを過ぎたら、上がれ。……そこは譲らん」




