七百九十日
七百九十日、俺は毎日降りた。
毎日ではない。正確には、七百九十日のうち七百二十六日だ。
降りられなかった日は六十四日ある。熱を出した日が九日。雪で街道が閉じた日が二十一日。ギルドの他の仕事で町を離れた日が三十四日。
全部、数えてある。
――数えるのが、俺の仕事だからだ。
◇
二年二月で、俺たちは千二百語を渡した。
最初の五十日で三語だった。今は、日に二語から三語を渡せる。
増えたのは、言葉の数ではない。
渡し方が上手くなった。
物の名を先に揃え、その次に動きの名を渡す。数を先に共有してから、数えるものの名を渡す。
セレンが順を組み、俺が現場で試し、駄目なら翌日に組み替える。
――測量と同じだ。
基準を先に置いて、そこから測る。
◇
分かったことは、四つある。
一つ。下にいるものは、自分を〈オルソ〉と呼ぶ。
測量杆の銘に彫られていた名だ。人の名か、役目の名かは分からない。訊いたが、返事が同じ音だった。
二つ。オルソは「作った側」ではない。「預かった側」だ。
三つ。この構造は、二つの世界の繋ぎ目に建っている。オルソの仕事は、その繋ぎ目を保つことだ。
四つ。オルソは、千年、一度もその仕事を止めていない。
◇
分からないことのほうが、多い。
なぜ千九百四十が水に消えたのか。
なぜ十七人が戻らなかったのか。
なぜ二十三年前、マリの立っていた場所に「帰る」という言葉が届いたのか。
訊いた。全部訊いた。
返ってきたのは、いつも同じだった。
――〈マダ〉。
二年二月、その一語だけは動かなかった。
◇
マリは、二十一になった。
言葉は、ほとんど不自由しない。書くほうがまだ弱いが、話すぶんには町の人間と変わらない。
変わったのは、それだけではない。
この娘は、二年で測量を覚えた。
俺が教えたのではない。横で見ていて、盗んだ。
歩幅を固め、記号を覚え、天井高を目で当てられるようになった。三月前、ギルドの見習い試験に通った。
「せんせいが、ちかくにいると、はやい」
通った日、そう言われた。
◇
セレンは、この二年でメルシアの人間になった。
ギルドの記録室を任されている。ダウムが押し切った。
「読める女が一人いると、四十年ぶんの綴りが片付く」
そう言って、席を作った。
星導省からは、二度、書状が来た。
どちらも「戻れ」ではなく「無事か」だった。
差出人は、レイヴだ。
◇
レイヴは、まだ内側にいる。
二年二月、あの男は一度も俺たちに情報を渡さなかった。
渡せば、内側にいられなくなるからだ。
代わりに、月に一度、決まった日にギルドへ書状を出してくる。中身は当たり障りのない挨拶だ。
その書状が来ない月が、一度だけあった。
去年の秋だ。
その月、先遣隊の編成が変わった。
――来ないことが、合図だった。
◇
当主は、七十になった。
二年で三度、メルシアに来ている。
三度とも、俺に会いに来た。
一度目は、ギルドの応接だった。丁寧な男だった。俺の測量を褒め、二十年分の図面を見せてほしいと言った。
断った。
二度目は、市場だった。偶然を装って、隣に立った。
三度目は、俺の家の跡地だった。焼けて柱三本になった場所に、あの男は一人で立っていた。
◇
三度目のとき、初めて言葉を交わした。
「――サルカディア家の方ですね」
「ハルトだ」
「私は名を持ちません」
あの男は言った。
「三百年前に捨てました。……家を捨てた側は、名も捨てるのが筋です」
俺は、その言い方を覚えている。
筋、と言った。
◇
「一つ伺いたい」
あの男は言った。
「あなたは、二年、毎日あそこへ降りている。……何を得ましたか」
「言葉だ」
「言葉」
「千二百語だ」
俺は言った。
「あんたは、三百年で何語得た」
◇
あの男は、笑わなかった。
怒りもしなかった。
しばらく黙って、それからこう言った。
「――四十一語です」
俺は、その数字を頭に入れた。
「三百年で四十一語。……あなたは二年で千二百」
あの男は言った。
「差は、才ではありません。手順です」
◇
「あなたは、正面から降りて、毎日一つずつ渡した」
あの男は言った。
「我々は、扉をこじ開けて、奪って帰ろうとした。三百年、それを繰り返しました」
俺は、答えなかった。
「認めます」
あの男は言った。
「あなたのやり方のほうが、正しい」
◇
俺は、その言葉を待った。
この手の男が「正しい」と認めるときは、必ず続きがある。
「ですが」
あの男は言った。
「私には、二年ありません」
◇
俺は、その一言を聞いた。
七十だ。
次の重なりは百三十二年後だ。
「――だから、こじ開けるのか」
「ええ」
あの男は言った。
「あなたが千二百語で辿り着けなかった場所へ、私は一夜で行きます」
「行けるとは限らん」
「限りません」
あの男は言った。
「ですが、行かなければ、確実に行けません」
◇
俺は、その言い分の形を見た。
――計算だ。
可能性がゼロでないほうを取る。
二年二月前、セレンが言っていた通りの男だった。
「一つ訊く」
俺は言った。
「四十一人は、まだ四十一人か」
「五十三人です」
◇
増えていた。
俺は、その数字を野帳に書いた。
書きながら、あの男に見せた。
あの男は、それを見た。
「――何をしておられる」
「数えてる」
俺は言った。
「あんたが軽く言った数を、俺は書いて残す」
◇
あの男は、しばらくその野帳を見ていた。
それから、こう言った。
「サルカディア家は、代々そうでしたか」
「知らん」
俺は言った。
「俺はそうする」
◇
その日から、六か月が過ぎた。
今日が、七百九十日目だ。
空を見る。
〈環〉が真上にある。〈天秤〉が東。〈杯〉が西の低い位置に、いつもより明るく出ている。
残り十三の星が、これから昇る。
全部が同じ方向に寄るのは、今夜の夜半だ。
◇
俺は、荷を作った。
杆。野帳。灯り。縄。水と、二日分の食い物。
それから、破って懐に入れたままの紙。
二年二月、俺はそれを持ち続けている。
捨てなかった。
――たまに、見ろ。
ダウムに言われた通りにしてきた。
見て、今日は違うと思えるうちは、大丈夫だ、と。
◇
マリが、土間に降りてきた。
測量士の作業着だ。見習いの徽章がついている。
「ハルト」
「――行くか」
「うん」
彼女は、自分の荷を担いだ。
二年前より、荷が重い。自分の道具を持っているからだ。
◇
「マリ」
「なに」
「――今夜だ」
「うん」
彼女は言った。
「かえるか、かえらないか、きめる、ひ」
「そうだ」
「きめてる」
彼女は言った。
「でも、いまは、いわない」
◇
俺は、頷いた。
訊かなかった。
「なぜ、今言わん」
訊いたのは、そっちだ。
言わないと決めた理由のほうを、俺は訊いた。
彼女は、少し笑った。
「ハルトが、それで、うごきかたを、かえるから」
◇
――読まれている。
その通りだ。
この娘が「帰る」と言えば、俺は帰す方に動く。「残る」と言えば、守る方に動く。
どちらかに寄れば、今夜の判断が鈍る。
「マリ」
「なに」
「――よく分かってるな」
「にねんにかげつ、みてたから」
◇
俺は、戸を開けた。
外は、まだ明るかった。
東の空に、星が出始めている。
町の通りに、人が出ていた。
いつもより多い。みんな、空を見ている。
――今夜が特別な夜だと、この町の人間も知っている。
知らないのは、何が起きるかだけだ。




