二年二月
俺は、その週の終わりに、もう一度降りた。
三人で降りた。
柱の下の、九尺かける十二尺の部屋。
今日は、渡すものを決めてある。
――名前だ。
◇
俺は、床に手を当てた。
一度。
それから、自分を指した。
そして、句の前半を言った。
――シャル。
あれが、俺を呼んだ音だ。
◇
壁に、点が一つ現れた。
俺の位置に。
俺は、次にマリを指した。
そして、この国の言葉で言った。
「マリ」
◇
通じるはずがない。
この娘の名は、こちらの言葉でも、ムーの言葉でもない。
地球の言葉だ。
だが、俺は言った。
三日前、この娘が「オム・ネイア」と言ったからだ。
地球で、この音を聞いた娘がいる。
なら、逆もあるかもしれない。
◇
壁の点が、二つになった。
二つ目が、明るくなった。
そして――
柱が、鳴った。
二音だ。
◇
「――マリ」
あれは、そう言った。
完全には同じではない。
「マ」が少し長い。「リ」が巻いている。
だが、この娘の名だった。
◇
マリが、灯りを落としかけた。
落とさなかった。
位置も、ずらさなかった。
だが、手が震えていた。
「――ハルト」
「聞こえた」
「よばれた」
「呼ばれた」
◇
俺は、セレンを指した。
そして言った。
「セレン」
壁の点が、三つになった。
柱が、鳴った。
――セレン。
◇
三人分の名前を、あれは覚えた。
俺は、そこで手を止めた。
――五十日と、二月かかった。
最初は、扉が開くだけだった。
次に、音が返った。
次に、間違いを直された。
次に、訊き返された。
今日、名前を呼ばれた。
◇
「セレン」
「はい」
「――名前を持つのは、いつからだ」
「え」
「あれは、十七人を数字で覚えてた」
俺は言った。
「三百年、数字だった。……あんたが読み上げるまで」
◇
彼女は、壁を見ていた。
「ハルトさん」
「なんだ」
「私は、記録官です」
彼女は言った。
「名を残すのが仕事です。……ですが、名を渡したのは、今日が初めてです」
◇
俺は、最後に一つやることがあった。
三日前から決めていた。
俺は、床に数を刻んだ。
杆の石突きで、二回。
それから、間を置いて、二回。
――二年、二月。
◇
壁の図が、変わった。
円が現れた。
円の中に、点が並んでいく。
俺は、数えた。
二十六。
◇
「――日数だ」
俺は言った。
「二十六日」
「何のですか」
「分からん」
俺は言った。
「だが、二年二月と出したら、二十六が返ってきた」
◇
俺は、野帳をめくった。
八十話の欄に、その数がある。
〈空白二十三年ナラ、揺レハ二十六日〉
マリが計算した数だ。
代替わりが途切れた年数から出した数。
◇
「マリ」
「うん」
「――二十六だ」
「にじゅうろく」
「お前が出した数と同じだ」
彼女は、紙を見た。
「じゃあ」
「――分からん」
俺は言った。
「だが、二年二月後に、二十六日かかる何かがある」
◇
俺は、壁の円を見た。
二十六の点。
円の形に並んでいる。
――始まりと終わりが、繋がってる。
円は、そういう形だ。
◇
俺たちは、上がった。
二百四十段。
誰も、途中で口を開かなかった。
地上に出ると、日が暮れていた。
空に、星が出ていた。
◇
マリが、空を見上げた。
「ハルト」
「なんだ」
「あのばん、みたのと、ぜんぜん、ちがう」
「――星か」
「うん」
彼女は言った。
「ひとつも、おなじの、ない」
◇
俺は、その空を見た。
二十年、俺はこの空の下で測ってきた。
〈杯〉と〈環〉と〈天秤〉。
師匠に教わった星だ。
この娘の空には、一つもない。
なのに、同じ夜に重なった。
◇
「マリ」
「うん」
「――二年二月後だ」
「うん」
「その夜に、全部が来る」
俺は言った。
「四十一人。……いや、二十二人と十九人だ。火薬が四十貫。それから、星が重なる」
◇
「わたしは」
彼女は言った。
「その、よるに、かえれるかも、しれない」
「かもしれん」
俺は言った。
「確かじゃない」
「うん」
彼女は言った。
「でも、かのうせいは、ある」
◇
俺は、その言い方を聞いた。
――可能性はある。
五月半前、この娘は言葉が通じなかった。
今は、可能性という言葉を使う。
「マリ」
「うん」
「――お前が決めろ」
「うん」
◇
「俺は、道を出す」
俺は言った。
「どれを行くかは、お前が決める。……前にそう言った」
「いった」
「二月前に、俺はそれを破った」
俺は言った。
「今度は、破らん」
◇
彼女は、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「ハルト」
「なんだ」
「わたし、いま、ひとつだけ、きめてる」
「言え」
◇
「にねんにかげつ、いっしょに、しごとする」
彼女は言った。
「かえるか、かえらないかは、そのひに、きめる」
彼女は、俺を見た。
「それまでは、はかる」
◇
俺は、その言葉を受け取った。
――それまでは、測る。
この娘は、俺の仕事の言葉を使った。
「――分かった」
俺は言った。
「なら、明日も降りる」
「うん」
◇
宿に戻ると、ダウムが待っていた。
珍しく、酒を持っていた。
「ハルト」
「――どうした」
「カランの依頼だ」
彼は言った。
「担当をお前にした。書付は出した」
「――受けたか」
「受けた」
◇
「向こうは何と言った」
「『特級を出すとは、ありがたい』だそうだ」
彼は言った。
「丁寧な返事だった。……丁寧すぎた」
「――どういう意味だ」
「四十年、俺は返事を読んできた」
彼は言った。
「本当に喜んでる奴は、あんなに丁寧に書かん」
◇
俺は、その言葉を頭に入れた。
――向こうも、こちらの手を読んでいる。
俺が担当を取りに行ったことを、あの男は知っている。
知って、通した。
「ダウム」
「なんだ」
「――通されたな」
「通されたな」
彼は言った。
「だが、通されても中に入ったほうがいい場合がある」
◇
彼は、酒を二つ注いだ。
一つを、俺の前に置いた。
「ハルト」
「なんだ」
「一つ訊く」
「金は取るか」
「今日は取らん」
彼は言った。
「――お前、変わったな」
◇
「どこがだ」
「二十年、お前は仕事の話しかしなかった」
彼は言った。
「今月に入って、人の話をするようになった」
俺は、酒を見た。
「――そうか」
「ああ」
彼は言った。
「悪くない」
◇
その夜、俺は野帳を開いた。
新しい頁を出した。
一番上に、日付を書いた。
その下に、こう書いた。
〈残リ、七百九十日〉
◇
書いて、俺は数えた。
二年二月。七百九十日。
日に一度なら、七百九十語。
――足りるか。
分からない。
だが、五十日で三語だった頃より、ずっと速くなっている。
◇
俺は、その頁の下に、もう一行足した。
これまで、俺の野帳に人の名が載ったのは、一度だけだった。
十七人の名を、記録官が読み上げた日だ。
今日、二度目を書く。
◇
〈マリ。セレン。レイヴ。ダウム。ハルマ。フェイラ〉
六つ。
それから、少し間を置いて、七つ目を書いた。
〈下ノ一人〉
名前は、まだ知らない。
◇
俺は、灯りを消した。
消して、暗い部屋で天井を見た。
二年二月後に、二千人が死ぬかもしれない。
二十二人が、村の井戸に落ちるかもしれない。
この娘が、いなくなるかもしれない。
――全部、まだ起きていない。
◇
俺は、目を閉じた。
二十年、俺は起きたことを測ってきた。
崩れた坑を測り、いつ崩れたかを出す。
これからは、違う。
起きる前に測る。
――崩れる前に、行く。
それは、まだ誰も教えてくれなかった仕事だ。




