前の晩
三日、マリは何も言わなかった。
仕事はした。灯りも持った。位置もずれなかった。
だが、口数が減った。
――俺と同じだ。
言えないことがあるとき、この娘も口を閉じる。
似てきた、と思った。あまり良い似方ではない。
◇
四日目の夜、彼女が先に口を開いた。
「ハルト」
「なんだ」
「はなす」
「――思い出したのか」
「ぜんぶじゃない」
彼女は言った。
「でも、はなす。……はなさないと、かたちに、ならない」
◇
俺は、筆を置いた。
セレンが、席を立とうとした。
「セレンさん、いて」
マリが言った。
「――よろしいのですか」
「うん」
彼女は言った。
「じがよめるひとが、いたほうが、いい」
◇
彼女は、卓に着いた。
両手を膝に置いて、それから話し始めた。
「あのひ、しけんの、まえの、ひだった」
「――試験」
「うん。だいがくの」
彼女は言った。
「わたし、そのとし、いちど、おちてる」
◇
俺は、その話を初めて聞いた。
五月半、この娘は自分の話をほとんどしなかった。
訊かなかったのは、俺だ。
「二度目か」
「うん」
彼女は言った。
「にどめの、まえのひ」
◇
「おばあちゃんの、むらに、いた」
彼女は言った。
「しずかだから。……いえだと、おかあさんが、しんぱいするから」
「祖母の村か」
「うん」
俺は、その話を覚えている。
環状列石のある村だ。二十話で聞いた。
◇
「そのばんに、ひとりで、そとに、でた」
彼女は言った。
「ねむれなくて」
「――何時ごろだ」
「よなか」
彼女は言った。
「いち、じ、くらい」
◇
「どこへ行った」
「いしの、ところ」
彼女は言った。
「まるく、ならんでる、いし。……こどものときから、あそんでた」
俺は、セレンを見た。
彼女は、書いていた。
◇
「そこで、なにをした」
マリは、少し黙った。
「――すわってた」
「それだけか」
「うん。……ずっと」
彼女は言った。
「そらを、みてた」
◇
「星が見えたか」
「みえた」
彼女は言った。
それから、少し考えた。
「あのひ、へんだった」
「――どう変だ」
「ほしが、おおかった」
◇
俺は、手を止めた。
「多い、とは」
「いつもより、ずっと」
彼女は言った。
「まちの、ちかくだから、ふだんは、あんまり、みえない。……あのばんは、みえた」
「――曇りが晴れたんじゃないのか」
「ちがう」
彼女は言った。
「あかるい、ほしが、ふえてた」
◇
セレンの手が、止まった。
「マリさん」
「うん」
「明るい星が、増えていた」
「うん」
「――何個くらいですか」
「わかんない」
彼女は言った。
「でも、みっつくらい、しらない、おおきいのが、あった」
◇
俺は、椅子から動かなかった。
――重なりだ。
三つの星が、同じ方向に来る。
〈杯〉と〈環〉と〈天秤〉。
二月前に、この娘自身が計算した組み合わせだ。
◇
「マリ」
「うん」
「――それは、こっちの空の話じゃないな」
「ちがう」
彼女は言った。
「ちきゅうの、そら」
「星は、全部違うはずだ」
「ちがう」
彼女は言った。
「でも、あのばん、ふえてた」
◇
俺は、その事実を野帳に書いた。
〈転移前夜、地球ノ空ニ明ルイ星ガ三ツ増エテイタ〉
書いて、俺は手を止めた。
――星が違うのに、同じ夜に重なる。
六十九話で、暦が一致していた。
三百六十五日。四年に一度、三百六十六日。
あの時、俺たちは言葉にできずに止めた。
◇
「続けろ」
「うん」
彼女は言った。
「すわってて、ねむく、なって」
「それで」
「――ことばが、きこえた」
◇
俺は、身を乗り出しかけて、止めた。
急かせば、この娘は迷う。
俺は、待った。
「だれの、こえか、わかんない」
彼女は言った。
「おとこか、おんなかも、わかんない」
「――言葉は」
「みじかかった」
◇
「音を出せるか」
「たぶん」
彼女は、口を開いた。
開いて、止まった。
「――こわい」
「言わなくていい」
「いう」
彼女は言った。
「いわないと、なにも、すすまない」
◇
彼女は、息を吸った。
そして、言った。
「――オム・ネイア」
二音だ。
俺の句の、後半。
「〜へ、帰る」。
◇
部屋が、静かになった。
誰も、動かなかった。
セレンの筆が、紙の上で止まっていた。
マリは、口を押さえていた。
◇
「マリ」
「うん」
「――その声は、お前に言ったのか」
「わかんない」
彼女は言った。
「でも、そのあと、めが、さめた」
「――目が」
「うん」
彼女は言った。
「いしの、ところで、ねてた。……おきたら、こっちに、いた」
◇
俺は、その話を最後まで聞いた。
聞いて、しばらく何も言えなかった。
――呼ばれた。
いや、違う。
この娘は、聞いただけだ。
誰かが「帰る」と言い、その場にいた娘が、こちらへ来た。
◇
「セレン」
「はい」
「――誰が言ったと思う」
「分かりません」
彼女は言った。
「ですが、一つだけ言えます」
「言え」
「その言葉は、地球の言葉ではありません」
彼女は言った。
「ムーの言葉です。……千年前に、こちらへ移った側の」
◇
俺は、その意味を組んだ。
――千年前に、こちらへ来た。
その言葉を、二十三年前の地球で、誰かが言った。
言えるのは、二種類だ。
こちらから、あちらへ届いた声か。
あるいは――
◇
俺は、そこで考えるのをやめた。
やめて、マリを見た。
彼女は、俯いていた。
「マリ」
「うん」
「――よく言えたな」
◇
彼女は、顔を上げた。
目が、赤かった。
「ハルト」
「なんだ」
「わたし、よばれたの?」
俺は、答えなかった。
答えを持っていなかった。
◇
「――分からん」
俺は言った。
「分からんが、一つだけ言える」
「なに」
「お前は、間違って来たんじゃない」
俺は言った。
「事故なら、言葉は要らん。……言葉があったなら、誰かが何かをした」
◇
彼女は、しばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「それ、いいこと?」
「――分からん」
俺は正直に言った。
「だが、事故より、まだ調べようがある」
◇
その夜、セレンが遅くまで起きていた。
俺も起きていた。
卓を挟んで、どちらも黙っていた。
「ハルトさん」
「なんだ」
「一つ、申し上げてよろしいですか」
「言え」
◇
「あの子は、二十三年前に来ています」
彼女は言った。
「そうだ」
「あなたのご両親が亡くなったのも、二十三年前です」
俺は、顔を上げた。
「――そこは、俺も考えた」
「はい」
「だが、合わん」
俺は言った。
「マリは十九だ。二十三年前なら、生まれてない」
◇
セレンは、頷いた。
「そこが、分かりません」
「――こっちの二十三年と、あっちの二十三年が同じとは限らん」
「はい」
彼女は言った。
「ですが、暦が一致しています。……一年の長さも、週の数も」
「なら、同じか」
「分かりません」
◇
俺は、その空白を書いた。
〈マリノ転移=コチラノ何年前カ、不明〉
二十三年前だと、この娘は生まれていない。
だが、この娘がこちらへ来たのは、五月半前だ。
――どちらも本当なら、途中がある。
◇
「セレン」
「はい」
「――寝てくれ」
「はい」
彼女は、書付を閉じた。
閉じてから、こう言った。
「ハルトさん」
「なんだ」
「私は、二十年、字を読んできました」
◇
「それが」
「読めば読むほど、分からないことが増えます」
彼女は言った。
「若い頃は、読めば減ると思っていました」
俺は、その言葉を聞いた。
「――同じだ」
俺は言った。
「測れば測るほど、合わん場所が増える。……二十年、そればかりだ」
◇
彼女は、少し笑った。
この女が笑うのを、俺は二度目に見た。
「では、同業ですね」
「――そうかもしれん」
俺は言った。
「あんたは字を、俺は物を測ってる」
「マリさんは」
「――あの娘は」
俺は、少し考えた。
「あの娘は、言葉を測ってる」




