帰る
その晩、セレンは寝なかった。
卓に三枚の紙を並べている。
俺の句。杆の銘。分家の詠唱。
三つを、一晩かけて突き合わせた。
朝、俺が起きたときには、四枚目ができていた。
◇
「ハルトさん」
「――寝ろ」
「あとで」
彼女は言った。
「動詞が、絞れました」
俺は、椅子に座った。
◇
「六十八話で、二つに絞りました」
彼女は言った。
「『行く』か『戻る』か」
「そうだった」
「三つ目が出ました」
「――増えたのか」
「いえ」
彼女は言った。
「三つ目が、正解です」
◇
俺は、紙を見た。
同じ形の語が、三つの記録に出ている。
杆の銘。分家の詠唱。それから、俺の句。
三つとも、同じ位置にある。
「読め」
「――『帰る』です」
◇
俺は、その言葉を聞いた。
帰る。
「――『戻る』と、どう違う」
「大きく違います」
彼女は言った。
「『戻る』は、来た道を引き返すことです。……『帰る』は、元いた場所に着くことです」
◇
「同じじゃないのか」
「違います」
彼女は言った。
「『戻る』は、途中でもできます。『帰る』は、着かないと言えません」
俺は、その区別を頭に入れた。
――現場と同じだ。
坑を「引き返す」のと「上がる」のは違う。
◇
「なぜ、今分かった」
「杆の銘です」
彼女は言った。
「『オルソが、カランの九尺十二尺のために作った』——この文の動詞が、同じ語根でした」
「作る、じゃなかったのか」
「二つの意味がありました」
彼女は言った。
「『作る』と『直す』です。……三つ目がありました」
◇
「言え」
「『元に戻す』です」
彼女は言った。
「壊れたものを、元の形に戻すという意味です」
俺は、その言葉を聞いた。
「――直す、と同じじゃないか」
「近いですが、違います」
彼女は言った。
「『直す』は、使えるようにすること。『元に戻す』は、元の姿にすることです」
◇
俺は、そこで手を止めた。
――元の姿にする。
俺は、この五月半で何度もそれをやってきた。
狐を直した。杆を磨いた。
だが、あれは「使えるようにした」だ。
元の姿には戻していない。
◇
「セレン」
「はい」
「俺の句を、全部読んでみろ」
彼女は、少し黙った。
「――完全ではありません」
「不完全でいい」
「はい」
◇
彼女は、紙を見た。
四音を、一つずつ指した。
「シャル。これは地名の前半。『サル』と同じです」
「ああ」
「カディ。これは……まだ分かりません」
「飛ばせ」
「オム。これは接続です。『〜へ』か『〜を』」
◇
「ネイア」
彼女は、そこで指を止めた。
「これが、『帰る』です」
俺は、その音を口の中で言った。
ネイア。
二十年、毎日言ってきた音だ。
意味を知らずに。
◇
「――続けろ」
「はい」
彼女は言った。
「並べると、こうなります。『シャル(の)カディ、オム(へ)、ネイア(帰る)』」
彼女は、顔を上げた。
「カディが分かれば、文になります」
◇
俺は、その形を見た。
――どこかへ帰る。
場所の名前が、抜けている。
「セレン」
「はい」
「カディは、地名の一部だな」
「サルカドの、カドと同じ字です」
「なら」
俺は言った。
「サルカドへ帰る、か」
◇
「それが、一番素直な読みです」
彼女は言った。
「ですが」
「なんだ」
「あなたは、サルカドで生まれ、サルカドで暮らしています」
彼女は言った。
「毎日『サルカドへ帰る』と唱える理由が、ありません」
◇
俺は、その通りだと思った。
――家にいる人間は、家に帰りたいと言わない。
「セレン」
「はい」
「サルカドの『サル』は、何だ」
「分かりません」
彼女は言った。
「ですが、『カド』のほうは、記録に一度だけ出てきます」
◇
「読め」
「古い祈りの文です」
彼女は言った。
「『カドは、繋ぎ目』と」
「――繋ぎ目」
「はい」
彼女は言った。
「二つのものが接する場所、という意味です」
◇
俺は、その言葉を書いた。
カド=繋ぎ目。
サルカド=サルの繋ぎ目。
カラン=カ+ラン。
カが同じ字なら、カラン=繋ぎ目のラン。
◇
「セレン」
「はい」
「――地名じゃない」
俺は言った。
「サルカドもカランも、地名じゃない。……場所の役割の名だ」
「役割、とは」
「繋ぎ目だ」
俺は言った。
「二つのものが接する場所。……その名が、そのまま土地の名になった」
◇
俺は、野帳を開いた。
書いた。
〈カド=繋ギ目〉
〈サルカド=サルノ繋ギ目〉
〈句=「サルノ繋ギ目ヘ、帰ル」〉
書いて、俺は手を止めた。
◇
――繋ぎ目へ帰る。
繋ぎ目は、場所ではない。
二つのものが接する、その場所だ。
こちらと、どこかが接する場所。
「マリ」
「うん」
「――お前が来た場所だ」
◇
彼女は、紙を見ていた。
長いこと見ていた。
それから、こう言った。
「ハルト」
「なんだ」
「わたし、それ、しってる」
◇
俺は、顔を上げた。
「――何を」
「その、おと」
彼女は言った。
「ネイア」
彼女は、自分の口を押さえた。
押さえたまま、動かなくなった。
◇
俺は、その様子を見ていた。
――五月半、この娘がこうなるのは初めてだ。
地の底で獣に囲まれたときも、家が焼けたときも、こうはならなかった。
あの時は、怖がっていた。
今は、違う。
◇
◇
「マリ」
「――しってる」
彼女は言った。
声が、震えていた。
「どこで聞いた」
「わかんない」
彼女は言った。
「でも、しってる。……きいたこと、ある」
◇
俺は、彼女の前に膝をついた。
「マリ。落ち着け」
「おちついてる」
「――落ち着いてない」
俺は言った。
「息が浅い。……座れ」
彼女は、座った。
◇
セレンが、静かに訊いた。
「いつ聞いたか、思い出せますか」
「――むり」
マリは言った。
「でも、たぶん」
彼女は、そこで止まった。
「たぶん、なんだ」
俺は訊いた。
◇
「たぶん、あのひ」
彼女は言った。
「わたしが、こっちにきた、ひ」
彼女は、両手を握っていた。
「そのまえの、よる」
◇
俺は、それ以上訊かなかった。
訊けば、この娘は思い出そうとする。
思い出せなければ、自分を責める。
――五月半、この娘は一度もこちらに何かを求めなかった。
求めない人間ほど、自分を責める。
「マリ」
「うん」
「今日はここまでだ」
◇
「でも」
「今日はここまでだ」
俺は、もう一度言った。
「二年二月ある。……一晩で思い出す必要はない」
彼女は、俺を見た。
「ハルト、いつも、それ、いう」
「言う」
俺は言った。
「一晩で決めると外すからだ。……思い出すのも、同じだ」
◇
その夜、俺は野帳に書いた。
〈ネイア=帰ル〉
〈句ノ意味、三分ノ二判明〉
書いて、その下に足した。
〈マリガ、コノ音ヲ知ッテイル〉
俺は、その行を長く見ていた。
◇
――知っている。
この娘は、地球で暮らしていた。
こちらの言葉を知らなかった。数字だけが通じた。
その娘が、俺の家の句の一音を知っている。
しかも、こちらへ来る前の晩に聞いたと言う。
◇
俺は、寝台の彼女を見た。
背を向けて丸くなっている。
息の仕方で分かる。
――眠っていない。
五十七話の夜と同じだ。
あのときは、俺が言葉で傷つけた。
今夜は、俺のせいではない。
だが、俺が読ませた。
◇
俺は、灯りを消さなかった。
消さずに、卓に座っていた。
――こっちが訊いたことに、下は千九百四十で答えた。
――こっちが読んだ字が、この娘の記憶に触れた。
どちらも、俺が始めたことだ。
二十年、俺は測ることで人を助けてきた。
測ることで人を掘り返すのは、初めてだった。




