開かずの扉
抜けたのは、その日の夕方だった――と、思う。
地の底に夕方はない。俺の腹と、灯りの減り方が、そのくらいだと言っていた。
最後の一撃で、石が内側へ落ちた。
俺は先に頭を入れて、灯りを差し込んだ。
通路だ。
人が立って歩ける高さ。幅も足りている。
俺は身をよじって抜け、それからマリの腕を引いて通した。彼女は肩を擦りむいたが、声を上げなかった。
立ち上がって、灯りをかざす。
通路は、まっすぐ先へ続いていた。
俺は歩数を数え始めた。
数えるのをやめられない。こういう時こそ、やめてはいけない。
◇
三十二歩で、終わった。
壁だった。
通路の突き当たり。左右に分岐はない。上にも下にもない。
俺は灯りを近づけて、壁を撫でた。
石を積んでいる。目地は、ほとんどない。爪が入らない。
――〈此ヨリ奥、目地一分未満〉。
親父の字が、頭に浮かんだ。
俺は杆の石突きで叩いた。
鈍い。詰まっている。厚い。
もう一度、少し高い場所。同じ。
膝の高さ。同じ。
俺はしばらく、その壁の前に立っていた。
風は、確かにここから来ていた。今も、ほんのわずかに来ている。壁のどこかに隙間があるのだ。目には見えないほどの。
その隙間の向こうに、空気がある。
こちら側には、もうあまりない。
◇
俺は座り込んだ。
灯りを床に置く。炎はもう、指の先ほどしか立っていない。
油はまだある。空気がない。
マリが、俺の隣に座った。
黙っていた。
この娘は、こういう時に喋らない。喋れないのではなく、喋らない。
――あと、どのくらいだ。
俺は勘定を立て直した。
人ひとりが一日に吸う空気の量は、だいたい決まっている。ギルドの教本に書いてある。密閉された坑で何日保つか、鉱山の連中が数えた数字だ。
この区画の広さは測ってある。
部屋十一、通路七本。天井高を掛けて、床の面積を掛けて、瓦礫のぶんを引く。
二人で割る。
――七日。
ただし、それは「動かずに座っていれば」の話だ。
鶴嘴を振れば、その倍は吸う。
四日振った。
俺は数字を出し直して、野帳を閉じた。
閉じたのは、書きたくなかったからだ。
俺は野帳を開き直した。
開いたが、書くことがなかった。
図面はもう埋まっている。この区画のすべてを、俺は測り終えている。部屋が十一。通路が七本。行き止まりが六つ。
六つ目を書き足した。
筆先が震えて、線が曲がった。
――ドルスに言われたことを、思い出した。
寸法だけ書け。それが一番嘘をつかない。
俺は正しく測って、正しく書いた。
正しく書いた図面が、出口はないと言っている。
◇
しばらく、そうしていた。
どのくらいだったか分からない。
マリが、俺の荷から水袋を出して、俺の前に置いた。
俺は首を振った。
彼女は袋を押した。俺はまた首を振った。
三度目に、彼女は袋の栓を抜いて、自分で一口飲んで、それから俺に押しつけた。
――先に飲んだから、飲め、ということらしい。
俺は受け取って、一口飲んだ。
温い。
温い水が喉を通る間、俺は妙なことを考えていた。
この娘は五日前まで、俺のことを知らなかった。
言葉も通じない。名前の意味も知らない。どこから来たかも言えない。
それが今、地の底で、俺に水を飲ませようとしている。
――こういうのを、なんと言うんだったか。
言葉が出てこなかった。
俺は栓を閉めて、袋を返した。
やがて俺は立ち上がって、荷を担ぎ直した。
もう一度、壁を見た。
――理屈では、ここで終わりだ。
だが、俺の家は百年この遺跡に通っている。百年通って、誰も死んでいない。それは腕がいいからではなく、たぶん、諦めが悪かったからだ。
俺は壁の前に立った。
杆を持ち替えて、石突きを床に置く。
いつもの構えだ。
――危ない場所に入る前に唱えろ。
親父の声が、なぜかその時に出てきた。
顔は、もうよく思い出せない。
声だけが残っている。低くて、少し掠れた声だ。
あの人は、家の中では滅多に喋らなかった。喋るのは仕事の話と、この言葉を教える時だけだった。
――意味は。
――知らん。
――知らないのに、唱えるのか。
――ああ。
――なんで。
――親父がそうしてたからだ。
子どもの俺は、それで納得しなかった。
納得しないまま、二十四年唱えている。
入る前も何も、俺はもう中にいる。
今さら唱えて、何になる。
それでも、口が動いた。
癖というのは、そういうものだ。祈りでも願いでもない。ただ、そうしないと収まりが悪い。
俺は短く息を吸って、いつもの調子で唱えた。
――シャルカディ・オム・ネイア。
◇
音もなく、壁が動いた。
俺は、それを理解するのに、たっぷり三つ数えるだけかかった。
壁が――正面の、目地一分未満の、厚い石の壁が、上へ滑っていた。
軋みも、埃も、抵抗もなかった。
水が引くように、静かに。
俺は杆を落とした。
落としたことにも、しばらく気づかなかった。
開いた先から、空気が来た。
冷たい、乾いた空気だった。
俺は思い切り吸い込んで、咳き込んだ。
咳き込みながら、床に手をついた。
息ができる。
それだけのことが、こんなに違うのかと思った。
頭の奥に張りついていた鈍い痛みが、二つ数えるうちに薄れていった。
自分がどれだけ鈍くなっていたか、その時になって初めて分かった。
俺は四日間、正しく考えていたつもりでいた。
つもりだった。
マリが隣で咳をしていた。背中を叩いてやろうとして、手が震えていて、うまく当たらなかった。
◇
(――光った)
私は、それを見ていた。
ハルトさんが壁の前に立って、いつものあれを言った。
シャルカディ・オム・ネイア。
毎回言うから、私はもう音を覚えてしまっている。
言った瞬間だった。
壁の――目の高さより少し上のところに、細い模様が浮かんだ。
いや、浮かんだんじゃない。もともとそこにあった。
彫ってあったのが、光ったんだ。
白い光じゃなかった。青みがかっていて、蛍光灯みたいに、ゆっくり明るくなって、ゆっくり消えた。
一秒か、二秒。
それだけだった。
消えた後、壁が上に動いた。
私は声も出せずに、それを見ていた。
ハルトさんは、壁を見ていた。
光ったところを、見ていなかった。
彼はちょうど息を吸うところで、下を向いていたから。
◇
俺は壁の断面に手を当てた。
厚みは一尺以上ある。石だ。間違いなく石だ。
これが、動いた。
軋まずに、埃も上げずに、真上へ。
……仕掛けだ。
昔の建物には、そういうものがある。重りと縄で釣り合わせた戸。踏むと開く床。学士院の書物に書いてあると、ドルスも言っていた。
揺れで何かが外れて、たまたま今、釣り合いが崩れた。
そういうことだろう。
俺は自分にそう説明した。
説明しながら、手が震えているのに気づいて、握り込んだ。
偶然だ。
百年通って、一度も動かなかった壁が、俺が唱えた直後に動いた。
そういう偶然も、ある。
――ある、はずだ。
マリが、俺の袖を引いた。
振り返ると、彼女は壁の上のあたりを指していた。何度も、強く。
何か言っている。早口だった。
俺は灯りを上げて、そこを見た。
彫り込みがある。
六話の広間で見た、あの帯状の模様と同じ作りのものだ。
だが、ただ彫ってあるだけだった。
俺は手を伸ばして、触れた。
冷たい。ざらついている。ただの石だ。
「……何もないぞ」
マリは首を振った。
激しく振った。それから、自分の目を指して、壁を指して、両手をぱっと開いた。
光った、と言っているように見えた。
俺は、もう一度その彫り込みを見た。
暗い。
何も光っていない。
「疲れてるんだ」
俺はそう言って、杆を拾い上げた。
言ってから、それが自分に向けた言葉だと気づいた。
◇
開いた先を、灯りで照らす。
通路が続いていた。
俺は一歩、踏み出した。
足音が、違った。
石を踏む音ではない。もっと硬くて、もっと平たい音がした。
灯りを下げる。
床に、継ぎ目がない。
一枚の板を敷いたように、ずっと先まで、切れ目なく続いている。
顔を上げる。
壁も同じだった。積んでいない。刳り抜いてもいない。
どうやって作ったのか、まったく分からない面が、灯りの届く限りまっすぐ伸びていた。
その表面が、灯りを受けて、鈍く光っている。
俺は動けなかった。
三十四年、遺跡を測ってきた。
こんな造りは、一度も見たことがない。




