地の底の夜
閉じ込められた時、最初にやることは決まっている。
数えることだ。
油――灯り二つぶんで、六日。節約すれば十日。
水――革袋二つ。三日。
食料――四日ぶん。
空気――分からない。
最後の一つが、いつも一番怖い。
俺は野帳の新しい頁に、それを書いた。書いてしまえば、あとは数字の話になる。
数字は騒がない。
書き終えて、顔を上げた。
マリが、瓦礫の山の前に立っていた。
両手を垂らして、じっと見上げている。
声はなかった。
――泣くか。
泣かれたら、どうしようかと思った。
俺には、慰め方が分からない。言葉が通じないから、ではない。通じても分からない。
だが、マリは泣かなかった。
しばらくして、こちらを振り返った。
そして、俺の手元の野帳を見た。
俺が書いているのを見て――彼女は瓦礫から離れて、俺の隣に来て、座った。
覗き込んで、数字を目で追っている。
俺は野帳を彼女のほうへ傾けた。
油、六日。水、三日。食料、四日。
指で示していく。
マリは頷いた。
それから、水の項を指して、指を三本立てた。
三日。分かっている、という顔だった。
――分かった上で、落ち着いている。
俺は少し、この娘を見直した。
いや、見直したというより――
この娘は、俺が慌てるかどうかを見ていたのだと、後になって思った。
◇
最初の一日で、俺はこの区画をすべて測り終えた。
仕事だからではない。図面がなければ出口を探せないからだ。
部屋が十一。通路が七本。行き止まりが五つ。
空気の流れを見るために、灯りの炎を細くして、通路の入口ごとに置いて回った。
揺れる場所が二つあった。
そのうち一つは、天井の亀裂だった。人が通れる幅ではない。
もう一つは、区画の一番奥。壁の下に、掌が入るくらいの隙間があった。
そこから、微かに風が来ていた。
――風は、嘘をつかない。
測量士が最初に教わることの一つだ。
図面は間違える。記憶も間違える。人の証言はもっと間違える。
だが、空気は理屈通りにしか動かない。流れているなら、行き先がある。
俺は隙間の前で灯りを寝かせ、炎の傾き方を見た。
傾いている。緩いが、絶えない。
――ここだ。
この壁の向こうに、空気の通り道がある。
俺は野帳に印を入れて、その日はそこで作業を止めた。
初日に無理をすると、二日目が丸ごと潰れる。
風が来るということは、どこかで外と繋がっている。
俺はその壁の前に座り込んで、しばらく動かなかった。
◇
二日目の夜――夜と言っても、灯りを消せばいつでも夜だが――俺たちは食事を減らした。
パンを半分に割って、マリに大きいほうを渡す。
マリは首を振って、俺に返してきた。
俺はもう一度渡した。マリはもう一度返した。
三度目に俺が渡すと、マリは受け取って、自分でそれをさらに半分にして、片方を俺の膝に置いた。
……理屈で来られると、こちらが引くしかない。
俺は荷から小さな麻袋を出した。
中身は、乾いた葉だ。細くて、白っぽい。
「カラン草だ」
一枚つまんで、口に入れて噛んでみせる。苦い。ひどく苦い。
マリは眉を寄せて、それでも真似をした。
噛んだ瞬間、盛大に顔をしかめた。
俺は少し笑った。
「すぐに慣れる。腹が減らなくなる」
言っても通じないので、俺は腹を叩いて、それから手で「減る」の形を作って、首を振ってみせた。
マリは、しばらく噛んでいた。
そして、目を丸くした。
効いたらしい。
空腹というのは不思議なもので、腹の中身とは別に、頭が騒ぐ。カラン草はその騒ぎのほうを静める。旅商人が使う。測量士も使う。飢えは満たさない。ただ、飢えていることを忘れさせる。
マリが、何か言った。
少し長い言葉だった。それから、自分の腰のあたりを両手で挟むような仕草をして、笑った。
笑った、というのが久しぶりだった。
「……何だそれは」
俺には分からなかった。
分からなかったが、その仕草があまりに真剣だったので、俺は訊き返した。
「腹が痛いのか」
マリは首を振って、また同じ仕草をして、それから細くなる、という手つきをした。
細く。
……細くなりたいのか。
俺は袋の中の苦い葉を見た。
「これは、そういう草じゃないぞ」
言うと、マリはきょとんとした顔をした。
もちろん、通じていない。
俺は袋の口を閉じて、腹が減らなくなるだけの草だ、ともう一度腹を叩いて示した。
マリは頷いて、それでも何かに納得した顔で、葉をもう一枚つまんだ。
◇
三日目。
風の来る隙間を、俺は少しずつ広げていた。
鶴嘴で叩き、砕き、掻き出す。一刻やって、掌の幅が指二本ぶん広がる。それだけだ。
交代でやろうとマリが手を出したが、断った。腕の力の問題ではない。狭い場所で長く同じ姿勢を保つのは、慣れていないと関節を壊す。
代わりに、掻き出した石屑を運ばせた。
彼女は文句も言わずに、何度も往復した。
休憩の時、俺は灯りを絞って、床の埃を手で均した。
そこに、指で線を引いた。
家の形。
自分を指して、家を指す。
マリが頷いた。
俺は家の隣に、丸を二つ描いた。土を盛った塚の形だ。この国では、そう描けば墓と分かる。
それから、自分の背丈を低くする手つきをして――子どものころ、という意味だ――塚を指した。
マリの顔から、笑いが消えた。
俺は続けなかった。
どうして死んだのか。誰に殺されたのか。なぜ俺だけが逃げたのか。
そういうものは、線では描けない。
描けないのが、この時ばかりは都合が良かった。
◇
しばらくして、マリが俺の指から枝を取った。
彼女は自分の絵を描き始めた。
小さな家。屋根が浅い。周りに何本か木。
その横に、人をひとり。背が低くて、丸い。
自分を指して、その人を指して、両手を合わせて頬に寄せた。眠る仕草――ではなく、たぶん、好き、という意味だ。
「……祖母さんか」
マリは頷いた。俺の言葉が分かったわけではないだろう。表情で通じたのだと思う。
それから、彼女は家の向こうに、丸をいくつも描いた。
円を描くように、規則正しく並べて。
俺は首を傾げた。
マリは、その丸を一つ一つ指して、自分の背丈より高い高さを手で示した。
石だ。
背より高い石が、輪になって立っている。
俺は聞いたことがなかった。
この国に、そんなものはない。
「そういう場所があるのか」
マリは頷いて――それから、少し困った顔をした。
自分でも、あれが何なのか知らないのだ。
その顔で、なぜか俺は納得した。
俺だってそうだ。石段の一段目でまじないを唱えて、意味を知らない。
昔からあるものの理由を、誰も知らないまま暮らしている。
どこの国でも、同じらしい。
◇
(――伝わってる)
私は、自分の描いた絵を見下ろしていた。
埃の上に指で描いた、下手くそな家。
でも、伝わった。
この人は「祖母さんか」と言った。たぶん、そういう意味のことを言った。声の柔らかさで分かった。
言葉が通じないって、こんなにいろんなことができるんだ。
この五日間で、私はずいぶん器用になった。
指を差す。形を作る。絵を描く。顔を見る。
昔の私なら、たぶん、もっと早く泣いていた。
――泣かなかったのは、この人が泣かないからだ。
この人は、閉じ込められた日から一度も慌てていない。
最初にやったのが、荷物を全部出して、数を数えて、何かを書くことだった。
その手つきが、あんまり普通だったから、私も普通の顔でいられた。
絵の中の、おばあちゃんを見る。
丸くて、背が低くて、いつも台所にいる人。
私が転移した日――たぶん、あれは転移というやつだと思う――家に帰らなかった私を、どれだけ探しただろう。
警察を呼んだかもしれない。
山を探したかもしれない。
あの体で。
喉の奥が痛くなって、私は絵から目をそらした。
そらした先に、ハルトさんが描いた塚が二つあった。
この人も、探されなかった側だ。
いや――探しても、見つからなかった側か。
私は膝を抱えた。
◇
俺は枝を取り返して、もう一つ描き足した。
塚のそばに、人をひとり。
髪を、線で長めに描いた。
――母だ。
なぜ描いたのか、自分でも分からなかった。
描いてしまったので、俺は付け足した。指先に炭をつけて、その髪を黒く塗り潰した。
この国では、まず見ない色だ。
子どものころ、市場で母の手を引いて歩くと、人が振り返った。母は気にしていないふりをしていた。今なら、気にしていたのだと分かる。
塗り終えて、顔を上げた。
マリが、絵を見ていた。
黒く塗られた髪を、じっと見ていた。
そして――ゆっくり、自分の髪に手をやった。
俺は、何も言わなかった。
言うことがなかった。
言うことがない、という事実に、少しだけ胸を突かれた。
灯りが揺れて、二人の影が壁で伸びた。
◇
四日目。
隙間は、腕が肩まで入るところまで広がった。
その先は、空洞だ。棒を差し込んでも底に当たらない。
風は、確かにそこから来ている。
俺は鶴嘴を置いて、息を整えた。
あと半日。半日でここを抜けられる。
――そう思った時、灯りの炎が、細く長く伸びた。
俺は動きを止めた。
炎の形を、じっと見る。
揺れていない。
伸びている。
……風が、止まっている。
俺は隙間に顔を近づけた。頬に当たっていたはずの流れが、ない。
もう一度、灯りを近づける。
炎が、わずかに縮んだ。
俺は口の中が乾くのを感じた。
空気が薄い場所では、炎が先に弱る。人はまだ気づかない。気づいた時にはもう遅い。
振り返ると、マリが石屑の籠を抱えて立っていた。
俺の顔を見て、動きを止めた。
彼女は、俺の顔色を読むのが上手くなりすぎている。
俺は灯りを持ち上げて、なるべく平らな声で言った。
「――急ぐぞ」




