未踏区画
ドルスは、そこで引き返した。
「行きたくないと言えば嘘になります」
荷を分けながら、彼は言った。
「ですが、私が同行して得られるものより、私を担いで帰るあなたの負担のほうが大きい。計算は明らかです」
「賢いな」
「学者ですから。……ハルトさん」
ドルスは、拓本を丸めた紙筒を大事そうに抱えて、それから振り返った。
「壁の向こう、必ず記録してください。寸法だけで結構です。それが一番、嘘をつかない」
「そうする」
学者は石段を上がっていった。
残ったのは、俺とマリの二人になった。
◇
壁は、揺れですでに割れていた。
半寸引っ込んでいた三歩ぶん――その中央に、髪の毛ほどの亀裂が縦に走っていた。灯りを寄せなければ見えない。
鶴嘴を当てると、思ったより脆く崩れた。
崩れた断面を、俺は灯りで照らして、動きを止めた。
塗ってある。
石を積んだ壁の上から、何か別のものを薄く塗って、面を作ってある。塗った跡を丁寧に均して、周りの壁と同じに見せてある。
誰かが、後から塞いだのだ。
しかも、隠すつもりで塞いだ。
俺は開いた穴に灯りを差し入れた。
階段だった。
下へ続いている。
◇
降りながら、俺は測った。
いつも通りだ。歩数を数え、杆を立て、野帳に落とす。
――段の蹴上げ、六寸。
筆が止まる。
六寸。
俺は次の段を測った。六寸。その次。六寸。
当たり前だ、と自分に言い聞かせる。
当たり前ではない。
この階段は、百年間誰も知らなかった場所にある。俺の家が代々測ってきた区画ではない。基準線もない。誰の手も入っていない。
その階段が、上の区画とまったく同じ蹴上げで刻まれている。
降りきったところで、通路の幅を測った。
四尺五寸。
天井高。八尺二寸。
俺は杆を置いて、もう一度測った。
同じだった。
三度目を測った。
同じだった。
――測り直すという行為に、意味がないことは分かっている。
俺の測り方は正確だ。三度測って三度同じなら、それは正しい。
正しいと分かっていて、四度目を測った。
四尺五寸。
俺はしばらく、その数字を見ていた。
――同じ職人が作った、では説明がつかない。
職人というのは、人だ。人は同じ物を二つ作れない。だから測量士がいる。同じ図面から建てても、現場で必ずずれる。そのずれを測るのが俺の仕事だ。
百年前の家と、今掘り出した階段が、寸分違わない。
それは、職人の仕事ではない。
――では、何の仕事だ。
俺は野帳の頁を戻した。
旧市街の浅い家。三年前に測った、部屋二つの小さいやつ。
通路幅、四尺五寸。
その前の頁。貴族の屋敷跡だと言われている、六部屋のもの。
四尺五寸。
その前。カラン村の近くで測った、まるで別の場所の遺構。
四尺五寸。
――全部だ。
俺は今まで、これを「同じ流儀だ」と書いてきた。
書いて、それ以上考えなかった。
考えなかったのは、考えても図面に書けないからだ。
今も書けない。
だが今日は、考えてしまった。
人の手が、これほど揃うことはない。
揃うものが、この世に一つだけある。
――型だ。
同じ型で抜いた物は、揃う。
だとすると、この階段は、この通路は、この遺跡は。
誰かが一つずつ建てたのではなく――
俺はそこで思考を止めた。
止めたというより、その先へ行く言葉を持っていなかった。
マリが、俺の顔を覗き込んでいた。
筆が止まっていることに気づいたらしい。
俺は野帳を見せた。上の区画の頁と、今書いた頁。同じ数字が並んでいる。
マリは二つの頁を見比べた。
そして、俺の顔を見て――少しだけ、怖い顔をした。
言葉は要らなかった。
この娘も、同じことを思ったのだ。
◇
通路は、思ったより広い区画に出た。
部屋がいくつも並んでいる。天井が抜けた跡はない。埃だけが厚く積もっていて、足を下ろすたびに白く舞う。
誰も来ていない。
本当に、誰も。
二つ目の部屋に、物が残っていた。
埃の山に見えたものを、杆の先で崩した。
――椅子だ。
脚が四本。背もたれの形が崩れている。木ではない。触れると指の跡がつくほど脆くなっているが、木の腐り方ではなかった。
その隣に、卓の脚。
部屋の隅に、壺のようなものが三つ。ひとつは倒れて、中身が乾いた粉になって床に広がっている。
俺は灯りを持ったまま、しばらく突っ立っていた。
――家だ。
当たり前のことに、今さら気づいた。
旧市街は家々の跡だ。俺は毎年それを測っている。だが、俺が測るのはいつも、空っぽになった穴だ。
千年ぶん誰かに漁られて、運び出されて、床だけになったところ。
ここは、漁られていない。
誰かが椅子を置いた場所に、椅子がある。
卓の脇に、小さいものが落ちていた。
拾い上げる。
櫛だった。
歯が半分欠けている。背の部分に、細かい彫りがある。花のような、渦のような。
持ち主が、これで髪を梳いていた。
俺はそれを、元の場所に戻した。
――なぜ戻したのか、自分でも分からない。
三万レンの依頼だ。持ち帰れば学士院が喜ぶ。ドルスなら泣いて喜ぶだろう。
それでも、戻した。
マリが、少し離れたところから、それを見ていた。
何も言わなかった。
俺は野帳に落とし続けた。部屋の数、寸法、開口部の位置。方位。
〈家具残置。持出セズ〉と書き足した。
理由は書かなかった。
三つ目の部屋の隅で、マリが立ち止まった。
灯りが、そこで動かなくなる。
「どうした」
近寄って――俺も止まった。
小さな獣が、蹲っていた。
狐だ。それも、掌に載るくらいの。
埃をかぶって、丸くなって、動かない。
俺は膝をついた。
体に触れる。冷たい。硬い。毛皮ではない。
金属だ。
いや――金属に、極細の毛を植えたような表面をしている。撫でると指に引っかかる。
背中に、細かい模様が走っていた。
同心円と、そこから枝分かれする線。
俺は息を吸った。
「――これが、『鉄狐』か」
声が上ずったのが、自分でも分かった。
遺跡に棲む小さな狐。見た者に富と無事をもたらす。守り神の使い。
ギルドで小僧どもが笑いながら話していた、あの与太話だ。
俺だって信じてはいなかった。
いなかったが、こうして目の前にいると、話は変わる。
「噂には聞いていたが……実物は、初めてだ」
◇
(――え?)
私は、その狐を見下ろしていた。
ハルトさんが、明らかに興奮している。
声が少し高くなって、早口になって、私にも分かるくらい嬉しそうだった。
こんな顔をする人だったんだ、と思った。
それはいい。それはいいんだけど。
(……狐だよね、これ)
私はしゃがんで、覗き込んだ。
耳の形。三角で、先が少し丸い。
尻尾。太くて、先が白っぽい。
鼻先の尖り方。目の位置。前足の細さ。
狐だ。
どこからどう見ても、狐だ。
動物園で見た。図鑑で見た。北海道の写真で見た。
(地球にいる狐そのものだよ、これ)
言ってみた。通じないのは分かっていたけど、言わずにいられなかった。
ハルトさんが顔を上げた。
私は自分を指して、それから狐を指して、両手で「同じ」という形を作った。
うちの国にもいる。同じのが。
ハルトさんは、しばらく私の手を見ていた。
それから、ああ、という顔をした。
「そっちにも、いるのか」
通じた、と思った。
と思ったら、彼は肩をすくめた。
「北にも棲んでるのか。……変わった偶然だな」
そう言って、彼はまた狐に向き直った。
嬉しそうな顔のままだった。
(いや、そうじゃなくて)
私は口を開いて、閉じた。
説明する言葉がない。
この人は今、これを珍しい生き物だと思っている。伝説の生き物だと思っている。
私は、ただの狐だと思っている。
どっちも譲る気がないまま、話は終わった。
◇
俺は狐を布に包んで、荷袋に入れた。
死骸を持ち帰るのかと言われれば、そうではない。
持ち上げた時に、腹のところで小さく何かが鳴った。
からから、と。
中で、部品が転がる音だった。
――壊れた道具だ。
俺はそう思った。
死骸なら、腹の中で物は鳴らない。
この狐は、獣ではない。
毛のように見えるものは、細い針を植えたものだ。目に当たる場所には、硝子より透明な玉が嵌っている。
背中の模様は、彫ったのではない。表面より少しだけ盛り上がっている。あとから貼ったか、内側から浮き出させたか。
こういう作りをした道具を、俺は知らない。
知らないが、道具であることは分かる。
道具なら、直せるかもしれない。
それだけの理由で拾った。師匠が生きていたら、また拾ってきたのかと呆れただろう。
あの人は、俺が壊れた測量具を捨てられない性分だと知っていた。
――お前は物を拾いすぎる。
そう言われたことがある。
拾って、直して、使わないまま棚に並べる。使わないのに、捨てられない。
だから俺は、この歳まで一人で、家の棚だけがいっぱいだ。
仕事に戻る。
部屋を四つ測り終えて、五つ目に入ろうとした時だった。
――地面が、鳴った。
低い音だった。足の裏から腹に来る。
俺はマリの腕を掴んで、壁際へ引いた。
埃が落ちてくる。天井の一部が、遅れて崩れた。
音は、来た方向からだった。
揺れが収まってから、俺は灯りを持って戻った。
降りてきた階段が、途中から埋まっていた。
瓦礫が、天井まで詰まっている。
俺は杆で突いた。動かない。上から石が抜けた。掘るには何日かかるか分からない。
振り返る。
マリが、俺の顔を見ていた。
俺は、なるべく落ち着いた声を出した。
「――別の道を探す」
通じないのは、この時ばかりは、ありがたかった。




