中層
中層に降りると、空気が変わる。
重くなる、と測量士は言う。実際に重いわけではない。動かない空気は匂いを溜め込むので、そう感じるだけだ。
灯りの届く先が短くなった。
ドルスの息が上がっている。俺は歩調を落とした。
「……これは、失礼。思っていたより」
「喋るのをやめれば楽になる」
「それが一番難しい」
◇
洞犬が出たのは、三つ目の分岐だった。
匂いで分かっていた。獣臭が濃い。糞の跡もあった。だから分岐に入る前に、俺は通路の幅を測っていた。
四尺五寸。
この幅なら、横に並べるのは一頭だけだ。
「下がってろ」
ドルスの襟を掴んで後ろへ押しやり、マリに灯りを渡す位置を指した。俺の右斜め後ろ、壁際。そこなら奥まで照らせて、俺の前には出ない。
マリは正確にそこへ立った。
闇の奥で、爪が石を掻いた。
一頭目が出てきた。犬より胴が長く、脚が短い。目が白く濁っている。この深さの獣はたいてい目が悪い。匂いと音で来る。
二頭目、三頭目。
俺は杆を寝かせ、石突きを通路の中央に置いた。
一頭目が跳んだ。
俺は杆を跳ね上げた。突かない。下から掬い上げるように、顎の下を打つ。
骨の折れる音がして、洞犬が横倒しになった。
その死骸が、通路を塞ぐ。
二頭目が、それを乗り越えようとして一瞬止まった。
止まったところを打った。
三頭目は来なかった。仲間の音を聞いて、引き返した。
俺は杆を立てて、息を整えた。
手が痺れている。
顎の下は骨が薄い。だから狙う。だが、当てる場所より、当てる時のほうが大事だ。
跳んだ獣は、空中で向きを変えられない。
跳ぶ前に打とうとすると、避けられる。着地してから打とうとすると、こちらが遅い。
跳んでいる間だけが、相手が何もできない時間だ。
その一瞬に杆を出す。それだけの技術で、俺は十四年生きている。
――四つ数えるほど。
狭い通路は、こちらの味方だ。一頭ずつしか来られない。だから俺は分岐に入る前に幅を測る。測ってから、戦うかどうかを決める。
広い部屋で三頭に囲まれたら、俺は死ぬ。
背後で、ドルスが壁にもたれて座り込んでいた。
「……いや。素晴らしい」
「褒めるところじゃない」
「褒めますとも。私は今、生きていますから」
マリは灯りを構えたまま、動かずにいた。
顔が白かった。それでも、灯りは一度も揺れていなかった。
俺は死骸の脇にしゃがんで、爪を検めた。
「牙は取らないんですか」
ドルスが訊いた。
「冒険者なら取るでしょう」
「俺は買い手を知らない」
それに、荷が増える。血の匂いも増える。この先で別の獣を呼ぶ。
俺は死骸を通路の端へ寄せた。二頭とも。
通り道を空けておくのは、後から誰かが来た時のためだ。誰も来ないかもしれないが、来るかもしれない。
顔を上げると、マリが俺の手元を見ていた。
死骸を蹴って寄せるのではなく、持ち上げて置いている。それを見ている。
俺は布で手を拭いて、立ち上がった。
「行くぞ」
◇
その先の広間で、ドルスは息を吹き返した。
壁を見た瞬間だ。
「――これは」
彼は荷を投げ出して、壁に駆け寄った。
壁の腰の高さから上に、帯状の彫り込みがある。
模様、と呼べば模様だ。同じ形がいくつも並び、途中で区切られ、また別の形が続く。
「典型的な帝国後期の装飾帯です。王都の学士院にも拓本がある」
「装飾」
「ええ。意味はありません。反復による荘厳の演出です。当時の建築様式ですよ」
ドルスは紙を取り出して、擦り始めた。
「見なさい、この規則性。これほど整った反復は、後の時代には作れなかった。だから帝国は偉大だと言われるのです」
「意味はない、と言い切れるのか」
「言い切れます」
ドルスは擦る手を止めずに答えた。
「意味のある文字なら、頻度に偏りが出る。よく使う字と、めったに使わない字が分かれる。どの言語でも必ずそうなります」
「これは分かれていない」
「均一です。数えました。学士院で、拓本を五十枚ぶん」
ドルスは初めて、少しだけ得意そうな顔をした。
「ですから、これは文字ではない。文字を模した装飾です。当時の職人が、読める者のいなくなった古い書体を、模様として使った。よくある話ですよ」
筋は通っている。
通りすぎている、と俺は思った。
均一に並べるほうが、偏らせるより難しい。
人が模様を彫れば、必ず癖が出る。彫りやすい形が増える。
均一にするには、数えながら彫らなければならない。五十枚ぶんの拓本の全部で、数えながら。
俺は横で聞いていた。
規則性。整った反復。
――昨日どこかで、同じことを考えた気がする。
思い出した。
俺の杆の柄に刻まれた銘だ。
文字にしては規則が整いすぎている、と俺が思ったやつだ。
俺は無意識に杆を持ち替えて、柄を灯りに寄せた。
銘の形と、壁の彫り込みを見比べる。
同じではない。
だが――同じ「作り」に見えた。
同じ考え方で並べられている、という意味で。
「ハルトさん?」
「いや」
俺は杆を戻した。
図面に書けないことは言わない。そう決めている。
◇
(――見たこと、ある)
私は、その壁の前に立っていた。
ドルスさんが紙を当てて鉛筆みたいなもので擦っている。拓本だ。中学の授業でやったのを覚えている。
模様は、たぶん模様じゃない。
だって、区切りがある。同じ長さで区切られて、その中で形が変わっている。
文字だ。読めないけど、文字の並び方をしている。
でも、私が引っかかったのは、そこじゃなかった。
この形。
この、丸の中に短い線が三本入っているやつ。
どこかで見た。
思い出そうとする。学校じゃない。テレビでもない。もっと、生活の中の――
おばあちゃんの家。
玄関の靴箱の上に、古い石が置いてある。手のひらくらいの、灰色の。
子どものころ、あれは何と訊いたら、おばあちゃんは「じっちゃんが畑から掘ったもんだ」と言った。捨てるのも悪いから置いてある、と。
あの石に、彫ってあった。
――丸の中に、線が。
私は息を吸った。
(違う。違う違う。似てるだけだって)
畑から出てくる石なんて、日本中にいくらでもある。縄文時代の遺跡だとか、そういうのだ。
偶然だ。
偶然、なのに。
どうして手が震えているんだろう。
私は一歩下がって、壁全体を見た。
帯は、通路の奥までずっと続いている。
灯りの届かないところまで、同じ間隔で、同じ高さで。
ドルスさんは「装飾」と言っているらしい。言葉は分からないけど、楽しそうな顔で拓本を取っているから、たぶんそういう扱いなんだと思う。
(……装飾だったら、いいのに)
私は自分の手を握った。
装飾なら、意味はない。
意味がないものは、似ていても偶然で済む。
でも、もしこれが文字だったら。
文字だったら――誰かが、何かを、ここに書いたということになる。
書いた人がいるということになる。
私はもう一度、丸の中の線を見た。
おばあちゃんの家の、玄関の靴箱の上。
あの石は、まだそこにあるだろうか。
あるに決まっている。あるに決まっているのに、なぜか、二度と見られない気がした。
◇
広間を出て、二つ目の通路で、俺は足を止めた。
右手の壁。
基準線が、途切れている。
代々の測量士が引いてきた、腰の高さの一直線。それが、この壁のある一点でぷつりと切れて、少し先からまた始まっている。
途切れているのは、およそ三歩ぶん。
「……何だこれは」
俺は屈んで、壁に灯りを当てた。
切れ目のところで、壁の面が奥へ引っ込んでいる。ほんの半寸ほど。目では分からない。手を当てて初めて分かる。
半寸。
壁が、半寸引っ込んでいる。
俺は野帳を開いた。去年の頁。この通路の記述。
――〈相違無シ〉。
俺の字だ。
去年の俺は、この半寸を書いていない。
気づかなかったのか。それとも――去年は、なかったのか。
「ドルス」
「はい?」
「この壁の向こう、何があると思う」
「向こう? 岩でしょう。地面の中ですから」
俺は杆の石突きで、壁を叩いた。
こん、と鳴った。
もう一度、少し離れた場所を叩く。
ごつ、と鳴った。
……音が違う。
三歩ぶんの区間だけ、明らかに軽い。
俺は立ち上がって、自分の頭の中の図面を広げた。
この遺跡の全体図。百年ぶん、誰かが積み上げてきた線の集まり。
その中に、今立っている場所を置く。
入口から数えて、東へ百四十二歩。二度折れて、下へ二層。
地上の位置に直せば、丘の南斜面の下だ。
その丘の形は測ってある。表面の起伏も、外周も、去年の図面に入っている。
そして、壁の向こうの三歩ぶんの空間を、そこに足す。
――入らない。
入らないのだ。
この遺跡の外周は決まっている。地上から測った位置も、深さも、全部出ている。その内側に、この空洞は収まらない。
収まらないものが、ここにある。
俺は野帳を持つ手に力を入れた。
「……この遺跡、図面より広い」




