浅層
浅層の測量は、ほとんど確認作業だ。
図面はもうある。俺の頭の中にもある。歩きながら数字を拾い、去年と違うところだけを書き足していく。
それでも省かない。
省いた年に限って、何かが変わっている。
「見事なものですね」
ドルスが後ろから言った。
「何が」
「歩幅です。さっきから一歩も乱れていない。私は数えていました」
「数えるな。集中が切れる」
「これは失礼」
ドルスは楽しそうに笑った。この男は、叱られても機嫌が良い。
◇
マリには、縄と灯りを持たせている。
縄は張る。灯りは俺の斜め後ろ、少し高い位置に構える。手元に影を作らないためだ。
最初の日は何度も位置がずれた。今日は、ずれない。
俺が屈めば灯りが下がり、天井を見上げれば灯りが上がる。こちらが何も言わなくても、そうなる。
――見ている。
この娘は、ずっと俺の手元を見ている。
言葉が通じないぶん、他のところを全部使っているのだろう。
俺は野帳をめくりながら、少しだけ考えた。
教える手間が、ほとんどかかっていない。
見習いに教える時は、まず口で言う。次にやって見せる。それから何度もやらせる。それでも半年かかる。
こいつは、口で言う部分がまるごと抜けている。
抜けているのに、進みが早い。
――言葉というのは、教えるのに要るだけで、覚えるのには要らないのかもしれない。
そんなことを思った。
思って、自分で少し可笑しくなった。
三十四にもなって、助手一人でものの考え方が変わっている。
◇
浅層の三本目の通路で、灯りが少し高くなった。
振り返ると、マリが天井を見上げていた。
俺の癖を真似している。
俺は入口ごとに天井を見る。まず高さを見て、それから継ぎ目の乱れを見る。落ちる天井は、必ず先に線が入る。
マリは、たぶん理由を知らない。
知らないまま、見上げている。
俺は杆を立てて、天井の一点を指した。
そこに、細い線が走っていた。
髪の毛ほどの。今年入ったやつだ。
マリの顔が変わった。
俺は野帳に印を入れて、その真下を避けて歩いた。
マリも避けた。
――これで、こいつは天井を見る理由を覚えた。
半年ぶんを、一つ。
ふと、灯りが止まった。
振り返ると、マリが壁を照らしていた。
壁面に、細い線が彫ってある。腰の高さに、真横へ一直線。等間隔に短い刻みが入っている。
「――ああ、それか」
俺は近寄った。
「目盛りだ。基準線。うちの家系が代々つけてる」
通じない。
仕方がないので、杆を当てて見せた。線に杆の目盛りを合わせ、床までの高さを測って、野帳に書く。
マリの目が、線と杆を往復した。
それから、線を指で辿って、ずっと先まで目で追った。線は通路の奥へ、暗がりの中まで続いている。
この線は、この遺跡の全部の通路にある。
誰が最初に引いたのかは分からない。少なくとも百年前の図面には、もう「基準線ニ拠ル」と書いてある。
ドルスが横から覗き込んだ。
「これは……面白い。他の遺構にもありますか」
「ある」
「全部に?」
「俺が入った範囲では、全部に」
ドルスの手が止まった。
「それは、つまり」
「同じ流儀の測量士が、昔からいたってことだろう」
俺はそう言って、歩き出した。
言いながら、自分でも思っていた。
――百年より前の測量士が、どうやって全部の遺構に同じ高さで線を引いたんだ。
◇
◇
五つ目の部屋で、寸法が合わなかった。
北の壁。図面では十二尺三寸。
測ると、十二尺一寸。
二寸足りない。
俺は屈んで、壁の根元を照らした。
――ああ。
積み直してある。
目地の色が違う。新しい漆喰だ。三十年か、四十年か。それくらい前に、この壁は一度崩れて、誰かが直している。
直した人間は、元の寸法を知らなかった。だから二寸ずれた。
俺は野帳に書いた。
〈北壁、補修。十二尺一寸ニ改ム。旧図十二尺三寸〉
これでいい。
これが、普通だ。
古い建物は変わる。崩れて、直されて、そのたびに寸法が動く。だから毎年測る。動いたところを見つけて、書き換える。
それが百年ぶんの紙の意味だ。
マリが横で覗き込んでいた。
俺は図面の数字と、今書いた数字を指で示して、首を振ってみせた。違う、という形だ。
それから壁の新しい漆喰を指して、両手で「後から」という仕草をした。
通じたかどうかは分からない。
ただ、マリは壁の目地に顔を近づけて、色の違いをしばらく見ていた。
◇
昼を、三つ目の広間で取った。
パンと干し肉。ドルスは自分の荷から乾した果物を出して、マリに分けた。マリは両手で受け取って、頭を下げた。
「礼儀正しいお嬢さんだ」
「そうだな」
「北の出だと聞きましたが」
「役所がそう推測しただけだ」
「ふむ」
ドルスは果物を齧りながら、天井を見上げた。
「星が良い晩でしたね、昨日は」
「〈環〉が近い」
「よくご存知だ。粉屋も酒屋も同じことを言っていましたよ。今夜は仕込みに向く、と」
「実際に向くんだろう」
「向きます。理由は誰も知りませんが」
ドルスは、そこで少し声の調子を変えた。
「魔法の効きが変わるのは、星の並びのせいだ――というのが、学士院の若い連中の説です。星回りが良ければ効きが上がる。悪ければ落ちる。統計は取ってあります」
「統計」
「三十年ぶん。数えれば分かります。数えても、なぜかは分かりませんが」
俺は干し肉を噛みながら、そのことを考えた。
空の並びが、地上の物事を変える。
言われてみれば、おかしな話だ。
星は遠い。あれは手の届かない場所にある。それが、なぜ地面の上の焚き火や薬草の効きに関わる。
だが、誰もおかしいとは言わない。
昔からそうだからだ。
昔からそうであることに、人は理由を訊かない。
――俺のまじないと、同じだ。
マリが、俺の顔を見ていた。
俺が黙り込んだのに気づいたらしい。俺は首を振って、パンの最後を口に入れた。
◇
(――星と、魔法)
私は、二人の会話をずっと聞いていた。
もちろん意味は分からない。
でも、ドルスさんが空を指す仕草をして、それから手をひらひら動かした。
そのあと、ハルトさんが〈環〉と言った。この言葉は覚えた。昨日の夜、彼が空を指して言った言葉だ。
星座の名前だと思う。
この世界には魔法があるらしい、というのは、なんとなく分かってきた。
町で、洗濯物を干していたおばさんが、桶の水に手をかざしたら湯気が立った。
パン屋の窯に、火を入れる人がいた。薪も炭も使わずに。
最初は手品かと思った。
三日目に、それが普通のことなんだと諦めた。
諦めたけれど、飲み込めてはいない。
だって、法則がない。
誰にでもできるわけじゃない。得意な人がいて、苦手な人がいる。日によって効きが違う。
効きが違う理由は、星。
――星?
私はパンをかじりながら考える。
星って、何億キロも先にあるものだ。中学の理科で習った。光が届くのに何年もかかる。
それが、桶の水を温めるのと、どう関係するんだろう。
関係するわけがない。
でも、この人たちは三十年ぶんの統計を取ったと言っている。
(……統計があるなら、関係はしてるんだ)
関係している。理由が分からないだけで。
私は、その考えを追いかけようとして、やめた。
考えたら、たぶん、もっと怖くなる。
◇
午後、予定の経路が塞がっていた。
通路の中ほどで天井が下がり、崩れた石が斜面を作っている。去年はなかった。
俺は近寄って、石を照らした。
角が新しい。粉が乾いていない。
「先週の揺れですね」
ドルスが言った。
「そうだ。……ここが落ちたなら、下も動いてる」
俺は杆で天井を突いた。二度、三度。音を聞く。
乾いた音。まだ抜けない。
しかし、この先はもう通れない。
「回り道だ」
言って、俺は野帳を開いた。
この階層の経路は頭に入っている。塞がった通路を避けて、新規区画へ降りるには――
一つしかない。
「中層に降りる」
ドルスが、少しだけ表情を引き締めた。
「危なくなったら引き返す、という約束でしたね」
「そうだ」
「では、そろそろ私の出番も終わりが近いわけだ」
「まだ死んでない」
「頼もしい」
俺はマリを振り返った。
この先は、浅層とは違う。魔獣がいる。空気が重くなる。灯りが届く範囲が狭くなる。
――町に置いてくるべきだったか。
一瞬そう思って、すぐに打ち消した。
置いてきても、あの家に一人で座っているだけだ。言葉も分からず、行く当てもなく。
それに、この娘は縄を撓ませない。
俺は杆を持ち替えた。
「行くぞ」
マリは、意味は分からなかっただろう。
それでも、灯りを持ち直して、俺の斜め後ろについた。
位置は、正確だった。




