緑の人型
俺は、通路の入口で足を止めていた。
入るか、戻るか。
戻るという選択肢は、実際にはない。後ろは行き止まりだ。
それでも一度は考えた。考えてから、入った。
測量士は、そういう順番で動く。
◇
歩数を数える。
――床が硬い。
石を踏む音ではない。乾いた、詰まった音がする。杆の石突きで叩くと、指先に痺れが返ってきた。
俺は屈んで、床に灯りを当てた。
継ぎ目がない。
右の壁から左の壁まで、一枚だ。埃を払ってみたが、どこにも線がない。
この幅の一枚板を、どこから運ぶ。運んだとして、どうやってここへ入れる。入れたとして、なぜ継ぎ目がない。
答えは一つしかない。
――運んでいない。ここで作った。
流し込んだのだ。柔らかいうちに流して、固めた。
そういう工法は、ある。漆喰も、たたきも、そうだ。
だが、この硬さは違う。石より硬い。杆を強く突いても、傷がつかない。
俺は野帳に書いた。
〈床、継目無シ。材質不明。硬度、石ヲ上回ル〉
理由は書かなかった。
書けなかった。
◇
天井には、等間隔で四角い枠がはまっていた。
一定の間隔で、ずっと先まで。
その中身は、ほとんど落ちて割れていた。透き通った、薄い破片が床に散っている。硝子に似ているが、硝子より軽い。
俺は破片を一つ拾って、灯りにかざした。
濁っていない。
窓に使う硝子は、どんなに上等でも少し緑がかる。これは、透明だ。
――ここに、何かを嵌めていた。
何のために。
天井に嵌めるものといえば、明かり取りだ。だが、ここは地の底だ。上に空はない。
俺は少し歩いて、破片を三つ拾って、包んだ。
枠の一つが、ちょうど手の届く高さで割れていた。
中を覗く。
奥に、細い管のようなものが並んでいた。硝子に似た管が、数本。壁の中へ吸い込まれて消えている。
俺は指を伸ばして、触れた。
冷たい。
乾いている。
――配管だ。
水を通す管なら、こういう通し方をする。町の風呂屋の裏で見たことがある。
だが、水の管は天井には通さない。落ちてきたら困るからだ。
水でないなら、何を通す。
俺は野帳に書いた。
〈天井、等間隔ノ枠。内部ニ細管数条。用途不明〉
用途不明、と書くのは、俺は嫌いだ。
嫌いだが、書かないよりましだ。
用途不明と書いておけば、いつか誰かが読んだ時に、その誰かが答えを持っているかもしれない。
百年ぶんの図面は、そうやって積まれてきた。
◇
壁に、板が付いていた。
腰より少し高い位置。掌を広げたくらいの大きさで、半分が落ちて、床で割れている。
残った半分は、まだ壁にくっついていた。
俺は灯りを寄せた。
塗ってある。
彫ってあるのではなく、色を塗ってある。色は褪せて、緑がかった灰色になっていた。
形が、残っていた。
人だ。
人の形をしている。
だが――妙な人だった。
頭が大きい。胴が短い。腕が体から離れて、横へ張り出している。
そして、顔に当たる場所に、目が二つ。
その目が、異様に大きい。丸くて、真横に長い楕円で、顔の幅いっぱいに広がっている。
人の目ではない。
「人の形をしたもの」の目だ。
俺は少し体を引いた。
この国の神像は、こういう作りをしない。もっと細く、もっと人に似せる。
これは、人に似せる気がない。
「……何の像だ」
俺の声は、通路に吸い込まれて消えた。
◇
(――なんで)
私は、その板の前で動けなくなっていた。
見たことがある。
今度は、はっきりそう思った。
六話の壁の模様の時とは違う。あれは「似ているかもしれない」だった。
これは、違う。
この形を、私は知っている。
――土偶だ。
おばあちゃんの村に、小さい資料館がある。公民館の一階を半分だけ使った、いつも誰もいないところ。
小学校の時、社会科見学で行った。
ガラスケースの中に、それが立っていた。
頭が大きくて、胴が短くて、腕が横に張り出していて。
顔に、大きな目が二つ。真横に長い、楕円の目が。
先生が説明していた。目のところが、雪の眩しさを防ぐ道具に似ているから、そういう名前がついているのだと。
遮光器土偶。
名前まで思い出した。名前まで思い出してしまった。
私は、壁の板を見上げた。
目の形が同じ。頭の大きさの比率が同じ。腕の張り出し方が同じ。
(似てる。似てるけど)
似ているだけかもしれない。
人が人の形を単純に描いたら、だいたい似た形になる。頭と胴と手足だ。世界中どこでもそうだ。
そう思おうとした。
思おうとして、指先が冷たくなった。
だって、ここは。
ここは異世界のはずだ。
空が違う。星が違う。太陽の大きさが違う。文字が違う。言葉が違う。
全部違うって、この四日間で、いやというほど分かった。
なのに、どうして。
どうして、日本の土から出てくるものが、ここの壁に貼ってあるんだろう。
◇
マリの様子が、明らかにおかしかった。
板の前で固まったまま、動かない。
顔から血の気が引いている。ここへ来てから何度か見た顔だが、今度が一番ひどかった。
「どうした」
肩に触れると、跳ねた。
振り返った彼女は、俺の顔を見て、それから板を指した。
何か言った。
早口で、震えていて、区切りも聞き取れなかった。
「分からない」
俺は首を振った。
マリは口を閉じた。
それから、自分の胸を叩いて、板を指して、また自分を指した。
――知っている。
そう言っているのだと思った。
「知ってるのか。この像を」
俺は板を指し、彼女を指し、頷いてみせた。
マリは頷いた。
だが、すぐに首を振った。
頷いて、振って、また頷いて、最後にうつむいた。
――自分でも、分からないのだ。
知っている気がするが、確信が持てない。
俺には、その状態がよく分かった。
俺だって、この四日間ずっとそうだ。
◇
通路は、二百歩ほどで縦穴に出た。
壁に段が刻んである。上へ続いている。
俺は先に登った。
三十尺ほど登って、天井――ではなく、蓋に当たった。押すと、埃を落として持ち上がった。
顔を出す。
見覚えのある通路だった。
サルカドの中層。俺が去年も、一昨年も歩いた場所だ。
図面の上では、この位置は――行き止まりだ。
〈袋小路。奥行三歩。用無シ〉
誰かが百年前に、そう書いた。書いて、それ以上調べなかった。
その袋小路の床に、蓋があった。
俺は蓋を全部開けて、マリを引き上げた。
彼女は地面に座り込んで、しばらく息をしていた。
◇
俺は、その蓋の前でしゃがみ込んだ。
――ここから先へ、まだ行ける。
戻れば、あの通路がある。継ぎ目のない床と、天井の枠と、大きな目の像。
もっと奥がある。あの通路は、まだ先へ続いていた。
油はある。水は町へ戻れば汲める。
行こうと思えば、明日にでも行ける。
俺は蓋を閉めた。
閉めてから、しばらく手を離さなかった。
――怖い。
認めるのに、少し時間がかかった。
魔獣は怖くない。崩落も、そういうものだと思っている。
あの通路が怖い。
俺の唱えた言葉で開いた壁が、怖い。
石を積んでいない壁が、継ぎ目のない床が、意味の分からない大きな目が、全部怖い。
三十四年、俺は寸法を測って生きてきた。測れないものを見たことがなかった。
俺は立ち上がって、蓋の上に瓦礫を積み直した。
◇
地上に出たのは、五日目の昼だった。
ギルドで大騒ぎになっていた。ドルスが捜索を出そうとして、フェイラが押し留めていたらしい。
フェイラは俺の顔を見るなり、書付を投げつけてきた。それから、マリを見て、目を細めた。
「……この子、痩せたじゃない」
「四日食ってない」
「あんたもよ」
報告書を書いた。
新規区画。部屋十一、通路七本、行き止まり六つ。寸法一覧。方位。崩落による経路断絶と、その後の脱出経路。
脱出経路は、〈中層袋小路の床に旧来の点検口を発見。これを利用〉と書いた。
嘘は書いていない。
その手前にある通路のことは、書かなかった。
継ぎ目のない床も、天井の枠も、緑がかった人の像も、書かなかった。
――そして、壁が開いたことも。
書けば、ギルドは人を出す。学士院が来る。役所が来る。あの壁を開けた方法を訊かれる。
まじないを唱えたら開いた、と答える羽目になる。
そうなったら、俺はもう、静かに測量士をやっていられない。
筆を置いて、俺は報告書を提出した。
フェイラは中身を読んで、判を押した。
三万レン、支払われた。
◇
(――言えない)
私は、宿の窓辺に座っていた。
あの人は、書類に何かを書いて、出して、お金を受け取った。
私には内容は読めない。
でも、書いている時の彼の顔を見ていた。
途中で一度、長く手が止まった。
止まって、それから、書かずに次へ行った。
書かなかったんだ、と思った。
私も同じだ。
言えない。言葉がないから言えないんじゃなくて、言葉があっても言えない。
あの人形の板を見た時、私が思ったことを、どう説明すればいいんだろう。
空を見上げる。
星が出ている。知らない星が、知らない並びで。
この五日間で、私は自分にこう言い聞かせてきた。
ここは違う世界だ。だから何もかも違う。当たり前だ。仕方がない。諦めろ。
そう思うことで、なんとか立っていた。
でも。
あの壁の、あの目。
おばあちゃんの村の、ガラスケースの中の、あれ。
私はそっと、自分の膝を抱えた。
(――ここは、本当に「異世界」なの?)




