表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
測量士と転移者  作者: ごま


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
11/42

珍しい流儀

 三万レンというのは、置き場に困る額だ。


 俺は寝台の下の箱に入れて、そのまま忘れることにした。


 使い道は、特にない。


 家は借りている。食う物は変わらない。酒はたまに飲むが、いい酒を飲みたいと思ったことがない。


 結局、翌日に買ったのは、革の手袋と、細い縄と、小さめの野帳が一冊だった。


 全部、マリのものだ。


 手袋は、縄を張る手のためだ。あの日、彼女の掌は擦り切れていた。四日ぶん擦り切れていて、それを一度も言わなかった。


 縄は、彼女の背丈に合わせた短いやつ。俺の二十尋は、彼女には長すぎる。


 野帳は、小さめの型。上着の内側に入る大きさだ。


 店を出てから、俺は自分の分を何も買っていないことに気づいた。


 三万レンだ。


 新しい外套でも、上等な油でも、なんでも買える。


 買いたいものが、一つも浮かばなかった。


 ――そういう男に育ったのだ、俺は。


 欲しいものを言うと、目立つ。目立つな、と師匠は言った。


 二十四年守っている。守りすぎて、欲しいものの見つけ方を忘れた。


 野帳を渡すと、彼女はそれを開いて、白紙の頁をじっと見た。


 それから、俺の顔を見た。


「使え」


 俺は自分の野帳を見せて、書く仕草をした。


 マリは頷いて、頁の一番上に、何か書いた。


 俺の知らない文字だった。


    ◇


 言葉を教えるのは、思ったより難しかった。


 物の名前は簡単だ。指せば済む。


 難しいのは、その先だ。


 「行く」と「来る」の違い。「もらう」と「くれる」の違い。「もう」と「まだ」。


 指では差せない。


 俺は結局、絵で描くことにした。


 家を描いて、人を描いて、矢印を引く。家から出ていく矢印が「行く」。家へ向かう矢印が「来る」。


 マリは、それを野帳に写した。


 写して、その横に自分の文字を書いた。


 ――対応表を作っている。


 俺は覗き込んで、少し驚いた。


 左の列に俺の言葉、右の列に彼女の文字。増えるたびに行が足されていく。


 こういうやり方を、俺は思いつかなかった。


 思いつかなかったが、これは測量の帳面と同じ作りだ。


 左に測った値、右に前回の値。並べて、違いを見る。


 ――やはり、どこかで習っている。


    ◇


 三日目の夜、俺は狐を出した。


 卓の上に布を敷いて、その上に置く。


 埃を落として、灯りを近づけると、思ったより造りが細かい。


 腹の下に、爪の先ほどの窪みが四つ並んでいた。


 俺は測量具の細い錐を持ってきて、そこに当てた。


 軽く押す。


 ――かちり、と鳴った。


 腹の板が外れた。


 俺は息を止めた。


 中に、物が詰まっていた。


 金属の小さな輪。針金のように細い管。透き通った小さな粒。それらが、隙間なく、順番に並んでいる。


 時計だ、と最初に思った。


 王都で一度だけ見たことがある。歯車の連なった、金持ちの玩具みたいなやつ。


 だが、これは歯車ではない。


 歯車は、噛み合うから動く。


 この中には、噛み合っているものが一つもない。


 全部が、離れて置かれている。


 ――離れているのに、繋がっている。


 細い管が、部品と部品の間を渡っている。管の中に、髪より細い線が通っていた。


 俺は、しばらくそれを見ていた。


 見ていて、手を出せなかった。


 直せるかもしれない、と思って拾った。


 直すには、どこが壊れているか分からなければならない。


 どこが壊れているかを知るには、正しい状態を知らなければならない。


 俺は、この物の正しい状態を、まったく知らない。


    ◇


 結局、俺がやったのは、掃除だった。


 埃を払い、湿気で浮いた白い粉を落とし、外れかけていた線を差し直した。


 一本だけ、明らかに抜けているものがあった。


 細い管の先端が、受け口から外れて宙に浮いている。


 差せば、入りそうだった。


 俺は錐の先で、それを押し込んだ。


 ――かち。


 小さく鳴った。


 それから、狐の背中の模様が、ひとつだけ光った。


 同心円の一番内側。青みがかった光が、ゆっくり明るくなって、ゆっくり消えた。


 一秒か、二秒。


 俺は椅子から立ち上がっていた。


 立ち上がったまま、動けなかった。


 あの壁と、同じ光り方だった。


    ◇


(――あ)


 私は、卓の向こうから見ていた。


 光った。


 ハルトさんが何かを差し込んだ瞬間、狐の背中が青く光った。


 あの日、壁が光ったのと同じ色。


 同じ、ゆっくりした光り方。


 私は思わず立ち上がって、指さした。


「――ひかった!」


 声が出た。


 覚えた言葉が、初めて自分から出た。


 ハルトさんが、こっちを見た。


 それから、狐を見て、私を見た。


 彼の顔が、少しだけ変わった。


 この人がこういう顔をするのを、私は一度だけ見たことがある。


 あの壁の前だ。


 私が「光った」と伝えようとして、伝わらなかった時。


 あの時、彼は「疲れてるんだ」と言った。何を言ったかは分からなかったけど、そういう声だった。


 今は、違う。


 彼は自分で見た。


 彼は椅子に座り直して、狐の背中に手を置いた。


 そして、長いこと黙っていた。


 私も黙っていた。


 やがて彼は、狐を布で包み直して、棚に置いた。


 そのまま、何も言わなかった。


(言わないんだ)


 私は少しだけ、不満だった。


 でも、たぶん、私も同じことをしている。


 あの土偶みたいな板のことを、私はまだ、誰にも言えていない。


    ◇


 翌朝、ギルドで老人に捕まった。


 トバスという。八十を超えている、この町のもう一人の特級だ。五年前から潜っていない。


 潜っていないのに、毎朝ギルドに来る。


「サルカドの一次、見たぞ」


 彼は俺の報告書を持っていた。書庫から勝手に出してきたらしい。


「相変わらず、細けえ字だ」


「読めるでしょう」


「読める。読めるが、多すぎる」


 トバスは頁をめくった。


「壁の材質。天井の枠。目地の幅。……お前、寸法以外を書きすぎだ」


「書いておけば、いつか誰かが読む」


「その考え方だよ」


 老人は、そこで俺を見た。


「珍しい流儀だな、お前んとこは」


 俺は手を止めた。


「珍しい、というのは」


「わしらは、要るものだけ測る。依頼にあるとこだけ測って、金をもらって帰る。それが商売だ」


「うちも商売です」


「なら、なんで毎年サルカドの全部を測る」


 答えられなかった。


「依頼は一区画だろう。なのにお前んとこは、頼まれてないところまで全部測る。百年、ずっとだ」


 トバスは報告書を閉じた。


「それに、星だ」


「星」


「お前、測る前に空を見るだろう。曇りの日でも見る。方位なら磁石で足りるのに、必ず見上げる」


 ――見上げている。


 言われて、初めて気づいた。


 癖だ。師匠がそうしていた。師匠は親父から教わったと言っていた。


「あれは、うちの流儀では『下から見る』と言う」


 トバスは、皺だらけの指で天井を指した。


「地面に立って、空を見上げる。当たり前だな。だがお前んとこの構えは逆だ。空の側から、地面を見下ろす形で測っとる」


「同じことでは」


「同じじゃあない」


 老人は、少し笑った。


「わしは六十年これをやっとる。真似できんかったのは、お前んとこの家だけだ」


 俺は何も言えなかった。


「もう一つ、いいか」


 トバスは杖の先で床を突いた。


「お前んとこの図面には、必ず一本、余計な線が入っとる」


「余計な線」


「壁の腰の高さだ。真横に一直線。刻みが等間隔で入っとる」


 ――基準線だ。


「あれは、うちの流儀の基準線です」


「そうだろうな。だが、わしらは引かん」


「引かない?」


「引く必要がない」


 老人は、俺を見た。


「基準線ってのは、後から測る者のために引くもんだ。次に来る奴が、同じ高さから測れるように」


「そうです」


「なら訊くが。誰が次に来ると思って引いとる」


 俺は口を開いた。


 開いて、閉じた。


「……次の代です」


「お前んとこの、か」


「はい」


「百年、同じ家の人間だけが読む線を、遺跡の全部の通路に引いとるのか」


 トバスは、少し笑った。


「わしなら引かんね。手間だ。金にもならん」


 それから、彼は真顔になった。


「あの線はな。読む相手が、もっと大勢いる前提で引かれとる。少なくとも、引き始めた奴はそう思っとった」


 俺は、何も返せなかった。


 トバスは報告書を返して、杖をついて歩き出した。


 去り際に、こう言った。


「どこで習った、それ」


「――親父から」


「その親父は」


「知りません」


 老人は、それきり何も訊かなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ