珍しい流儀
三万レンというのは、置き場に困る額だ。
俺は寝台の下の箱に入れて、そのまま忘れることにした。
使い道は、特にない。
家は借りている。食う物は変わらない。酒はたまに飲むが、いい酒を飲みたいと思ったことがない。
結局、翌日に買ったのは、革の手袋と、細い縄と、小さめの野帳が一冊だった。
全部、マリのものだ。
手袋は、縄を張る手のためだ。あの日、彼女の掌は擦り切れていた。四日ぶん擦り切れていて、それを一度も言わなかった。
縄は、彼女の背丈に合わせた短いやつ。俺の二十尋は、彼女には長すぎる。
野帳は、小さめの型。上着の内側に入る大きさだ。
店を出てから、俺は自分の分を何も買っていないことに気づいた。
三万レンだ。
新しい外套でも、上等な油でも、なんでも買える。
買いたいものが、一つも浮かばなかった。
――そういう男に育ったのだ、俺は。
欲しいものを言うと、目立つ。目立つな、と師匠は言った。
二十四年守っている。守りすぎて、欲しいものの見つけ方を忘れた。
野帳を渡すと、彼女はそれを開いて、白紙の頁をじっと見た。
それから、俺の顔を見た。
「使え」
俺は自分の野帳を見せて、書く仕草をした。
マリは頷いて、頁の一番上に、何か書いた。
俺の知らない文字だった。
◇
言葉を教えるのは、思ったより難しかった。
物の名前は簡単だ。指せば済む。
難しいのは、その先だ。
「行く」と「来る」の違い。「もらう」と「くれる」の違い。「もう」と「まだ」。
指では差せない。
俺は結局、絵で描くことにした。
家を描いて、人を描いて、矢印を引く。家から出ていく矢印が「行く」。家へ向かう矢印が「来る」。
マリは、それを野帳に写した。
写して、その横に自分の文字を書いた。
――対応表を作っている。
俺は覗き込んで、少し驚いた。
左の列に俺の言葉、右の列に彼女の文字。増えるたびに行が足されていく。
こういうやり方を、俺は思いつかなかった。
思いつかなかったが、これは測量の帳面と同じ作りだ。
左に測った値、右に前回の値。並べて、違いを見る。
――やはり、どこかで習っている。
◇
三日目の夜、俺は狐を出した。
卓の上に布を敷いて、その上に置く。
埃を落として、灯りを近づけると、思ったより造りが細かい。
腹の下に、爪の先ほどの窪みが四つ並んでいた。
俺は測量具の細い錐を持ってきて、そこに当てた。
軽く押す。
――かちり、と鳴った。
腹の板が外れた。
俺は息を止めた。
中に、物が詰まっていた。
金属の小さな輪。針金のように細い管。透き通った小さな粒。それらが、隙間なく、順番に並んでいる。
時計だ、と最初に思った。
王都で一度だけ見たことがある。歯車の連なった、金持ちの玩具みたいなやつ。
だが、これは歯車ではない。
歯車は、噛み合うから動く。
この中には、噛み合っているものが一つもない。
全部が、離れて置かれている。
――離れているのに、繋がっている。
細い管が、部品と部品の間を渡っている。管の中に、髪より細い線が通っていた。
俺は、しばらくそれを見ていた。
見ていて、手を出せなかった。
直せるかもしれない、と思って拾った。
直すには、どこが壊れているか分からなければならない。
どこが壊れているかを知るには、正しい状態を知らなければならない。
俺は、この物の正しい状態を、まったく知らない。
◇
結局、俺がやったのは、掃除だった。
埃を払い、湿気で浮いた白い粉を落とし、外れかけていた線を差し直した。
一本だけ、明らかに抜けているものがあった。
細い管の先端が、受け口から外れて宙に浮いている。
差せば、入りそうだった。
俺は錐の先で、それを押し込んだ。
――かち。
小さく鳴った。
それから、狐の背中の模様が、ひとつだけ光った。
同心円の一番内側。青みがかった光が、ゆっくり明るくなって、ゆっくり消えた。
一秒か、二秒。
俺は椅子から立ち上がっていた。
立ち上がったまま、動けなかった。
あの壁と、同じ光り方だった。
◇
(――あ)
私は、卓の向こうから見ていた。
光った。
ハルトさんが何かを差し込んだ瞬間、狐の背中が青く光った。
あの日、壁が光ったのと同じ色。
同じ、ゆっくりした光り方。
私は思わず立ち上がって、指さした。
「――ひかった!」
声が出た。
覚えた言葉が、初めて自分から出た。
ハルトさんが、こっちを見た。
それから、狐を見て、私を見た。
彼の顔が、少しだけ変わった。
この人がこういう顔をするのを、私は一度だけ見たことがある。
あの壁の前だ。
私が「光った」と伝えようとして、伝わらなかった時。
あの時、彼は「疲れてるんだ」と言った。何を言ったかは分からなかったけど、そういう声だった。
今は、違う。
彼は自分で見た。
彼は椅子に座り直して、狐の背中に手を置いた。
そして、長いこと黙っていた。
私も黙っていた。
やがて彼は、狐を布で包み直して、棚に置いた。
そのまま、何も言わなかった。
(言わないんだ)
私は少しだけ、不満だった。
でも、たぶん、私も同じことをしている。
あの土偶みたいな板のことを、私はまだ、誰にも言えていない。
◇
翌朝、ギルドで老人に捕まった。
トバスという。八十を超えている、この町のもう一人の特級だ。五年前から潜っていない。
潜っていないのに、毎朝ギルドに来る。
「サルカドの一次、見たぞ」
彼は俺の報告書を持っていた。書庫から勝手に出してきたらしい。
「相変わらず、細けえ字だ」
「読めるでしょう」
「読める。読めるが、多すぎる」
トバスは頁をめくった。
「壁の材質。天井の枠。目地の幅。……お前、寸法以外を書きすぎだ」
「書いておけば、いつか誰かが読む」
「その考え方だよ」
老人は、そこで俺を見た。
「珍しい流儀だな、お前んとこは」
俺は手を止めた。
「珍しい、というのは」
「わしらは、要るものだけ測る。依頼にあるとこだけ測って、金をもらって帰る。それが商売だ」
「うちも商売です」
「なら、なんで毎年サルカドの全部を測る」
答えられなかった。
「依頼は一区画だろう。なのにお前んとこは、頼まれてないところまで全部測る。百年、ずっとだ」
トバスは報告書を閉じた。
「それに、星だ」
「星」
「お前、測る前に空を見るだろう。曇りの日でも見る。方位なら磁石で足りるのに、必ず見上げる」
――見上げている。
言われて、初めて気づいた。
癖だ。師匠がそうしていた。師匠は親父から教わったと言っていた。
「あれは、うちの流儀では『下から見る』と言う」
トバスは、皺だらけの指で天井を指した。
「地面に立って、空を見上げる。当たり前だな。だがお前んとこの構えは逆だ。空の側から、地面を見下ろす形で測っとる」
「同じことでは」
「同じじゃあない」
老人は、少し笑った。
「わしは六十年これをやっとる。真似できんかったのは、お前んとこの家だけだ」
俺は何も言えなかった。
「もう一つ、いいか」
トバスは杖の先で床を突いた。
「お前んとこの図面には、必ず一本、余計な線が入っとる」
「余計な線」
「壁の腰の高さだ。真横に一直線。刻みが等間隔で入っとる」
――基準線だ。
「あれは、うちの流儀の基準線です」
「そうだろうな。だが、わしらは引かん」
「引かない?」
「引く必要がない」
老人は、俺を見た。
「基準線ってのは、後から測る者のために引くもんだ。次に来る奴が、同じ高さから測れるように」
「そうです」
「なら訊くが。誰が次に来ると思って引いとる」
俺は口を開いた。
開いて、閉じた。
「……次の代です」
「お前んとこの、か」
「はい」
「百年、同じ家の人間だけが読む線を、遺跡の全部の通路に引いとるのか」
トバスは、少し笑った。
「わしなら引かんね。手間だ。金にもならん」
それから、彼は真顔になった。
「あの線はな。読む相手が、もっと大勢いる前提で引かれとる。少なくとも、引き始めた奴はそう思っとった」
俺は、何も返せなかった。
トバスは報告書を返して、杖をついて歩き出した。
去り際に、こう言った。
「どこで習った、それ」
「――親父から」
「その親父は」
「知りません」
老人は、それきり何も訊かなかった。




