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測量士と転移者  作者: ごま


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12/41

腐らない蜜

 ひと月が過ぎた。


 大きな仕事はしていない。旧市街の浅い家を、日に一軒か二軒。日当は三百レン程度。特級がやる仕事ではないが、断る理由もなかった。


 マリの言葉は、少しずつ増えていた。


 名詞は早い。動詞は遅い。てにをはは、まだ落ちる。


「みず、ある」


「ある」


「ぱん、ない」


「ない。買ってくる」


「かって、くる」


 彼女は繰り返す。繰り返して、野帳に書く。


 夜、俺が図面を清書している横で、彼女は自分の帳面に何か書き足している。


 覗いたことがある。


 左に俺の言葉、右に彼女の文字。それに加えて、いつからか三つ目の列が増えていた。


 その列には、絵が描いてあった。


 言葉の意味を、絵で残している。


 「行く」の横に、家から出ていく人。


 「まだ」の横に、道の途中で立っている人。


 ――よく考えたものだ。


 俺は何も言わずに、図面に戻った。


    ◇


 その日の仕事は、旧市街の東の端だった。


 階段が四段。部屋が三つ。それだけの、小さい家だ。


「ちいさい」


「小さい。……こういうのは、身分の低い者の家だ」


「みぶん」


「立場、身の上のことだ」


 俺は地面に線を引いた。


 浅い階段の家。少し深い家。もっと深い家。


 三つ並べて、下に行くほど「上」と書き、指で示した。


「深いほど、偉い」


 マリは、その絵をしばらく見ていた。


 それから、顔を上げた。


「サルカド、いちばん、ふかい」


「そうだ」


「じゃあ、サルカド、いちばん、えらい」


 俺は口を開いて、閉じた。


 ――そうなる。


 なるのだが、そこには一つ、抜けている話がある。


「マリ」


「なに」


「サルカドは、旧市街で一番深い。それは間違いない」


「うん」


「だが、旧市街は王都じゃない」


 俺は地面の絵に、もう一つ丸を描き足した。ずっと離れたところに。


「王がいたのは、別の場所だ。馬車で五日、東へ行ったところに、宮廷の跡がある」


「みやこ」


「そうだ。……サルカドは、その郊外だ」


 言ってから、自分で妙な気分になった。


 郊外で一番深い家。


 都から離れた住宅地の、一番大きい屋敷。


 それは、王ではない。


 王ではないが――王に近い誰かではある。


 俺はその考えを、そこで切った。


「行くぞ」


 考えたことがなかったわけではない。


 旧市街で一番深い家。一番広い家。百年、俺の家が測ってきた家。


 誰の家だったのか。


 考えたことはある。考えて、そこで止めていた。


 止めていた理由も、今なら分かる。


 旧市街の家は、全部空っぽだった。誰の家だったかなんて、分かるはずがなかったからだ。


 ――あの日までは。


 俺は、家具の残っていた部屋を思い出した。


 櫛のことも。


「行くぞ」


 俺は立ち上がった。


    ◇


 三つ目の部屋の、壁際。


 崩れた棚の下に、埋まっているものがあった。


 俺は杆の先で慎重に瓦礫をどけた。


 壺だ。


 高さは膝くらい。口が細く、蓋がしてある。


 蓋は、蝋のようなもので封じられていた。


 俺は指で触れた。硬い。ひび割れているが、剥がれてはいない。


 ――封がされたまま、千年か。


「マリ。灯りを」


 彼女は近づいて、正しい位置に灯りを構えた。


 俺は錐の先で封を割った。


 蓋を持ち上げる。


 中身は、詰まっていた。


 琥珀色の、粘い塊。表面が白く結晶している。


 匂いを嗅いだ。


 ――甘い。


 俺は指先で少し掬って、灯りにかざした。糸を引く。


「……蜜だ」


 言った瞬間、後ろでマリが息を呑んだのが分かった。


    ◇


(――蜂蜜だ)


 私は、壺を覗き込んだ。


 白く結晶して、下のほうはまだ琥珀色で、とろりとしている。


 うちの実家の、ずっと戸棚の奥にあったやつと同じ。


 私は反射的に言っていた。


「……それ、くさらない」


 ハルトさんが顔を上げた。


「腐らない?」


「はちみつ、くさらない。ずっと。だいじょうぶ」


 言葉が足りない。


 言いたいのはそうじゃない。


 蜂蜜は水分が少なくて、糖度が高くて、だから細菌が繁殖できなくて、だからピラミッドから出てきたやつも食べられたって、テレビでやってた。


 そういうことを言いたいのに、全部が「くさらない」の五文字に潰れてしまう。


 もどかしくて、私は壺を指して、それから自分の口を指した。


「たべる。できる」


「――食えるのか、これが」


「たべる、できる。……たぶん」


 最後だけ、正直に付け足した。


 ハルトさんは、しばらく壺を見ていた。


 それから、指先の蜜を舐めた。


 私は「あ」と声を出した。


 自分で言っておいてなんだけど、いきなり食べる人がいると思わなかった。


    ◇


 甘かった。


 舌に乗せた瞬間に、はっきり甘かった。


 喉の奥が、少し痛いくらいに甘い。


 俺は口を押さえて、しばらく動けなかった。


 ――千年だ。


 たぶん、それくらいだ。


 この家に住んでいた誰かが、この壺に蜜を詰めて、蓋をして、蝋で封をした。


 その人は、いつか開けるつもりだったはずだ。


 開けなかった。


 開けないまま、この街は沈んだ。


 俺は壺の縁を見た。


 内側に、指で拭った跡がある。詰めた時に垂れたのを、誰かが指で拭ったのだ。


 その指の跡が、そのまま残っている。


 俺は蓋を戻した。


 なぜか、乱暴に扱えなかった。


 ――旧市街で、俺は何百軒測っただろう。


 三百は超えている。二十年やっている。


 その全部が、空っぽだった。


 空っぽだから、俺は平気で測れた。床の寸法を取り、壁の厚みを測り、〈用無シ〉と書いて帰る。


 あれは家だった、と頭では知っていた。


 知っていることと、蜜の壺が出てくることは、まるで違った。


 この家に住んでいた人間は、蜜を舐める人間だった。


 甘いものが好きだった。壺に詰めて、蓋をして、蝋で封をするほどには。


 そういう人間が、この床の上を歩いていた。


 俺が毎日、平気で歩いている床の上を。


「持って帰る」


 言うと、マリが小さく頷いた。


    ◇


 その夜、俺たちはパンに蜜を垂らして食った。


 少しだけだ。壺は棚に上げて、残りは触らないことにした。


「あまい」


「甘い」


「あまい、です」


「……そうだな」


 マリはパンを両手で持って、少しずつ齧っていた。


 俺は蜜の壺を見上げた。


 棚の上に、包んだ狐が置いてある。その隣に、壺。


 どちらも、俺の家の物ではない。


 どちらも、持ち主がもういない。


「ハルト」


 マリが言った。


 名前を呼ばれたのは、初めてだった。


「なんだ」


「これ、つくった、ひと」


 彼女は壺を指した。


「いる、いた?」


 文法は滅茶苦茶だ。


 だが、意味は分かった。


 これを作った人は、いたのか。


「いた」


 俺は答えた。


「千年前に、いた」


「せんねん」


「たぶんな。誰も数えてない」


 マリは、しばらく黙っていた。


 それから、パンの最後を口に入れて、こう言った。


「わたし、たべた。……その、ひとの」


 俺は手を止めた。


 その言い方に、なぜか胸を突かれた。


 この娘は、蜜を「発見した物」として食っていない。


 誰かが作って、しまって、開けられなかった物として食っている。


 ――こういう見方をする人間は、少ない。


 俺は椀の湯を飲み干して、立ち上がった。


「明日は東の三軒目だ。早いぞ」


「はやい。……いつ」


「夜が明けたら」


「よが、あけたら」


 彼女は野帳を開いて、それを書き足した。


    ◇


 寝る前に、俺は棚の壺をもう一度見た。


 ――なぜ持ち帰った。


 仕事の物ではない。金にもならない。学士院に出せば値はつくが、出す気はない。


 櫛は、置いてきた。


 壺は、持ってきた。


 その違いが、自分でも説明できなかった。


 しばらく考えて、たぶんこうだ、と思った。


 櫛は、使われていた物だ。


 壺は、使われなかった物だ。


 封をして、しまって、開けられずに終わった。


 ――俺は、そういう物を捨てられない。


 棚には、直した測量具が並んでいる。使っていない。使う予定もない。


 直せば使えるのに、使わないまま並べてある。


 お前は物を拾いすぎる、と師匠は言った。


 拾いすぎるのではない。


 途中で終わった物が、置いていけないだけだ。


 俺は灯りを消した。

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