腐らない蜜
ひと月が過ぎた。
大きな仕事はしていない。旧市街の浅い家を、日に一軒か二軒。日当は三百レン程度。特級がやる仕事ではないが、断る理由もなかった。
マリの言葉は、少しずつ増えていた。
名詞は早い。動詞は遅い。てにをはは、まだ落ちる。
「みず、ある」
「ある」
「ぱん、ない」
「ない。買ってくる」
「かって、くる」
彼女は繰り返す。繰り返して、野帳に書く。
夜、俺が図面を清書している横で、彼女は自分の帳面に何か書き足している。
覗いたことがある。
左に俺の言葉、右に彼女の文字。それに加えて、いつからか三つ目の列が増えていた。
その列には、絵が描いてあった。
言葉の意味を、絵で残している。
「行く」の横に、家から出ていく人。
「まだ」の横に、道の途中で立っている人。
――よく考えたものだ。
俺は何も言わずに、図面に戻った。
◇
その日の仕事は、旧市街の東の端だった。
階段が四段。部屋が三つ。それだけの、小さい家だ。
「ちいさい」
「小さい。……こういうのは、身分の低い者の家だ」
「みぶん」
「立場、身の上のことだ」
俺は地面に線を引いた。
浅い階段の家。少し深い家。もっと深い家。
三つ並べて、下に行くほど「上」と書き、指で示した。
「深いほど、偉い」
マリは、その絵をしばらく見ていた。
それから、顔を上げた。
「サルカド、いちばん、ふかい」
「そうだ」
「じゃあ、サルカド、いちばん、えらい」
俺は口を開いて、閉じた。
――そうなる。
なるのだが、そこには一つ、抜けている話がある。
「マリ」
「なに」
「サルカドは、旧市街で一番深い。それは間違いない」
「うん」
「だが、旧市街は王都じゃない」
俺は地面の絵に、もう一つ丸を描き足した。ずっと離れたところに。
「王がいたのは、別の場所だ。馬車で五日、東へ行ったところに、宮廷の跡がある」
「みやこ」
「そうだ。……サルカドは、その郊外だ」
言ってから、自分で妙な気分になった。
郊外で一番深い家。
都から離れた住宅地の、一番大きい屋敷。
それは、王ではない。
王ではないが――王に近い誰かではある。
俺はその考えを、そこで切った。
「行くぞ」
考えたことがなかったわけではない。
旧市街で一番深い家。一番広い家。百年、俺の家が測ってきた家。
誰の家だったのか。
考えたことはある。考えて、そこで止めていた。
止めていた理由も、今なら分かる。
旧市街の家は、全部空っぽだった。誰の家だったかなんて、分かるはずがなかったからだ。
――あの日までは。
俺は、家具の残っていた部屋を思い出した。
櫛のことも。
「行くぞ」
俺は立ち上がった。
◇
三つ目の部屋の、壁際。
崩れた棚の下に、埋まっているものがあった。
俺は杆の先で慎重に瓦礫をどけた。
壺だ。
高さは膝くらい。口が細く、蓋がしてある。
蓋は、蝋のようなもので封じられていた。
俺は指で触れた。硬い。ひび割れているが、剥がれてはいない。
――封がされたまま、千年か。
「マリ。灯りを」
彼女は近づいて、正しい位置に灯りを構えた。
俺は錐の先で封を割った。
蓋を持ち上げる。
中身は、詰まっていた。
琥珀色の、粘い塊。表面が白く結晶している。
匂いを嗅いだ。
――甘い。
俺は指先で少し掬って、灯りにかざした。糸を引く。
「……蜜だ」
言った瞬間、後ろでマリが息を呑んだのが分かった。
◇
(――蜂蜜だ)
私は、壺を覗き込んだ。
白く結晶して、下のほうはまだ琥珀色で、とろりとしている。
うちの実家の、ずっと戸棚の奥にあったやつと同じ。
私は反射的に言っていた。
「……それ、くさらない」
ハルトさんが顔を上げた。
「腐らない?」
「はちみつ、くさらない。ずっと。だいじょうぶ」
言葉が足りない。
言いたいのはそうじゃない。
蜂蜜は水分が少なくて、糖度が高くて、だから細菌が繁殖できなくて、だからピラミッドから出てきたやつも食べられたって、テレビでやってた。
そういうことを言いたいのに、全部が「くさらない」の五文字に潰れてしまう。
もどかしくて、私は壺を指して、それから自分の口を指した。
「たべる。できる」
「――食えるのか、これが」
「たべる、できる。……たぶん」
最後だけ、正直に付け足した。
ハルトさんは、しばらく壺を見ていた。
それから、指先の蜜を舐めた。
私は「あ」と声を出した。
自分で言っておいてなんだけど、いきなり食べる人がいると思わなかった。
◇
甘かった。
舌に乗せた瞬間に、はっきり甘かった。
喉の奥が、少し痛いくらいに甘い。
俺は口を押さえて、しばらく動けなかった。
――千年だ。
たぶん、それくらいだ。
この家に住んでいた誰かが、この壺に蜜を詰めて、蓋をして、蝋で封をした。
その人は、いつか開けるつもりだったはずだ。
開けなかった。
開けないまま、この街は沈んだ。
俺は壺の縁を見た。
内側に、指で拭った跡がある。詰めた時に垂れたのを、誰かが指で拭ったのだ。
その指の跡が、そのまま残っている。
俺は蓋を戻した。
なぜか、乱暴に扱えなかった。
――旧市街で、俺は何百軒測っただろう。
三百は超えている。二十年やっている。
その全部が、空っぽだった。
空っぽだから、俺は平気で測れた。床の寸法を取り、壁の厚みを測り、〈用無シ〉と書いて帰る。
あれは家だった、と頭では知っていた。
知っていることと、蜜の壺が出てくることは、まるで違った。
この家に住んでいた人間は、蜜を舐める人間だった。
甘いものが好きだった。壺に詰めて、蓋をして、蝋で封をするほどには。
そういう人間が、この床の上を歩いていた。
俺が毎日、平気で歩いている床の上を。
「持って帰る」
言うと、マリが小さく頷いた。
◇
その夜、俺たちはパンに蜜を垂らして食った。
少しだけだ。壺は棚に上げて、残りは触らないことにした。
「あまい」
「甘い」
「あまい、です」
「……そうだな」
マリはパンを両手で持って、少しずつ齧っていた。
俺は蜜の壺を見上げた。
棚の上に、包んだ狐が置いてある。その隣に、壺。
どちらも、俺の家の物ではない。
どちらも、持ち主がもういない。
「ハルト」
マリが言った。
名前を呼ばれたのは、初めてだった。
「なんだ」
「これ、つくった、ひと」
彼女は壺を指した。
「いる、いた?」
文法は滅茶苦茶だ。
だが、意味は分かった。
これを作った人は、いたのか。
「いた」
俺は答えた。
「千年前に、いた」
「せんねん」
「たぶんな。誰も数えてない」
マリは、しばらく黙っていた。
それから、パンの最後を口に入れて、こう言った。
「わたし、たべた。……その、ひとの」
俺は手を止めた。
その言い方に、なぜか胸を突かれた。
この娘は、蜜を「発見した物」として食っていない。
誰かが作って、しまって、開けられなかった物として食っている。
――こういう見方をする人間は、少ない。
俺は椀の湯を飲み干して、立ち上がった。
「明日は東の三軒目だ。早いぞ」
「はやい。……いつ」
「夜が明けたら」
「よが、あけたら」
彼女は野帳を開いて、それを書き足した。
◇
寝る前に、俺は棚の壺をもう一度見た。
――なぜ持ち帰った。
仕事の物ではない。金にもならない。学士院に出せば値はつくが、出す気はない。
櫛は、置いてきた。
壺は、持ってきた。
その違いが、自分でも説明できなかった。
しばらく考えて、たぶんこうだ、と思った。
櫛は、使われていた物だ。
壺は、使われなかった物だ。
封をして、しまって、開けられずに終わった。
――俺は、そういう物を捨てられない。
棚には、直した測量具が並んでいる。使っていない。使う予定もない。
直せば使えるのに、使わないまま並べてある。
お前は物を拾いすぎる、と師匠は言った。
拾いすぎるのではない。
途中で終わった物が、置いていけないだけだ。
俺は灯りを消した。




