神隠しの記録
ふた月が過ぎた。
マリは、一人で買い物に行けるようになった。
最初はパンだけだった。次に、卵と油。今は、値切りの真似事までする。
「たかい」と言って首を振り、指を折って値を示す。それだけで、市場の連中は面白がって少し引いてくれる。
言葉というのは、正しく喋れなくても回る。
俺が二十年かけて知らなかったことを、この娘は二月で証明した。
◇
「ハルト。きょう、しごと、ない」
「ない」
「じゃあ、わたし、いく」
「どこへ」
マリは、少し言葉を探した。
「ほん、ある、ところ」
「――記録保管所か」
「そう。それ」
俺は野帳から顔を上げた。
「読めないだろう」
「よめない」
彼女はあっさり頷いた。
「でも、かず、よめる」
そう言って、彼女は自分の帳面を開いて見せた。
数字が並んでいた。この国の数字だ。俺が教えたやつだ。
一の位から千の位まで、彼女はもう完全に読める。
最初に覚えたのが数字で、今も一番正確なのが数字だった。
「何を数えるつもりだ」
「わたしと、おなじ、ひと」
俺は手を止めた。
「同じ、というのは」
「きゅうに、いなくなる。ひと」
マリは、自分を指した。
「わたし、きゅうに、ここ、きた。だれか、おなじ、あるかもしれない」
――ああ。
俺は、そのことを考えていなかった。
いや、考えなかったわけではない。この娘がどこから来たのか、何度も考えた。考えて、答えが出ないので、置いていた。
だが、この娘は置いていない。
二月かけて言葉を覚えて、最初にやろうとしたのが、これだ。
「一人で行くのか」
「ひとりで、いく」
「道は」
「しってる。ちず、かいた」
彼女は帳面のもう一頁を開いた。
メルシアの町の図が描いてあった。
主要な通り、市場、井戸、ギルド、家。それに、記録保管所の位置。
――歩幅で測ったな。
通りの長さの脇に、数字が書いてある。
「……よくできてる」
「ハルト、おしえた」
「教えてない」
「みてた」
俺は口を閉じた。
◇
(――やっと来られた)
記録保管所は、思っていたより小さい建物だった。
役所の裏の、二階建て。中に入ると、紙とカビの匂いがした。
受付の人に、私は紙を見せた。
昨日の夜、ハルトさんに書いてもらった紙だ。
――「昔の、人がいなくなった記録を見たい」。
最初は自分で書こうとしたけど、文字がまだ書けない。読むのも、数字と、あといくつかの単語だけだ。
受付の人は紙を読んで、私を上から下まで見て、それから面倒くさそうに立ち上がった。
でも、案内はしてくれた。
二階の、奥の棚。
「行方不明、って括りはないよ」
そう言われた(たぶん)。私が首を傾げていると、その人は言い直してくれた。
「……いなくなった人。届け。ここ」
ゆっくり、短く。
この二月で、私はこういう人に何度も助けられている。
この国の人は、外から来た人間に慣れている。行商人がいて、季節労働者がいて、言葉の訛りが強い地方の人がいる。
だから、通じない相手に「ゆっくり短く言い直す」という習慣が、みんなにある。
私は頭を下げて、棚に向かった。
◇
綴じられた帳面が、ぎっしり並んでいた。
埃を払って、一冊抜く。
開くと、当然、読めない。
でも、形は分かる。
左の列に日付。真ん中に名前らしきもの。右に、短い記述。
日付。
私はそこだけを見た。
この国の暦は、覚えた。一年が十二の月に分かれている。ひと月が三十日前後。一週が七日。
――ここも、七日なんだ。
最初に知った時、なんとも思わなかった。
今も、深く考えないようにしている。
私は日付を、自分の帳面に書き写し始めた。
一冊目。二十七件。
そのうち、記述が短い――たぶん「見つからず」で終わっているもの――が、九件。
私はその九件だけを、別の頁に写した。
二冊目。三冊目。
窓の外が暗くなるまで、私はそれをやっていた。
途中で、受付の人がお茶を持ってきてくれた。
私が何をやっているのか、たぶん分かっていない。
でも、二日目からは、私が来ると黙って二階の鍵を開けてくれるようになった。
三日目には、古い順に棚を教えてくれた。
――やさしいな、この国の人。
そう思って、すぐに思い直した。
やさしいんじゃない。私が、害がないと分かっただけだ。
言葉が通じなくて、字も読めなくて、毎日来て、数字だけ写して帰る娘。
怖くない。だから親切にできる。
私は、それでいいと思った。
怖がられるより、ずっといい。
◇
書き写しながら、ひとつ気づいたことがある。
記述の長さが、二種類ある。
長いのと、短いの。
長いほうは、たぶん、後日談が書いてある。「三日後に隣村で見つかった」とか、「川で遺体が上がった」とか、そういうことだと思う。
短いほうは、一行で終わっている。
その一行が、どれも同じ形をしている。
同じ文字が、同じ順番で並んでいる。
私は、その一行を写して、家に持ち帰った。
夜、ハルトさんに見せた。
「これ、なんて、よむ」
彼はそれを見て、ごく短く答えた。
「――『不明』だ」
「ふめい」
「分からない、という意味だ。届けは出た。探した。見つからなかった。それだけしか書けない時に、こう書く」
私は、その二文字を野帳に写した。
自分で書けるようになった、二十六個目の言葉だった。
◇
三日通って、私は五十六件を書き写した。
保管所にある、一番古い帳面から新しいものまで。だいたい百四十年ぶん。
家に帰って、床に紙を並べた。
ハルトさんは図面を引いていたけど、途中から手を止めて、こっちを見ていた。
私は日付を、年の順に並べ替えた。
――そして、気づいた。
最初は、気のせいだと思った。
でも、二回目に確かめて、三回目に数えて、確信した。
私は顔を上げた。
「ハルト」
「なんだ」
「これ。みて」
◇
床に、紙が並んでいた。
マリが指したのは、日付の列だ。
「これ、ぜんぶ、いなくなった、ひと」
「行方不明の届けか」
「そう。みつからない、だけ」
見つかった者は除いてある、ということらしい。
「五十六件か」
「ごじゅうろく」
彼女は頷いて、それから、指で日付を辿った。
「ここ。ここ。ここ」
三つの日付を指す。
俺は数字を見た。
年が違う。だが――
「……月と日が、近い」
「ちかい」
マリはもっと多くを指した。
六つ。八つ。十一。
俺は屈み込んで、数字を追った。
全部ではない。だが、明らかに固まっている。
五十六件のうち、二十件ほどが、決まった時期に寄っている。
しかも――
「間隔が」
俺は指で数えた。
寄っている時期と、次に寄っている時期の間。
年数を引く。
十一年。
次。十一年。
次。十年。
次。十一年。
「……十一年ごとか」
声に出して、自分で背筋が寒くなった。
人が消えるのに、周期がある。
そんな話は聞いたことがない。
マリは、俺の顔を見ていた。
彼女は、俺が数えるより先に、これに気づいていた。三日前に気づいて、確かめて、それから見せに来た。
「ハルト」
「なんだ」
彼女は、少し言葉を探した。探して、見つからなかったらしい。
最後に、こう言った。
「つぎ、いつ」
俺は答えられなかった。
最後に寄っている年を見る。
そこから十一年を足す。
――今年だ。
俺は指を止めた。
止めたまま、しばらく数字を見ていた。
もう一度、頭から数え直した。
十一。十一。十。十一。
足す。
今年だ。
「ハルト」
マリが呼んだ。
俺は顔を上げなかった。
顔を上げて何と言うか、決まっていなかったからだ。
この娘に、どう説明する。
――お前が現れた年は、人が消える年だ。
それは、説明ではない。ただの符合だ。
符合は、意味ではない。
二十年、俺はそう教わってきた。数字が二つ揃っただけで話を作るな、と。
揃った数字が三つになったら、そこで初めて疑え、と。
俺は紙をもう一度並べ替えた。
年。月。日。
三つ目が、まだ足りない。




