書き換えた者
セレンは、三日後に戻ってきた。
今度は昼だった。髪は結ってあった。
だが、荷を背負っていた。
旅の荷ではない。書付の荷だ。革の帯で二重に締めてある。
俺は、それを見て察した。
「――出てきたのか」
「出ました」
◇
「荷は」
「記録です」
彼女は言った。
「二十年分の、私の解読の写しです」
「持ち出したのか」
「写しです。原本は置いてきました」
彼女は、荷を下ろした。
石の床に、鈍い音がした。
◇
「レイヴは知ってるのか」
「知っています」
「止められなかったのか」
「止められました」
彼女は言った。
「三度」
「――それで」
「四度目に、こう訊かれました」
◇
彼女は、レイヴの言葉をそのまま繰り返した。
「『記録官。あなたが出て行けば、当主の手元に残るのは、あなたが読んだ字だけになる。読み方を知る者がいなくなる』」
「――それは、止め方が上手い」
「はい」
彼女は言った。
「だから、四度目は返事に困りました」
「なんと答えた」
◇
「『だから出ます』と」
彼女は言った。
「読み方を知る者がいなくなれば、あの人は自分の都合で読みます。……ですが、私が残っていても同じでした」
彼女は、荷を見た。
「私が読んで、あの人が都合よく使う。それを二十年、私は『研究の成果』と呼んでいました」
◇
俺は、彼女に椅子を勧めた。
マリが湯を持ってきた。
今度は、彼女はそれを飲んだ。
「ハルトさん」
「なんだ」
「一つ、白状することがあります」
「聞く」
◇
彼女は、湯呑みを置いた。
「四年前、私は記録を一つ書き換えました」
俺は、動きを止めた。
「――書き換えた」
「はい」
「どこをだ」
◇
「星の重なりの記録です」
彼女は言った。
「三百年分の観測記録の中に、百三十二年周期のものがあります。私はそれを見つけました」
「――百三十二年」
俺は、その数字を知っている。
二月前、マリが出した数字だ。
「見つけて、私は日付を一年ずらして写しました」
◇
俺は、椅子から動かなかった。
「なぜだ」
「怖かったからです」
彼女は言った。
「正しく写せば、当主は動きます。……一年遅らせれば、準備が一年遅れます」
「――時間を稼いだのか」
「そのつもりでした」
彼女は、目を伏せた。
「ですが、学者が数字を動かすのは、最もやってはいけないことです」
◇
俺は、しばらく黙っていた。
――基準を動かした。
この女がやったのは、それだ。
基準を動かせば、測ったものが全部嘘になる。
俺なら、その図面は破って捨てる。
「記録官」
「はい」
「正しい日付は、いつだ」
◇
彼女は、荷から一枚出した。
書き換える前の、元の数字だ。
俺は、それを受け取った。
受け取って、読んだ。
読んで、二度読み直した。
◇
「マリ」
「うん」
「――星表を出せ」
彼女は動いた。
俺は、二枚を並べた。
こちらが出した数字は、八年三月後。
セレンの紙にあるのは――
「……二年、二月後」
俺は言った。
◇
部屋が、静かになった。
マリが、俺の手元を覗き込んだ。
「にねん」
「二年二月だ」
「ハルト。それ」
「ああ」
俺は言った。
「二月前に、ドルスが言った数字と同じだ」
◇
俺は、野帳をめくった。
四十三話の欄に、その数字が書いてある。
〈二年二月〉
あの時、俺たちはそれを「小さい重なり」だと結論づけた。
大きいのは八年三月後だと。
――逆だった。
「記録官」
「はい」
「二年二月後のほうが、大きいのか」
「大きいです」
彼女は言った。
「百三十二年に一度の、全ての重なりです」
◇
俺は、卓に手をついた。
――二年二月。
八年ではない。
この娘が「まだ、いていい」と言った八年は、存在しない。
俺は、マリを見た。
彼女は、紙を見ていた。
顔から、何も読めなかった。
◇
「ハルト」
彼女が言った。
「なんだ」
「にねんにかげつ」
「そうだ」
「……はやい」
彼女は言った。
それだけだった。
喜んでも、悲しんでもいなかった。
――読めない。
五月半、俺はこの娘の顔をだいたい読めるようになった。
この顔だけは、初めて見た。
◇
セレンが、静かに言った。
「もう一つ、申し上げることがあります」
「――まだあるのか」
「はい」
彼女は言った。
「私が一年ずらしたのは、四年前です。……当主は、二年前に別の観測者を立てました」
◇
俺は、顔を上げた。
「――気づかれてるのか」
「おそらく」
彼女は言った。
「気づいた上で、私に何も言いませんでした。二年間、私は騙されているつもりで、騙されていました」
「なぜ言わなかった」
「私が動揺しないためです」
彼女は言った。
「動揺した学者は、字を読み違えますから」
◇
俺は、その男の顔を想像した。
会ったことはない。
だが、やり方は分かった。
――使えるものは、壊さずに使う。
嘘をついた部下も、そのまま置いておく。
役に立つ間は。
「記録官」
「はい」
「あんた、よく生きて出てこられたな」
「……はい」
彼女は言った。
「それも、考えました」
◇
セレンが宿へ移った後、マリが外へ出た。
何も言わずに出た。
俺は、少し待ってから追った。
彼女は、ギルドの裏の石段に座っていた。
雨は上がっていた。石はまだ濡れている。
俺は、隣に座った。
濡れた石は冷たかった。
◇
しばらく、どちらも何も言わなかった。
この娘は、こういう時に先に口を開かない。
俺も、開かない男だ。
だから、二人でいると長くなる。
――言え。
俺は、自分にそう言った。
二月前、俺は言い直すのに四日かけた。
四日は、長すぎた。
◇
「マリ」
「うん」
「二年二月だ」
「うん」
「――近い」
「うん」
彼女は、膝を抱えていた。
「わたし、はちねんって、きいたとき」
彼女は言った。
「ほっとした、って、いった」
「言った」
「いま、ほっと、してない」
◇
俺は、待った。
「にねんにかげつ」
彼女は言った。
「かえれるかも、しれない」
「そうだ」
「うれしい」
彼女は言った。
「うれしい、はず」
彼女は、そこで止まった。
◇
俺は、その「はず」を聞いた。
――はず。
この娘は、自分の気持ちに「はず」を付けた。
付けるということは、そうなっていないということだ。
「マリ」
「うん」
「――言わなくていい」
「え」
「言葉にすると、決まってしまう」
俺は言った。
「まだ決めなくていい。二年ある」
◇
彼女は、俺を見た。
街の灯りで、顔が半分だけ見えた。
「ハルト」
「なんだ」
「それ、やさしい? それとも、にげてる?」
俺は、答えに詰まった。
――両方だ。
言葉にさせなければ、この娘は迷い続ける。
言葉にさせれば、俺は答えを聞くことになる。
聞きたくないのは、俺のほうだ。
◇
「――逃げてる」
俺は言った。
「俺が、聞きたくないだけだ」
彼女は、しばらく黙った。
それから、小さく息を吐いた。
「しょうじきで、いい」
彼女は言った。
「うそつかれるより、まし」
彼女は立ち上がった。
「ハルト。にねんにかげつ、あるから」
「ああ」
「そのあいだに、かんがえる。……ふたりとも」
◇
その夜、俺は野帳に書いた。
〈大重ナリ、二年二月後〉
〈先遣隊四十一名〉
〈記録官、離反〉
三行書いて、俺は筆を止めた。
――間に合うのか。
二年二月。
この五十日で、俺は三語を渡した。
この調子なら、二年で十五語だ。
十五語で、何ができる。
◇
「マリ」
「うん」
「――日に一度じゃ、間に合わん」
彼女は、顔を上げた。
「ふやす?」
「増やせば減る」
俺は言った。
「三百年前の門番が書き残した規則だ。破れば、何が減るか分からん」
俺は、灯りを見た。
「だが、守って間に合わなければ、四十一人が死ぬ」
◇
マリは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「ハルト」
「なんだ」
「きめるの、いま?」
「――いや」
俺は言った。
「今日は決めん。……こういうのを一晩で決めると、俺は必ず外す」
彼女は、少しだけ笑った。
「それ、まなんだんだ」
「学んだ」
俺は言った。
「四月半かかった」




