四十一人
セレンが来たのは、雨の日だった。
ギルドの上の部屋の戸を叩いたのは、朝の早い時刻だ。
俺は戸を開けて、動きを止めた。
この女は、いつも髪をきっちり結っている。書付を抱えて、背筋を伸ばして立っている。
その日は、髪が濡れていた。
結ってもいなかった。
◇
「――記録官」
「入れてください」
「レイヴは」
「知りません」
彼女は言った。
「知らせていません」
俺は、戸を大きく開けた。
◇
彼女は、卓の前に座った。
座って、しばらく何も言わなかった。
マリが布を持ってきて、彼女の肩にかけた。
セレンは、それを見て、少しだけ驚いた顔をした。
「……ありがとうございます」
「うん」
マリは、湯を沸かしに行った。
この娘は、こういう時に余計なことを言わない。
◇
「ハルトさん」
「なんだ」
「数字を、聞いていただけますか」
彼女は、懐から紙を出した。
濡れないように、油紙で包んである。
――そこは、きっちりしている。
「聞く」
「四十一です」
「――何がだ」
「人数です」
◇
俺は、紙を受け取った。
名前が並んでいる。
四十一。
横に、年齢と、出身の町が書いてある。
「これは」
「先遣隊の名簿です」
彼女は言った。
「星の重なりの夜に、サルカド遺跡へ入る予定の人員です」
「――四十一人」
「はい」
「入って、どうする」
◇
「開けます」
彼女は言った。
「力ずくで」
「唱えるのは誰だ」
「当主です」
「――血は」
「あります。薄いですが」
彼女は言った。
「三百年前に分かれた側の血です。句も伝わっています。……ただし、崩れた形で」
◇
俺は、名簿を見た。
四十一の名前。
一番上は三十九歳。一番下は――
「マリ」
「うん」
「この字は、いくつだ」
彼女は覗き込んだ。
「じゅうろく」
「十六だ」
俺は言った。
「十六の子どもが、名簿に入ってる」
◇
セレンは、卓を見ていた。
「その者は、荷運びです」
「先遣隊の荷運びか」
「はい」
「――戻ってこられるのか」
彼女は、答えなかった。
俺は、それで分かった。
◇
「記録官」
「はい」
「あんたは、この計画をいつ知った」
「十日前です」
「そのとき、何をした」
「反対しました」
彼女は言った。
「当主に、直接」
「なんと言われた」
◇
彼女は、少し黙った。
それから、当主の言葉を、そのまま繰り返した。
「『三百年、我らは何人失ったと思う』」
俺は、その言葉を頭に入れた。
「『十七人が入り、十七人が戻らなかった。それを三百年繰り返して、我らはまだ門の前にいる』」
彼女は言った。
「『四十一で済むなら、安い』」
◇
部屋が、静かになった。
湯の沸く音だけがしていた。
「安い」
俺は言った。
「そう言ったのか」
「はい」
「――算盤の言い方だ」
俺は言った。
「俺も、そういう言い方をする」
セレンが顔を上げた。
「あなたは違います」
「同じだ」
俺は言った。
「二月前、俺は同じ言い方で、この娘の八年を決めた」
◇
マリが、湯を持ってきた。
卓に置いて、俺の隣に座った。
セレンは、湯呑みを両手で持った。
持ったまま、飲まなかった。
「ハルトさん」
「なんだ」
「私は、学者として育ちました」
彼女は言った。
「文字を読み、記録を残す。それだけを教わりました」
彼女は、湯呑みを見ていた。
「人が死ぬ計算の欄に、自分の書いた解読が使われるとは、思っていませんでした」
◇
俺は、その言葉を聞いた。
――使われる。
この女は、二十年かけて分家の記録を読んできた。
その成果が、四十一人を突っ込む根拠になった。
「記録官」
「はい」
「あんたの読みは、正しかったのか」
彼女は、初めてこちらを見た。
「――どういう意味です」
◇
「四十一人で開くと、あんたの解読が言ってるのか」
「言っていません」
彼女は即答した。
「私が出したのは『力ずくでは開かない可能性が高い』という結論です」
「それを当主に伝えたか」
「伝えました」
「返事は」
「『可能性は、ゼロではないということだ』」
◇
俺は、椅子に背を預けた。
――そういう男か。
都合のいい読み方を選ぶ。
この女が、いつか俺に言った言葉だ。
――都合のいい読み方を選んだところは、たいてい間違っています。
「記録官」
「はい」
「あんた、前に俺にこう言った」
俺は、その言葉を返した。
セレンの手が、止まった。
◇
「……覚えています」
「あの男は、それをやってる」
「はい」
「あんたは、それを知ってる」
「はい」
「知ってて、まだあっちにいる」
俺は言った。
「なぜだ」
◇
彼女は、長い時間、答えなかった。
湯が冷めるくらいの時間だった。
やがて、こう言った。
「二十年、あの人と一緒に育ちました」
「――そうか」
「十のとき、同じ部屋で同じ書を読みました」
彼女は言った。
「あの人は、私より先に読めるようになりました。悔しくて、夜中まで起きていました」
彼女は、湯呑みを置いた。
「その人が、四十一を『安い』と言いました」
◇
俺は、何も言わなかった。
言うべきことは、この女がもう自分で言っている。
俺が言葉を足せば、それは背中を押すことになる。
――押すのは、違う。
二月前、俺はこの娘の八年を三呼吸で決めた。
同じことを、この女にしたくなかった。
◇
「ハルトさん」
「なんだ」
「何か、言わないのですか」
「言わん」
俺は言った。
「あんたが決めることだ」
セレンは、目を伏せた。
「……そう言われると、逃げ場がありません」
「逃げ場が要るなら、帰っていい」
俺は言った。
「その紙も持って帰れ。俺は見なかったことにする」
◇
彼女は、紙を見た。
四十一の名前が並んだ紙を。
それから、こう言った。
「一つだけ、教えてください」
「なんだ」
「あなたは、下で何を見ましたか」
◇
俺は、少し考えた。
この五十日で見たものを、どう言えばいいか。
「――柱がある」
俺は言った。
「二十歩の太さで、一万の刻みがある」
「一万」
「数えた」
俺は言った。
「そいつは、俺の言い方を直した。順を変えて訊き返してきた。……昨日は、俺の家の名を呼んだ」
◇
セレンの手が、震えた。
「――言葉を、返すのですか」
「返す」
「機械ではないと」
「分からん」
俺は正直に言った。
「だが、間違いを教える機械を、俺は知らん」
◇
彼女は、しばらく動かなかった。
それから、立ち上がった。
立ち上がって、紙を卓に残した。
「置いていきます」
「――いいのか」
「四十一人です」
彼女は言った。
「私が読んだ字が、その計算に入っています。……見なかったことには、もうできません」
◇
戸が閉まってから、俺はしばらく動かなかった。
卓の上に、名簿が残っている。
四十一の名前。
俺は、その紙を裏返した。
裏返して、また表に戻した。
――見なかったことには、もうできません。
この女の言葉が、そのまま俺に返ってくる。
◇
「ハルト」
「なんだ」
「あのひと、また、くる?」
「――来る」
「わかるの」
「分かる」
俺は言った。
「置いていったのは、紙じゃない。……戻ってくる理由だ」
◇
俺は、名簿を野帳に挟んだ。
挟んでから、別の欄を開いた。
〈八年三月後〉と書いた行がある。
二月前、マリが五百六十通りの計算から出した数字だ。
その下に、俺は今日の分を書いた。
〈先遣隊四十一名。決行ハ星ノ重ナリノ夜〉
書いて、俺は手を止めた。
◇
――おかしい。
八年も先の作戦に、十六の子どもを名簿に入れるか。
八年後、その子は二十四になる。荷運びではなく、別の役に就いている。
名簿とは、そういうものだ。今の年齢で組む。
「マリ」
「うん」
「――この名簿は、八年後のものじゃない」
◇
彼女は、名簿を覗き込んだ。
「もっと、ちかい?」
「近い」
俺は言った。
「どれだけ近いかは分からん。だが、名簿を今組むということは、そう遠くない」
俺は、その紙を見た。
「――俺たちの計算が、どこかで間違ってる」
「ごひゃくろくじゅう、けいさんした」
「した」
俺は言った。
「したが、俺たちが持ってる星表は、ドルスが写した二百年分だ。……向こうは三百年、直に観てる」




