なぜそこにいる
二百四十歩、降りた。
柱の前に立つ。
一万の刻みが、薄く光っている。
この五十日で、俺はここへ十一回来た。
十一回とも、同じ場所に立った。
同じ場所に立つのは、癖ではない。基準を動かさないためだ。基準が動けば、測ったものが全部嘘になる。
◇
「マリ。灯りを、いつもの位置に」
「うん」
斜め後ろ、少し高く。
五月半、この位置は一度もずれていない。
最初の頃、俺はこの娘に「そこだ」と言った。言ったのは一度だけだ。
それきり、一度もずれない。
――こういうことのできる人間は、少ない。
俺は息を吸った。
◇
今日の一言を、どう使うかは昨日決めてある。
訊きたいことは、一つに絞ってある。
二つ訊ける言葉を、俺はまだ持っていない。
持っているのは四音だけだ。その四音で、五十日かけて三語を渡した。
「戻る」。「行く」。「サルカド」。
それだけで、俺はこれから「なぜ」を訊こうとしている。
――無茶だ。
無茶だが、他に手がない。
◇
――シャルカディ・オム・ネイア。
柱が光った。
いつもより、遅い。
ゆっくり明るくなって、途中で止まった。
止まったまま、動かない。
――待っている。
根拠はない。ただ、そう感じた。
五十日、同じものを見ていると、そういうことが分かるようになる。分かった気になっているだけかもしれない。
俺は、続けた。
この国の言葉で。通じないと知りながら。
「あんたは、なぜそこにいる」
◇
沈黙が長かった。
三十を数えた。
四十を数えた。
六十を過ぎたとき、俺は間違えたと思った。
問いが複雑すぎる。この五十日で通じたのは三語だけだ。
「なぜ」は、まだ渡していない。
渡していない言葉で訊くのは、目盛りのない物差しを当てるようなものだ。
俺は、引き返そうと足を動かした。
その時、柱が鳴った。
◇
音が、四つ。
区切りがある。
――シャル・カディ・オム・ネイア。
俺は、動きを止めた。
俺の句ではない。
似ている。音は同じだ。
だが、区切りが違う。そして、三番目と四番目が入れ替わっている。
「マリ。書け」
「かいてる」
彼女の筆の音がした。
この娘は、指示より先に手が動く。
◇
柱は、それを三度繰り返した。
三度とも、同じ順だった。
――規則的だ。
これは間違いではない。間違いなら、三度は揃わない。
三度目が終わると、光が消えた。
終わりだ、という合図だ。
この五十日で、それだけは分かるようになった。
俺は、頭を下げた。
誰に対してかは、自分でも分からなかった。
◇
石段を上がりながら、マリが訊いた。
「ハルト。あれ、こたえ?」
「――分からん」
「わかんない、の」
「分からんが」
俺は言った。
「答えじゃないかもしれん」
「じゃあ、なに」
「訊き返された、のかもしれん」
彼女は、しばらく黙って上がっていた。
石段は二百四十段ある。黙るには十分な長さだ。
◇
地上に出たのは、夕方だった。
俺は野帳を開いて、二つの句を並べた。
〈シャルカディ・オム・ネイア〉
〈シャル・カディ・オム・ネイア〉
――違う。
俺のは四音を三つに割る。あれは四つに割った。
そして順が入れ替わっている。
俺は、二つの行をしばらく見ていた。
こういう時、俺は必ず紙に並べる。頭の中で比べると、必ず片方を都合よく歪めるからだ。
◇
「マリ」
「うん」
「お前、地球で――」
俺は、言い方を探した。
「同じことを二度言うとき、順を変えるか」
「かえる?」
「たとえば、俺が『北の壁を抜く』と言う。お前がそれを繰り返すとき」
「『きたの、かべを、ぬく』」
「そうだ。順は変えないな」
「かえない」
「変えるのは、どういう時だ」
彼女は、少し考えた。
考えるとき、この娘は必ず一度上を見る。
「……きくとき」
◇
俺は、手を止めた。
「訊くとき」
「うん」
彼女は言った。
「『きたのかべを、ぬく』。……『きたのかべを、ぬく?』」
彼女は、同じ言葉を二度言った。
二度目は、終わりが上がった。
「にほんごは、じゅんばん、かえないで、おわりを、あげる」
彼女は言った。
「でも、かえる、ことばも、ある。むかし、がっこうで、ならった」
「――どこの言葉だ」
「べつの、くに。……ふつうのぶんと、しつもんで、じゅんばんが、かわる」
◇
俺は、野帳の二行を見た。
――訊かれている。
俺が「なぜそこにいる」と訊いた。
あれは、俺の句を疑問の形に組み替えて返してきた。
意味は、たぶんこうだ。
――お前こそ、なぜここにいる。
「マリ」
「うん」
「訊き返された」
俺は言った。
「間違いない」
◇
その夜、俺は野帳に書いた。
〈句ハ、順ヲ変エルト問イニナル〉
書いて、その下に足した。
〈問イ返サレタ。答エヲ持ッテイナイ〉
俺は、その二行を見た。
――なぜ、俺はここにいるのか。
二十年、俺はサルカドを測ってきた。
仕事だからだ。家がそう請け負ってきたからだ。
だが、それは「なぜ」の答えではない。
「どうして続けてきたか」の答えでしかない。
その二つは、似ているようで別のものだ。
現場でも同じだ。「なぜ崩れたか」と「どこから崩れたか」を混ぜる奴は、必ず外す。
◇
俺は、荷の底を開けた。
図面が入っている。
どこを叩けば崩れるか、俺が計算した紙だ。
まだ、捨てていない。
ダウムに「持っとけ」と言われて、持っている。
俺は、その紙を広げた。
広げて、しばらく見た。
――これを持ったまま降りている。
あれは、それを知らない。
知らずに、俺に訊いた。なぜここにいる、と。
「マリ」
「うん」
「――俺は、嘘をついてる」
「まえも、いってた」
「言った」
俺は、紙をたたんだ。
「言って、まだ直してない」
◇
彼女は、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「ハルト。こたえ、きめてから、いく?」
「――そうしたい」
「じゃあ、あした、いかない?」
「行かない」
俺は言った。
「答えを持たずに降りるのは、道具を持たずに現場へ行くのと同じだ。何も測れん」
「じゃあ、なんにちで、きめる」
「――分からん」
俺は正直に言った。
「二十年考えなかったことだ。一晩で出るとは思えん」
◇
寝台に入る前に、マリが言った。
「ハルト」
「なんだ」
「わたし、こたえ、ある」
俺は顔を上げた。
「――何の」
「『なぜ、ここにいる』」
彼女は、自分を指した。
「わたしの、こたえ」
◇
俺は、筆を置いた。
「言ってみろ」
「かえりたいから」
彼女は言った。
「かえるみちを、さがしてる。だから、ここにいる」
「――そうだな」
「はっきりしてる、でしょ」
「はっきりしてる」
俺は言った。
言って、その明快さが少しこたえた。
この娘は、五月半、一度もぶれていない。
俺のほうが、ぶれ続けている。
◇
「ハルトは」
彼女は訊いた。
「なんで、ここに、いるの」
「――分からん」
「うそ」
彼女は言った。
珍しく、強い言い方だった。
「うそじゃない」
「うそ。ハルト、じゅうにかい、おりた」
彼女は指を折った。
「わたしが『もどる』って、いった。ハルト、もどった。……つぎのひ、また、おりた」
彼女は俺を見た。
「じゅういっかい、また、おりてる。りゆう、ないと、そんなこと、しない」
◇
俺は、答えられなかった。
――理由はある。
あるが、言葉にできない。
「知りたい」では足りない。「守りたい」でも足りない。
「潰したい」も、まだ底に残っている。
どれか一つを選べば嘘になる。全部言えば、この娘を怖がらせる。
「マリ」
「うん」
「――明日までに、出す」
「うん」
「出せなかったら、そう言う」
「それで、いい」
彼女は言った。
「わかんない、って、いえるほうが、ハルトは、まし」
◇
◇
俺は、灯りを消さずに寝台に入った。
目を閉じて、数え始めた。
崩落を数えるときと同じ手順だ。事実を並べて、原因を絞る。
だが、今回は事実の欄に入るものが一つもなかった。
――なぜ、俺はここにいるのか。
朝までかかって、何も出てこなかった。




