本邸
答えが出たのは、九つ目の綴りだった。
百二十年前のものではない。
一番古い、百四十年前の一冊。
紙が脆すぎて、ダウムが触らせなかったやつだ。
三日目に、彼が折れた。
「――破いたら、殴るぞ」
「破きません」
「破いたら、殴る」
彼は二度言った。
◇
その綴りの余白には、ムーの文字が十二行あった。
これまでで、一番多い。
セレンは、それを半日で写した。
写して、読み始めて――途中で手が止まった。
「――ハルトさん」
「なんだ」
「これは、報告書ではありません」
「では」
「――引き継ぎです」
◇
彼女は、一行目を指した。
「『次に来る者へ』」
彼女は言った。
「そう書いてあります」
俺は、その行を見た。
読めない字だ。
だが、そこにそう書いてあると言われれば、そう見えた。
「読め」
「読みます」
彼女は言った。
「ただし、十二行のうち、確実なのは七行です」
◇
七行は、こうだった。
一。この場所を、毎年測ること。
二。数は、書き継ぐこと。
三。門は、開けないこと。
四。句は、日に一度を超えないこと。
五。(読めず)
六。下から音があれば、書き留めること。
七。(読めず)
俺は、その七行を見ていた。
――門番の覚え書きと、同じだ。
地下で見つけた、あの紙と。
◇
「セレン」
「はい」
「――これは、同じ文書の写しか」
「いいえ」
彼女は言った。
「書き方が違います。……こちらのほうが、新しい」
彼女は言った。
「地下の紙が元で、これはその要約です。……代を継ぐ時に、書き直したのでしょう」
俺は頷いた。
「残りの五行は」
「一つだけ、読めます」
彼女は、下から二行目を指した。
「――ここです」
◇
彼女は、その行を紙に書き写した。
音に直して、俺に見せた。
俺は、それを読んだ。
途中まで読んで、手が止まった。
――サルカド。
その音が、入っている。
そして、その隣に、もう一つ。
――サルカディア。
◇
「セレン」
「はい」
「――二つ、入ってる」
「はい」
「サルカドと、サルカディア」
「はい」
彼女は言った。
「別の語として、並んでいます」
彼女は、その二つを指した。
「同じ語根ですが、形が違う。……片方は場所、片方は」
彼女は、そこで言葉を止めた。
止めて、俺を見た。
「――人、あるいは家です」
◇
俺は、その行を、しばらく見ていた。
「読め」
「順に読みます」
彼女は言った。
「主語が『サルカディア』。……つまり、あなたの家です」
「うん」
「次が、場所を示す語。『サルカドの』」
「うん」
「その次が、名詞です」
彼女は言った。
「これが、読めませんでした」
◇
「今は」
「今は、読めます」
彼女は言った。
「二十八種が揃ったので」
彼女は、その名詞を書いた。
四つの音。
俺は、それを見た。
「――何と読む」
「音は出ます」
彼女は言った。
「意味は、我々の側にも残っています。……分家の詠唱に、この語が二度出ます」
彼女は、俺を見た。
目が、初めて揺れていた。
「――『番人』です」
◇
俺は、動かなかった。
「――サルカディア家は、サルカドの番人である」
セレンは、そう読んだ。
部屋が、静かになった。
マリが、俺の顔を見ていた。
ダウムが、扉のところで足を止めていた。
俺は、しばらく何も言えなかった。
◇
――番人。
二月前、俺は地下でそう書いた。
〈うちの家は、門の脇に住んでたんだ〉
あれは、俺の推測だった。
根拠は、階段の幅と、扉の開く向きだけだった。
今、それが文字で出た。
百四十年前の誰かが、次に来る者へ、そう書き残していた。
◇
「セレン」
「はい」
「――残りの四行は」
「読めません」
彼女は言った。
「ですが、この行の直前に、一つだけ読める語があります」
彼女は、その上の行を指した。
「――『初めより』」
俺は、その言葉を飲み込んだ。
「初めより、サルカディア家は、サルカドの番人である」
俺は、そう読んだ。
「――初めって、いつだ」
◇
その日、俺はサルカドへ戻らなかった。
ギルドの上の部屋で、荷を全部出した。
野帳。図面。杆。狐。
それに、あの紙。
人型標の回廊を落とす計算が入った、三日かけて描いた紙。
俺は、それを卓に広げた。
◇
――潰す。
二月前、俺はそう決めた。
理由は、はっきりしていた。
あれがある限り、誰かが取りに来る。取りに来れば、誰かが死ぬ。
だから、なくす。
その理屈は、今も間違っていない。
――だが。
俺の家は、初めから、あれの番人だった。
千年、あるいはもっと前から。
◇
俺は、その紙を持ったまま、動かなかった。
――番人が、門を潰す。
それは、何だ。
仕事を辞めるのとは違う。
辞めるなら、誰かに渡せばいい。
潰すというのは、渡す相手ごとなくすということだ。
百四十年前の誰かが「次に来る者へ」と書いた。
その次の次の次が、俺だ。
◇
「マリ」
「うん」
「――親父は、これを知ってたか」
彼女は、しばらく考えた。
「わからない」
「――そうだな」
「でも」
彼女は言った。
「おとうさん、まいとし、いってた。ハルトも、いってる」
彼女は言った。
「しらなくても、やってた」
◇
俺は、その言葉に打たれた。
――そうだ。
俺の家は、意味を知らないまま、千年やってきた。
句の意味を知らない。番人だと知らない。
知らないまま、毎年降りて、寸法を測って、〈相違無シ〉と書いてきた。
――そして、俺の代で、意味が分かった。
分かった俺が、最初に考えたのが、潰すことだった。
◇
俺は、卓の紙を見た。
三日かけて描いた線。
どこを叩けば、どこまで落ちるか。
――捨てるか。
ダウムは、捨てるなと言った。
持っておけ。たまに見ろ。見て、今日は違うと思えるうちは大丈夫だ、と。
俺は、その紙を畳んだ。
畳んで、荷の底に戻した。
――捨てない。
だが、上には置かない。
◇
その夜、俺は野帳を開いた。
新しい頁に、こう書いた。
〈サルカディア家、初メヨリ、サルカドノ番人ナリ〉
書いて、その下に、自分の言葉で足した。
〈俺ハ、番人ノ家ノ人間デアル。二十年、知ラズニ番ヲシテイタ〉
書いて、しばらく見た。
それから、もう一行足した。
〈知ッタ以上、辞メルカ続ケルカハ、俺ガ決メル〉
◇
書き終えて、俺は筆を置いた。
「マリ」
「うん」
「――俺は、続けると思う」
「うん」
「潰すのは、やめる」
俺は言った。
「――ほんとうに」
「たぶんな」
俺は正直に言った。
「たぶん、だ。……明日また変わるかもしれん」
彼女は頷いた。
「わかった」
「――怒らないのか」
「おこらない」
彼女は言った。
「ハルト、いま、じぶんで、いってる」
彼女は言った。
「まえは、いわなかった」
◇
俺は、その違いを、しばらく考えていた。
――そうだ。
二月前、俺は黙って決めた。
黙って図面を引いて、黙って荷の底に入れた。
今日、俺は口に出している。
迷っていることも、変わるかもしれないことも。
――言葉にすると、少し軽くなる。
軽くなった分だけ、俺はまだ、こちら側にいる。
◇
灯りを落とす前に、マリが言った。
「ハルト」
「なんだ」
「――『ばんにん』って、あっちにも、いた」
俺は、顔を上げた。
「あの、はしらの、むこう」
彼女は言った。
「ハルト、あのとき、いった。『もんは、りょうがわから、まもるもの』って」
俺は、その言葉を思い出した。
二十日前に、自分で言った言葉だ。
「――ああ」
「じゃあ」
彼女は言った。
「あっちの、ばんにんも、しらないまま、やってる、かも」
◇
俺は、暗がりでその可能性を考えた。
――千年、意味も知らずに。
誰も来ない門の、向こう側で。
毎日、決まったことをして。
こちらが五十日通って、初めて返事を返した相手。
「マリ」
「うん」
「――明日、降りる」
「うん」
「訊きたいことができた」
俺は言った。
「あんたは、なぜそこにいるのか、と」




