三つ目の文
三つ目の文を、俺たちは十日探した。
当てはある。
――ギルドの綴りだ。
百二十年前の図面。余白に模様と、七つの形が二十三回。
ダウムの部屋で、俺はそれをもう一度写した。
◇
「読めるか」
セレンは、その写しを受け取った。
受け取って、半日で顔を上げた。
「――読めます」
「何と書いてある」
「文が三つです」
彼女は言った。
「一つ目。これは、寸法です」
「寸法」
「数と、単位です」
彼女は言った。
「四つの数が並んでいます。……たぶん、通路の幅と、高さと、段の寸法」
◇
俺は、その言葉を飲み込んだ。
――測量の記録だ。
百二十年前の図面の余白に、ムーの文字で寸法が書いてある。
「二つ目は」
「日付です」
彼女は言った。
「数の並びが、暦の形をしています」
「読めるか」
「単位が分かりません」
彼女は言った。
「ですが、四つの位があります。年、月、日……あるいは、それに近いもの」
◇
「三つ目は」
セレンは、そこで手を止めた。
「――短い文です」
彼女は言った。
「五つの音。……そのうち二つが、あの動詞です」
俺は、身を乗り出した。
「読めるか」
「読めます」
彼女は言った。
「ですが」
彼女は顔を上げた。
「――これは、意味が確定しません」
◇
「なぜだ」
「主語がないからです」
彼女は言った。
「動詞と、目的語と、否定の形。……この三つだけです」
彼女は、紙に書いた。
「『――を、~せず』」
俺は、その形を見た。
「目的語は」
「サルカドです」
彼女は言った。
「『サルカドを、~せず』」
◇
俺は、その文を三度読んだ。
――サルカドを、行かず。
――サルカドを、戻らず。
どちらも、日本語で言えば妙な形になる。だが、この言葉ではそうなるらしい。
「セレン」
「はい」
「――これで、どっちか決まるか」
「決まりません」
彼女は言った。
「否定形は、どちらの動詞でも取れます」
彼女は、少し悔しそうな顔をした。
「三つ目の文としては、弱い」
◇
俺は、その紙を見ていた。
――サルカドを、~せず。
百二十年前の測量士が、図面の余白にこれを書いた。
寸法を書いて、日付を書いて、最後にこれを書いた。
「セレン」
「はい」
「――順番は」
「順番」
「寸法、日付、この文。……この順で書いてあるのか」
彼女は、写しを確かめた。
「……はい。この順です」
◇
俺は、その順番を、しばらく見ていた。
――報告書だ。
俺が毎年書いているものと、同じ形をしている。
寸法を書く。日付を書く。最後に、所見を書く。
俺の場合、所見はいつも〈相違無シ〉だ。
百二十年前の誰かは、そこに〈サルカドを、~せず〉と書いた。
◇
「――セレン」
「はい」
「これは、報告書の締めだ」
俺は言った。
「毎年、同じことを書く欄がある。……うちの家は〈相違無シ〉と書く」
俺は、その紙を指した。
「ここに書くのは、その年に何をしたか、あるいは、しなかったかだ」
セレンの目が、動いた。
「――なるほど」
「そして、否定形だ」
俺は言った。
「その年、この測量士は、サルカドを『しなかった』」
◇
俺は、そこで一つのことに気づいた。
「セレン。日付は」
「読めますが、単位が」
「他の年の綴りにも、同じ形があるか」
彼女は、はっとした顔をした。
「――比べれば」
「そうだ」
俺は立ち上がった。
「ダウムのところに、百年ぶんある」
◇
三日かかった。
ダウムは、部屋を丸ごと明け渡した。
「わしは昼寝ができんな」
彼はそう言って、笑わなかった。
俺たちは、百年ぶんの綴りを全部めくった。
余白に、ムーの文字がある頁を探す。
――九つあった。
百二十年前から、二十年おきに近い間隔で。
◇
九つの日付を並べた。
単位は分からない。だが、数の並びは比べられる。
俺は、それをこの国の暦の年と突き合わせた。
綴りには、この国の日付も入っている。図面には必ず日付が入るからだ。
二つの暦を、九点で結ぶ。
――出た。
「マリ。計算しろ」
「する」
彼女は、二時間で表を作った。
◇
「――ハルト」
「なんだ」
「これ、おなじ、ながさ」
彼女は言った。
「あっちの、いちねんと、こっちの、いちねん」
俺は、その表を見た。
九点。
どの点でも、比が一対一に近い。
誤差は、〇・三分以内。
「……同じ暦だ」
俺は言った。
「ムーの暦と、この国の暦が、同じ長さで動いてる」
◇
セレンが、紙を落とした。
拾わなかった。
「――同じ」
「同じだ」
「そんなはずは」
彼女は言った。
「暦は、その土地の空で決まります。日の長さ、季節の巡り。……それが一致するというのは」
彼女は、言葉を探した。
「同じ空の下で、作られた暦だということです」
◇
俺は、その言葉を聞いていた。
――同じ空。
だが、マリの国の空は違う。星が全部違う。
なら、ムーの暦とこの国の暦が同じなのは、当たり前だ。
同じ空の下にある。
――そのはずだ。
そのはずなのに、俺は妙な違和感を覚えていた。
◇
「セレン」
「はい」
「――一年の長さは、何で決まる」
「日の巡りです」
彼女は言った。
「季節が一巡する長さ」
「じゃあ、一日は」
「――空が一周する長さ」
彼女は言った。
「星が、元の位置に戻るまで」
◇
俺は、そこで手を止めた。
「マリ」
「うん」
「――お前の国の、一日は」
「にじゅうよじかん」
彼女は言った。
「わたしのくにの、かぞえかた」
「一年は」
「さんびゃくろくじゅうごにち」
彼女は言った。
「よねんに、いちど、さんびゃくろくじゅうろく」
◇
俺は、椅子から立ち上がっていた。
「セレン。この国の一年は」
「三百六十五日です」
彼女は言った。
「四年に一度、三百六十六」
部屋が、しんとした。
俺は、マリを見た。
マリは、俺を見ていた。
◇
「……同じだ」
俺は言った。
「おなじ」
「一年の長さが、同じだ」
俺は言った。
「星は全部違うのに。空は全然違うのに。……一年の長さだけが、同じだ」
セレンが、口を開いた。
「――それは、ありえません」
彼女は言った。
「一年は空で決まります。空が違えば、長さも違うはずです」
「そうだ」
俺は言った。
「なのに、同じだ」
◇
俺は、その夜、眠れなかった。
――暦が同じ。
一週も七日だ。マリが、記録保管所で最初に気づいたことだ。
あの時、彼女は「深く考えないようにしている」と言った。
俺も、その時は流した。
今日、流せなくなった。
◇
「マリ」
暗がりで、俺は言った。
「うん」
「――お前の国は、歩いて行けない」
「うん」
「馬も船も、行けない」
「うん」
「だが、暦が同じだ」
俺は言った。
「歩いて行けないほど遠いのに、一年の長さが同じだ」
俺は、天井を見た。
「――遠いって、どういう遠さだ」
◇
マリは、しばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「――ハルト」
「なんだ」
「わたし、ずっと、こわいこと、かんがえてる」
「言え」
「いえない」
彼女は言った。
「いえない、じゃなくて。……ことばに、できない」
俺は、暗がりで頷いた。
「――俺もだ」
俺は言った。
「言葉になったら、その時に言え」
「ハルトも」
「言う」
俺は言った。
「約束する」
◇
翌朝、ダウムが部屋に来た。
俺たちが三日居座っている、彼の部屋にだ。
「片付いたか」
「まだです」
「そうか」
彼は椅子に座った。座る場所が、そこしかなかった。
「一つ、訊いていいか」
「どうぞ」
「――何が分かった」
俺は、少し迷った。
迷って、言うことにした。
◇
「暦が同じでした」
「暦」
「うちの家の言葉を使ってた連中の暦と、この国の暦が、同じ長さで動いてます」
ダウムは、しばらく黙っていた。
「……それは、当たり前じゃないのか」
「同じ空の下なら、当たり前です」
「違うのか」
「――違わないはずです」
俺は言った。
「だから、当たり前です。……当たり前なのに、俺は驚いてる」
◇
ダウムは、俺の顔をしばらく見ていた。
「ハルト」
「はい」
「――お前、顔が変わったな」
「そうですか」
「二月前より、ましだ」
彼は言った。
「二月前は、人を殺しそうな顔をしとった」
俺は、動きを止めた。
「――そんな顔でしたか」
「しとった」
彼はあっさり言った。
「わしはマスターを十八年やっとる。……人の顔は、それなりに見てきた」
◇
彼は、椅子の背にもたれた。
「家が焼けて、知り合いが死んで。……あの顔になるのは、分かる」
彼は言った。
「だが、あの顔のまま何かを始めた奴は、たいてい戻ってこん」
「――どこから」
「まともなところから、だ」
彼は言った。
「わしは、そういうのを三人見送った」
◇
俺は、答えなかった。
答えられなかった。
――二月前、俺は図面を引いていた。
どこを叩けば崩れるか。
その紙は、今も荷の底にある。
「ダウムさん」
「なんだ」
「――俺は、まだ持ってます」
「何をだ」
「あの顔をしてた時に、書いた紙です」
俺は言った。
「捨てられずにいます」
◇
ダウムは、少し笑った。
「捨てんでいい」
俺は、顔を上げた。
「捨てたら、無かったことになる」
彼は言った。
「無かったことにした奴は、また同じ顔をする」
彼は立ち上がった。
「持っとけ。……たまに、見ろ」
彼は扉のほうへ歩いた。
「見て、今日は違うと思えるうちは、大丈夫だ」




