訊く
「あの柱に、訊けませんか」
セレンはそう言った。
俺は、しばらく答えなかった。
――訊く。
これまで、俺は訊いていない。
挨拶をして、返事を書き取ってきただけだ。
訊くというのは、こちらが何かを求めるということだ。
◇
「訊き方が分からん」
俺は言った。
「音は交わせる。だが、意味は通じてない」
「通じています」
セレンは言った。
「なぜ分かる」
「あちらは、あなたの句を正しい形で返した」
彼女は言った。
「正しい形を知っているということは、意味も知っているということです」
彼女は表を指した。
「意味を知らずに、訛りだけ直すことはできません」
◇
俺は、その理屈を三度確かめた。
――正しい。
訛りを直すには、正しい形を知っていなければならない。
正しい形を知るには、意味を知っていなければならない。
なぜなら、音だけなら、どの形が正しいか決められないからだ。
「――向こうは、意味を知ってる」
「はい」
「なら、なぜ言わない」
「言っています」
セレンは言った。
「あなたが、聞き取れないだけです」
◇
六十八日目、俺は柱の前に立った。
セレンは連れて行かなかった。
連れて行きたかったが、彼女は入れない。
三百年で十七人。あの三体の骨が、それを言っている。
代わりに、彼女が用意したものを持った。
――紙だ。
二十八種の字を、大きく書いた紙。
一枚に一字。二十八枚。
◇
「マリ。並べるぞ」
「うん」
俺たちは、床に紙を並べた。
柱から三十歩。縄の届く範囲。
二十八枚を、横一列に。
並べ終えて、俺は下がった。
柱の光が、変わった。
――強い。
◇
俺は、次にやることを決めていた。
セレンが考えた手順だ。
俺は、四枚の紙を拾った。
俺の句の、四つの音に当たる字。
シャル、カディ、オム、ネイア。
それを、四つ並べ直した。
そして、その隣に、一枚だけ紙を置いた。
白紙だ。
◇
――「これは、何だ」と訊いている。
そのつもりだった。
通じるかどうかは、分からない。
俺は、下がって、待った。
柱が、明滅した。
いつもの速さで。
何も起きない。
◇
十数える。二十数える。
何も起きない。
「――駄目か」
「まって」
マリが言った。
「ひかりかた、かわった」
俺は、柱を見た。
――言われてみれば。
明滅の間が、少し短い。
速くなっている。
◇
やがて、音が来た。
短い。
二つの区切り。
――「分からない」の音だ。
「――通じてないな」
「まだ」
マリが言った。
彼女は、床の紙を見ていた。
「ハルト」
「なんだ」
「はくしは、わからないと、おもう」
彼女は言った。
「なにもない、っていみに、なる」
◇
俺は、その通りだと思った。
――白紙は、質問にならない。
俺は、白紙を下げた。
代わりに、別のものを置いた。
――もう一つの文だ。
杆の銘。九つの音。
俺は、それを九枚並べた。
四つの句の隣に。
二つの文を、横に並べる。
◇
――同じ動詞が、両方に入っている。
セレンがそう言った。
なら、二つ並べれば、共通する部分が見える。
俺は、その共通する二字の下に、線を引いた。
炭で、床に。
――ここを訊いている。
そのつもりだった。
◇
柱が、消えた。
二度目だ。
真っ暗になる。
マリが、俺の袖を掴んだ。
十数える間。
それから、光が戻った。
一斉に。
◇
そして、音が来た。
短い。
三つの区切り。
俺は、それを聞いた。
三つ。長い、短い、長い。
――初めて聞く形だ。
「マリ。書け」
「かいた」
彼女は、線と間を野帳に落とした。
俺は、それを覗き込んだ。
――三つ。
◇
柱は、もう一度、同じ音を出した。
同じ形で。
三度目も、同じだった。
――繰り返している。
「覚えろ、と言ってる」
俺は言った。
「おぼえろ」
「三度、同じことを言った」
俺は野帳を見た。
「これは、答えだ」
◇
俺は、その三つの音を、口の中で繰り返した。
繰り返しながら、俺は一つのことに気づいた。
――一つ目の音は、俺の句の三つ目と同じだ。
オム。
二つ目は、四つ目と同じ。
ネイア。
三つ目は――知らない音だった。
「マリ」
「うん」
「――『オム・ネイア』に、もう一つ足してる」
◇
俺は、その意味を考えた。
二つの文に共通する動詞は、オム・ネイアだ。
向こうは、それに一音足して返してきた。
――活用か。
言葉には、形が変わるものがある。
この国の言葉でもそうだ。「行く」「行った」「行こう」。
三つ目の音は、その語尾かもしれない。
◇
「マリ。日が」
「――なわの、ぶんは、まだ」
「いや、時間だ」
俺は言った。
「今日は、これで戻る。……これ以上は、混ざる」
俺は紙を集めた。
「一日に一つでいい」
俺は言った。
「五十日で、一日一言だった。……今日、初めて、答えが返った」
俺は、その紙を抱えた。
「上出来だ」
◇
上がる途中、マリが言った。
「ハルト」
「なんだ」
「――たのしそう」
俺は、足を止めた。
「そうか」
「うん」
彼女は言った。
「きょう、ずっと」
俺は、少し考えた。
「――たぶん、楽しい」
俺は言った。
「二十年、俺は測ってきた。……測るのは、相手が黙ってるものだ」
俺は階段を見上げた。
「返してくるものを測るのは、初めてだ」
◇
その夜、俺はセレンに三つの音を渡した。
彼女は、それを見て、しばらく動かなかった。
「――ハルトさん」
「なんだ」
「これは、命令形です」
俺は顔を上げた。
「三つ目の音は、語尾です。……我々の側にも、同じ語尾が残っています」
彼女は、自分の紙を引き寄せた。
「分家の詠唱に、この語尾が三か所出ます」
彼女は言った。
「意味は『~せよ』です」
◇
俺は、その言葉を飲み込んだ。
「――命令形」
「はい」
「じゃあ、俺の句は」
「動詞の、言い切りの形です」
彼女は言った。
「命令ではありません。……もっと柔らかい」
彼女は、少し考えた。
「誘っている形に近い」
◇
俺は、椅子にもたれた。
――誘っている。
俺が二十四年、意味も知らずに唱えてきた言葉。
その形は、命令ではなく、誘いだった。
サルカドを――この土地を、どうにかしようと。
誰かを誘う言葉。
「セレン」
「はい」
「――動詞の意味は」
「まだです」
彼女は言った。
「形は分かりました。意味は、まだ」
彼女は表を見た。
「ですが、これで候補が二つに減りました」
◇
「二つ」
「はい」
彼女は、指を二本立てた。
「どちらも動詞です。どちらも、誘いの形が取れます」
「――どっちだ」
「片方は」
彼女は言った。
「『行く』に近い語です」
「もう片方は」
セレンは、しばらく黙った。
それから、こう言った。
「――その反対です」
◇
「反対」
俺は言った。
「『来る』か」
「――近いですが、少し違います」
セレンは言った。
「『戻る』です」
俺は、動かなかった。
「行く、か。戻る、か」
彼女は言った。
「二つに一つです」
◇
俺は、その二つを頭の中で並べた。
――サルカドへ、行こう。
――サルカドへ、戻ろう。
どちらも、意味が通る。
どちらも、文として成立する。
「セレン」
「はい」
「――どっちだと思う」
「学者としては、答えられません」
彼女は言った。
「根拠がありませんので」
彼女は、そこで少し口を歪めた。
「ですが、記録官としては」
◇
「言え」
「――我々の側は、ずっと『行く』だと思ってきました」
彼女は言った。
「三百年、そう伝わっています」
「なぜ」
「そのほうが、都合がよかったからです」
彼女は、あっさり言った。
「行く、なら、これは目的地へ向かう言葉です。……我々は、そこへ行きたかった」
彼女は俺を見た。
「戻る、なら、そこは元いた場所ということになります」
◇
俺は、その差を飲み込んだ。
――行くなら、目的地。
――戻るなら、故郷。
同じ音で、まったく別の話になる。
「セレン」
「はい」
「――あんたは、どっちだと思う」
彼女は、しばらく黙っていた。
「私は」
彼女は言った。
「三百年、我々が間違い続けてきたことを、二月で三つ見つけました」
彼女は、紙の山を見た。
「字が足りないこと。詠唱が崩れていること。……そして、たぶん、これも」
彼女は言った。
「都合のいい読み方を選んだところは、たいてい間違っています」
◇
俺は、その言葉を長く覚えていることになる。
その時は、まだ分からなかった。
「――決めるには」
「三つ目の文が要ります」
彼女は言った。
「二つでは、二つに絞れた。三つあれば、一つに決まります」
俺は、野帳を開いた。
開いて、書いた。
〈三ツ目ノ文ヲ探ス〉
書いて、その下に足した。
〈候補:「行ク」カ「戻ル」カ〉
◇
その夜、マリが訊いた。
「ハルト」
「なんだ」
「――どっちだと、おもう」
俺は、しばらく答えなかった。
答えられなかった、が正しい。
――戻る、であってほしい。
そう思っている自分がいた。
理由は、はっきりしている。
俺には、戻る場所がないからだ。
家は焼けた。親は死んだ。国は千年前に沈んでいる。
戻る場所のない人間が、二十四年「戻ろう」と唱えていたなら――
それは、笑い話だ。
「……分からん」
俺は言った。
「わからない」
「分からん」
俺は言った。
「だが、知りたい」




