番人
五十日目、俺たちは階段を降りた。
規則は三つ。縄、灯り、歩数。全部マリが数える。
それに、四つ目を足した。
――「戻る」は、マリが言う。
野帳に書いて、二人で確かめた。
◇
二十八段の先は、まだ階段だった。
五十段。八十段。
百二十段で、踊り場に出た。
台座が二つ。何も載っていない。
俺は、そこで一度止まった。
「マリ。数は」
「かいだん、ひゃくにじゅう。なわ、まだ、ある」
「灯りは」
「ふたつ、ついてる」
俺は頷いた。
「――続ける」
「うん」
◇
二百段を過ぎたあたりで、空気が変わった。
温かい。
地の底で温かいのは、おかしい。
俺は、壁に手を当てた。
――こちらも、温かい。
人肌より、少し低い程度。
あの床と、同じだ。
◇
二百四十段で、階段が終わった。
平らな床に出る。
そして、そこは――明るかった。
薄い。青みがかっている。
灯りが要らないほどではない。だが、灯りを消しても、輪郭は見える。
俺は、灯りを一つ落とした。
油を節約するためだ。
落として、その光の中に立った。
◇
広い。
だが、あの穴ほどではない。
差し渡し、百歩ほど。天井は高い。
そして、真ん中に、柱があった。
いや――柱ではない。
太い。差し渡し二十歩はある。
床から天井まで、まっすぐ立っている。
表面は滑らかで、継ぎ目がない。
その表面全体に、模様が走っていた。
◇
同心円と、枝分かれする線。
だが、これまで見たどれとも違った。
大きさが違う。
柱の全面に、同じ模様が、大小さまざまに彫られている。
小さいものは掌ほど。大きいものは、人の背丈より大きい。
それが、隙間なく重なっている。
そして、その全部が、薄く光っていた。
――呼吸している。
ゆっくり明るくなって、ゆっくり暗くなる。
狐と、同じ速さで。
◇
「ハルト」
マリの声が、掠れていた。
「――ああ」
「これ」
「――ああ」
俺は、野帳を開いた。
開いて、手が止まった。
――何を書く。
寸法を書く。それが仕事だ。
だが、目の前のものは、寸法で書けるものではない気がした。
俺は、それでも書いた。
〈中央ニ柱状体。差シ渡シ約二十歩。全面ニ模様。発光ス〉
書いて、少し楽になった。
◇
「マリ。歩数を」
「にひゃくよんじゅうだん。それから、じゅうごほ」
「縄は」
「――あと、すこし」
俺は頷いた。
「縄が尽きたら、そこまでだ」
「うん」
俺は、柱のほうへ歩いた。
二十歩で、縄が張った。
俺は足を止めた。
柱までは、まだ三十歩ある。
◇
その時だった。
――音がした。
柱の向こうから。
低い。区切りがある。抑揚がある。
――知っている音だ。
毎朝、俺が聞いている返事の音。
俺は、動かなかった。
動けなかった。
◇
音は、続いた。
四つの区切り。長い、短い、短い、長い。
――俺の句だ。
向こうが、俺の句を唱えている。
正しい形で。
俺は、口を開いた。
開いて、閉じた。
今日の句は、朝に使っていない。
――使える。
俺は、息を吸った。
◇
「――シャル・カディ・オム・ネイア」
向こうの言い方で、唱えた。
柱の光が、強くなった。
一瞬だけ。
それから、音が返ってきた。
長い。
これまでで一番、長かった。
十を超える区切り。
俺は、それを聞き取ろうとした。
聞き取れなかった。
◇
だが、その中に、二つだけ分かるものがあった。
一つは、俺の句の四つの区切り。
もう一つは――
――サルカド。
昨日、扉に彫ってあった四文字。
その四つの音が、確かに入っていた。
「マリ」
「――きいた」
「サルカドと言った」
「いった」
彼女は言った。
「ハルトの、くにの、ことば、じゃない。……でも、サルカド」
◇
俺は、その場に膝をついた。
膝をついたのは、敬意ではない。
立っていられなかった。
――通じている。
五十日、俺は音を交換してきた。
意味の分からない音を、規則正しく。
今、向こうは、俺の知っている言葉を使った。
地名だ。この場所の名だ。
俺が二十年、毎年通ってきた場所の名を。
◇
「――俺は」
俺は、口を開いた。
この国の言葉で。
「俺は、ハルトだ」
通じるはずがない。
通じるはずがないが、言った。
「測量士だ。……この上を、二十年測ってる」
声が、震えていた。
「うちの家が、百年やってる。その前も、たぶん、誰かがやってる」
俺は、柱を見た。
「――あんたは、誰だ」
◇
返事は、なかった。
しばらく、何もなかった。
柱の光が、ゆっくり明滅していた。
やがて、音がした。
短い。
二つの区切り。
――何を言っても同じ返事が返る、あの音だ。
俺は、その音を聞いた。
「――分からない、か」
俺は言った。
「そうだろうな」
俺は、少し笑った。
笑って、それから、少しだけ悔しかった。
◇
その時、光が変わった。
柱の模様のうち、一つだけが強く光った。
人の背丈より大きい、一番大きな模様だ。
俺は、そちらを見た。
光は、点滅した。
三度。
それから、消えた。
しばらくして、また三度。
◇
「ハルト」
「――数えてる」
俺は言った。
「三度。間を空けて、また三度」
「なに、それ」
「――合図だ」
俺は野帳を開いた。
「意味は分からん。だが、これは繰り返してる」
俺は書いた。
〈三度点滅。間ヲ置キ、再ビ三度〉
書きながら、俺は一つのことを考えていた。
――三は、何だ。
三日か。三度か。三人か。
◇
「マリ」
「うん」
「――縄が尽きてる」
「うん」
「規則だ。ここまでだ」
俺は立ち上がった。
立ち上がってから、動けなかった。
目の前に、答えがある。
あと三十歩で、触れる。
「ハルト」
マリの声がした。
いつもより、はっきりしていた。
「――もどる」
◇
俺は、しばらく動かなかった。
動かずに、柱を見ていた。
――あと三十歩。
縄を解けば、行ける。
解いて、三十歩歩いて、触れて、戻ってくればいい。
それだけのことだ。
「ハルト」
もう一度、声がした。
俺は、目を閉じた。
閉じて、開けた。
「――戻る」
俺は言った。
言って、背を向けた。
背を向けるのに、思ったより力が要った。
◇
階段を上がりながら、俺は野帳に書いた。
〈縄尽キ、退去。柱ニ触レズ〉
書いて、その下に一行足した。
〈マリガ「戻ル」ト言ッタ。従ッタ〉
書きながら、俺は自分の手が震えているのに気づいた。
――守れた。
昨日、書いた約束を、今日、守れた。
それだけのことに、これほど力が要るとは思っていなかった。
◇
二百四十段を上がりきったところで、マリが言った。
「ハルト」
「なんだ」
「――ありがとう」
俺は、振り返った。
「何がだ」
「もどってくれた」
彼女は言った。
「わたし、いって、ハルトが、いかない、かもしれない、っておもった」
俺は、その言葉を飲み込んだ。
「……次も、言え」
俺は言った。
「言われたら、戻る」
「ハルト」
「なんだ」
「――こんどは、もうすこし、さきまで、いける、かも」
彼女は言った。
「なわ、ながいの、かえば、いい」
俺は、思わず笑った。
この娘は、止めた次の呼吸で、次の準備を考えている。
◇
その夜、俺は円の広間で野帳を開いた。
書き足すことが多すぎて、どこから書くか迷った。
迷った末に、まず数字を書いた。
〈階段二百四十段。踊リ場一。蹴上ゲ六寸、踏面一尺一寸、幅十二尺〉
〈下ノ間、差シ渡シ約百歩。中央ニ柱状体、差シ渡シ約二十歩〉
〈壁・床、温シ。人肌ヨリ低シ〉
〈自然光ニアラズ。柱ノ発光ニヨル〉
ここまでは、寸法だ。
書ける。
◇
その先が、書けなかった。
――向こうは、俺の句を正しく言った。
――「サルカド」と言った。
この二つを、どう書く。
寸法ではない。
だが、書かないわけにいかない。
俺は、少し考えて、こう書いた。
〈柱ノ向コウヨリ応答。当方ノ句ヲ正シキ形デ復唱。及ビ「サルカド」ノ音ヲ含ム〉
書いて、その下に足した。
〈意味、不明。但シ、当方ノ言葉ヲ知ル者ガ居ル〉
◇
書き終えて、俺は筆を置いた。
「マリ」
「うん」
「――番人だな」
「ばんにん」
「門番の、向こう側だ」
俺は言った。
「うちの家が門番なら、あっちにも門番がいる。……当たり前の話だ」
俺は野帳を見た。
「門は、両側から守るものだ」
◇
マリは、しばらく考えていた。
「じゃあ」
「なんだ」
「――ハルトと、おなじ、しごと?」
俺は、手を止めた。
――同じ仕事。
毎日、決まった場所に立って、決まったことをする。
意味は分からないまま。
誰も来ないまま。
千年。
「……そうかもしれん」
俺は言った。
「なら」
マリは言った。
「あのひとも、ずっと、ひとり?」
俺は、答えられなかった。
答えられずに、灯りを見た。
◇
その夜、俺は荷の底の図面を出した。
人型標の回廊を落とす計算が入った、あの紙だ。
出して、しばらく見た。
――潰せば、あれも埋まる。
千年、あそこに立っていたものが。
俺は、その紙を持ったまま、動かなかった。
破らなかった。
だが、初めて、破ろうかと思った。




