話の通じないもの
三十四日目、初めて出た。
縁の手前、七十歩あたりだった。
俺が線の角度を測っていて、マリが灯りを構えていた。
その灯りが、揺れた。
「ハルト」
声が、いつもと違った。
俺は顔を上げた。
◇
灯りの端に、何かがいた。
三歩先。
俺の腰の高さ。
――形が、悪い。
獣の形ではない。
脚が、六本ある。細くて長い。胴は薄い板のようで、頭に当たる部分がない。
だが、動きは獣だった。
脚の運びに、無駄がない。
◇
俺は、杆を寝かせた。
いつもの構えに。
――幅は。
線が二本、四尺五寸。
だが壁がない。
壁がないということは、横から回られるということだ。
「マリ。真後ろ」
「うん」
彼女が、俺の背中に入った。
これで、少なくとも一方は塞げる。
俺は、そいつを見た。
そいつも、たぶん、俺を見ていた。
目に当たるものはない。だが、正面が定まっている。
◇
動いたのは、向こうが先だった。
速い。
岩鼬より速い。
俺は下がらなかった。下がる場所がない。
杆の石突きを、通り道に置いた。
――当たった。
脚の一本が引っかかって、そいつの体が跳ねた。
跳ねた先に、杆を立てて回し、握りの側で胴を打った。
硬い音がした。
石を打った音だ。
――肉じゃない。
そいつは、横倒しになった。
だが、すぐに脚を動かして起き上がった。
◇
俺は、二歩下がった。
――効いていない。
骨がない。関節がない。獣の打ち方が、通じない。
二十年、俺が身につけたのは獣を止める打ち方だ。
顎を打つ。膝を抜く。首の付け根を打つ。
どれも、そいつには当たる場所がない。
「マリ。縄まで下がれ」
「ハルトは」
「後から行く」
「――ハルト」
「行け」
彼女は、下がった。
俺は、そいつと向き合った。
◇
そいつは、また来た。
同じ速さで、同じ角度で。
――同じだ。
一度目とまったく同じ動きだった。
俺は、石突きを同じ場所に置いた。
同じように引っかかって、同じように跳ねた。
俺は、今度は打たなかった。
跳ねた体を、杆で横へ弾いた。
線の外へ。
そいつは、線の外へ落ちて――止まった。
◇
動かない。
脚は動いている。だが、進まない。
その場で、脚を運び続けている。
俺は、しばらくそれを見ていた。
――線の外に出ると、止まる。
俺は、灯りを下げた。
線を見る。
そいつは、線の外側で、線に沿って脚を動かしている。
戻ろうとしている。だが、戻れない。
――道が分からなくなっている。
◇
俺は、後ろへ下がった。
下がりながら、野帳を開いた。
書いたのは、三行だ。
〈脚六。胴薄シ。頭無シ〉
〈同ジ動キヲ二度。学バズ〉
〈線ノ外ニ出ルト止マル〉
三行目に、俺は線を引いた。
――重要だ。
こいつは、線の内側しか動けない。
線は、通路の幅を示すものだと思っていた。
違う。
線は、こいつらの道だ。
◇
開口部まで戻って、俺はマリに説明した。
「獣じゃない」
「きかい?」
「たぶんな。……だが、それも違う気がする」
俺は言った。
「機械は、同じことを二度やる。あいつも二度やった。そこは機械だ」
俺は野帳を見せた。
「だが、機械なら、線の外に出た時に止まるはずだ」
「とまった」
「止まらなかった」
俺は言った。
「脚を動かし続けてた。……戻ろうとしてた」
◇
マリは、しばらく考えていた。
「こまってた?」
「――そう見えた」
俺は言った。
「機械は、困らん」
「うん」
「あれは、困ってた」
俺は、そこで言葉を止めた。
止めて、それから続けた。
「――俺には、そう見えた」
「みえた、だけ?」
「見えただけだ」
俺は野帳を閉じた。
「測れてない。……見えただけのものを、書くわけにいかん」
◇
だが、その夜、俺は結局それを書いた。
〈困ッテイルヨウニ見エタ。根拠無シ〉
書いてから、しばらくその行を見た。
――二十年、俺はこういう行を書かなかった。
根拠のないことは書かない。
書き始めたのは、この五月だ。
〈理由不明〉と初めて書いたのは、カラン村の地下だった。
あれから、こういう行が増えている。
◇
「ハルト」
マリが、灯りの向こうから言った。
「なんだ」
「あれ、また、くる?」
「来る」
俺は即答した。
「同じ動きしかしないなら、また来る。……同じように止められる」
「じゃあ、だいじょうぶ」
「――一体ならな」
俺は言った。
「あの穴の底が光ってた。……あそこから来てるなら、一体じゃない」
俺は灯りを見た。
「二体来たら、どうする」
「――どうする?」
「線の外へ弾く」
俺は言った。
「二体とも」
◇
三十六日目、二体来た。
俺は、線の外へ弾いた。
二体とも。
三十九日目、三体来た。
三体目を弾くのに、少し手間取った。
弾いた後、俺は片膝をついていた。
息が上がっていた。
「ハルト」
「――大丈夫だ」
「うそ」
「本当だ」
「うで、ふるえてる」
彼女は言った。
俺は、自分の腕を見た。
震えていた。
◇
その晩、俺は数字を出した。
三十四日目、一体。
三十六日目、二体。
三十九日目、三体。
――増えている。
俺は、日付の間隔も見た。
二日、三日。
――減っている。
間隔が縮んで、数が増えている。
「マリ」
「うん」
「――こっちが来るのに、向こうが慣れてきてる」
俺は言った。
「四十二日目に、四体来る。……その次は、五体だ」
「いつまで」
「増え続ける」
俺は野帳を閉じた。
「俺の腕は、増えない」
◇
俺は、その夜、初めてそれを口に出した。
「マリ」
「うん」
「――もう入らない、という手がある」
彼女は、灯りを持つ手を止めた。
「入らなければ、あいつらは来ない。……たぶんな」
「うん」
「入らなければ、辞書も止まる」
俺は言った。
「毎朝の一言だけにする。それなら安全だ」
マリは、しばらく黙っていた。
それから、こう訊いた。
「ハルト、それ、したい?」
――訊き方が、上手くなった。
したほうがいいか、ではない。
したいか、だ。
「……いや」
俺は言った。
「したくない」
「なんで」
俺は、答えを探した。
探して、正直なところを出した。
「――底を、見たい」
◇
言ってから、俺は自分の声を聞いた。
平らではなかった。
久しぶりに、平らではなかった。
「あの穴の底に、何があるのか、見たい」
俺は言った。
「潰すためじゃない。……見たいだけだ」
俺は、掌を見た。
「二十年、俺は測れるものだけ測ってきた。測れないものは、書かなかった」
俺は顔を上げた。
「あれは、測れない」
俺は言った。
「測れないから、見たい」
◇
マリは、しばらく俺を見ていた。
それから、少し笑った。
「その、かお」
「――なんだ」
「ひさしぶり」
彼女は言った。
「ずっと、こわい、かおだった」
彼女は、自分の眉のあたりを指した。
「いまの、ちがう」
俺は、自分の顔に手を当てた。
当てても、分からなかった。
だが、彼女が言うなら、そうなのだろう。
――見たい。
その言葉が出たのは、五月ぶりだった気がする。
◇
四十二日目、四体来た。
俺は、三体まで弾いた。
四体目が、俺の左を抜けた。
マリのほうへ。
――間に合わない。
そう思った瞬間、彼女の足元で、光が弾けた。
◇
青い光だった。
狐だ。
彼女の荷の口から転がり出て、背中の模様を全部光らせていた。
同時に、高い音が鳴った。
細くて、長い音。
四体目が、止まった。
脚を止めて、その場で固まった。
◇
俺は、その隙に杆を入れた。
線の外へ弾く。
四体目は、線の外で脚を動かし始めた。
俺は、息を整えた。
――四つ数えるほど、ではなかった。
十数える間、かかった。
振り返ると、マリが狐を抱えていた。
狐は、まだ光っていた。
◇
「マリ」
「――ハルト」
「怪我は」
「ない」
彼女は首を振った。
それから、狐を見た。
「これ、なった」
「聞いた」
「なんで」
「――分からん」
俺は近づいて、狐を覗き込んだ。
光が、ゆっくり弱くなっていく。
やがて、消えた。
俺は、その狐を持ち上げた。
「マリ」
「うん」
「――こいつ、お前を守った」
「まもった?」
「そう見えた」
俺は言った。
「あいつは、俺には反応しなかった。お前に近づいた時だけ、鳴いた」
◇
俺は、その夜、それを野帳に書いた。
〈狐、鳴ク。防衛機構、停止ス。約三ツ数エル間〉
〈鳴イタノハ、マリニ近ヅイタ時ノミ〉
書いて、しばらく考えた。
――なぜ、マリだけだ。
俺は王家の血を持っている。句も持っている。
狐が誰かを守るなら、俺のはずだ。
だが、狐が鳴いたのは、この娘の時だった。
「マリ」
「うん」
「――お前は、こいつに何かしたか」
「してない」
彼女は言った。
「ずっと、かばんに、いれてただけ」
俺は頷いた。
頷いて、それ以上は分からなかった。
◇
分からないまま、俺は一行足した。
〈理由不明。マリ、特別ナ何カ有ルカ〉
書いて、その行を消そうとして、やめた。
――消さない。
根拠のないことでも、書く。
書いておけば、いつか誰かが読む。
誰かが答えを持っているかもしれない。
百年ぶんの図面は、そうやって積まれてきた。
俺は野帳を閉じた。




