測れない場所
三十日目、俺は入ることに決めた。
理由は三つある。
一つ。辞書が四十言を超えて、それ以上増えなくなった。同じ返事が回り始めた。
二つ。狐が、あれから四度光った。三日おき、四日おき、二日おき。規則が読めない。
三つ――正直に言えば、待っているのに飽きた。
三つ目が一番大きい。
そのことを、俺は自分で認めていた。
◇
「入る」
そう言うと、マリは頷いた。
「うん」
「――止めないのか」
「とめる、いみ、ない」
彼女は荷を寄せた。
「ハルト、もう、きめてる」
俺は口を閉じた。
この娘は、俺が決めた後にしか喋らない。
決める前に言っても無駄だと、四月半で学んだのだろう。
――そう学ばせたのは、俺だ。
◇
入る前に、俺は準備をした。
これだけは、二十年の仕事の通りにやった。
まず、縄。
開口部の枠に一本結んで、そこから伸ばす。二十尋。これが命綱だ。
次に、灯り。
二つ持つ。片方が消えても、火を移せる。
油は、十分に。
次に、目印。
布を細く裂いて、十歩ごとに落とす。白い布だ。灯りを当てれば見える。
最後に、退路の規則。
――縄が張れなくなったら戻る。
――灯りが一つ消えたら戻る。
――百歩進んで何も出なかったら戻る。
三つ決めて、マリに言った。
「三つとも、お前が数えろ」
「わたしが」
「俺は測るのに集中する。……数えるほうを、お前がやれ」
彼女は頷いた。
「ハルトが、いや、っていっても」
「言っても、戻す」
俺は言った。
「それが仕事だ」
◇
開口部をくぐった。
三歩で、灯りが届かなくなる。
――やはりだ。
俺は灯りを持ち上げた。上へ向けた。
何も見えない。
下へ向けた。床が見える。
平らだ。継ぎ目がない。
俺は屈んで、床に手を当てた。
――冷たくない。
これが、最初の違和感だった。
地の底の石は、必ず冷たい。四層下なら、掌が痛くなるくらい冷える。
この床は、冷たくない。
人の肌より少し低い程度だ。
◇
俺は、そのことをまず野帳に書いた。
〈床、冷タカラズ〉
書いて、歩き出した。
歩数を数える。
十歩で、布を落とす。
二十歩。三十歩。
灯りの届く範囲は、三歩四方だけだ。
その外は、何もない。壁がない。天井がない。柱もない。
――広い。
どれだけ広いかは、分からない。
分からないまま、俺は歩いている。
二十年、俺が一番やらないことだ。
◇
「四十歩」
後ろで、マリが言った。
「聞いてる」
「なわ、まだ、ある」
「ああ」
俺は足を止めて、灯りを下げた。
床に、筋がある。
――線だ。
俺は膝をついた。
細い線が、床に彫ってある。深さは、爪の先も入らない。
まっすぐだ。
俺は、その線に杆を当てた。
線の方向と、俺の進行方向を比べる。
――ずれている。
俺の進行方向から、少し右へ。
角度を測った。
十二度。
◇
俺は、その線に沿って歩くことにした。
線は、案内だ。
どこの建物でも、床の線は人を導くために引かれている。市場の石畳にも、王都の館にもある。
線に沿って、二十歩。
三十歩。
線が、二本になった。
俺は足を止めた。
「マリ。灯りを低く」
彼女が屈んだ。
二本の線が、少し離れて並んでいる。
その間隔を測った。
――四尺五寸。
俺は、しばらく動かなかった。
「ハルト」
「……通路だ」
俺は言った。
「壁のない通路だ」
◇
線は、通路の幅を示していた。
壁がない。天井もない。
だが、通路の幅だけが、床に引いてある。
――なぜ壁がない。
いや、逆だ。
壁がなくても人が迷わないように、線が引いてある。
つまり、ここは元から壁のない場所だ。
広くて、天井が高くて、その中に線だけで道が引かれている。
――倉庫か。
あるいは、広場か。
俺は野帳に書いた。
〈壁無シ。床ニ線。通路幅四尺五寸ヲ示ス〉
書いて、その下に一行足した。
〈規格、同ジ〉
◇
五十歩を過ぎたところで、線が分岐した。
左右に開く。
角度は、それぞれ三十度ほど。
俺は、その分岐点に立った。
「マリ。どっちだと思う」
「――え」
「訊いてる」
彼女は、しばらく灯りを動かした。
左を照らして、右を照らす。
それから、言った。
「みぎ」
「なぜ」
「ゆかの、いろ」
俺は屈んだ。
――言われてみれば。
右の線の間だけ、床がわずかに白い。
埃が薄い。
人が――何かが、そちらをよく通っている。
◇
「よく見つけたな」
「ハルトが、おしえた」
彼女はあっさり言った。
「みちの、つかいかたは、ゆかに、でる、って」
――言った覚えがある。
二月前だ。カラン村の遺跡で、冒険者の踏み跡を見た時に。
あの時は、通り一遍の説明だった。
この娘は、それを覚えていて、今使った。
「――右へ行く」
俺は言った。
行きながら、少し考えていた。
――教えることが、増えた。
二十年、俺は誰にも何も教えなかった。
見習いを取らなかった。ギルドに頼まれても断った。
理由は、目立つからだ。
弟子を取れば、家のことを訊かれる。
――それだけの理由で、二十年。
◇
「七十歩」
マリが言った。
「ああ」
「あと、さんじゅっぽ」
俺は頷いた。
百歩で戻る。決めたのは俺だ。
――だが。
右の線の先が、少し明るい気がした。
気のせいかもしれない。灯りの反射かもしれない。
俺は足を速めた。
「ハルト」
「――分かってる」
「はやい」
「分かってる」
八十歩。
九十歩。
明るい。
気のせいではない。
前方に、灯りではない光がある。
薄い。青みがかっている。
◇
「九十七」
マリの声が、少し硬くなった。
「――見えるか」
「みえる」
「あれだ」
「ハルト」
「あと三歩だ」
九十八。
九十九。
百。
俺は、足を止めた。
止めたのは、規則だからではない。
止まってしまったからだ。
――目の前に、床がなかった。
◇
正確には、床が落ちていた。
俺の爪先の三寸先で、線が途切れている。
その先は、縁だ。
俺は、灯りを下ろした。
縁から下を照らす。
――届かない。
三歩ぶんの光では、底が見えない。
俺は下がった。二歩下がって、腰を落とした。
それから、石を一つ落とした。
◇
数えた。
一。二。三。四。五。六。
――音がした。
六つ数えて、下から硬い音が返ってきた。
俺は野帳を開いた。
落下は、数えた数で深さが出る。教本に表がある。六つなら――
「……百八十尺」
俺は言った。
「ひゃくはちじゅう」
「サルカドの地上から、この広間まで、全部で九十尺だ」
俺は言った。
「その倍だ」
◇
俺は、縁に沿って灯りを動かした。
縁は、まっすぐではない。
緩く曲がっている。
――円だ。
俺は、縁に沿って歩いてみた。
二十歩、三十歩。
曲がり方が、一定だ。
俺は野帳に角度を落とした。落として、計算した。
三十歩で、角度が四度。
――全周なら、二千七百歩。
俺は、その数字を三度計算し直した。
三度とも、同じだった。
「マリ」
「うん」
「――この穴は、差し渡し八百五十歩ある」
◇
彼女は、しばらく何も言わなかった。
「メルシアは」
「町全部で、東西六百歩だ」
俺は言った。
「この穴に、町が丸ごと入る」
俺は、縁の向こうを見た。
光は、その底から来ている。
薄い青。ゆっくり明るくなって、ゆっくり暗くなる。
――狐と、同じ光り方だ。
◇
「ハルト」
「なんだ」
「ひゃっぽ、すぎた」
「――ああ」
「もどる、やくそく」
俺は、動かなかった。
動けなかった、が正しい。
目の前に、町が入る穴がある。
その底が光っている。
二十年、俺はこの遺跡を測ってきた。
その足の下に、これがあった。
「ハルト」
マリの声が、少し強くなった。
「……ああ」
俺は立ち上がった。
「戻る」
◇
戻りながら、俺は白い布を拾った。
十歩ごとに落としたやつだ。
全部で十枚。数が合う。
合うことを確かめながら、俺は頭の中で別の計算をしていた。
――潰せない。
この規模は、潰せない。
人型標の回廊を落とせば、道は塞がる。それは変わらない。
だが、それは道を塞ぐだけだ。
この穴そのものには、傷一つつかない。
俺が三日かけて出した答えは、玄関の戸を釘で打つ程度のことでしかなかった。
◇
開口部をくぐって、狭い部屋に戻った。
縄を巻き取りながら、俺は手が止まった。
「ハルト」
「――計算違いだ」
俺は言った。
「なにが」
「潰す計算だ」
俺は縄を置いた。
「規模が違いすぎる。……俺が出した答えは、間違ってた」
マリは、しばらく黙っていた。
それから、こう訊いた。
「じゃあ、つぶさない?」
俺は、答えなかった。
――そこが、答えられなかった。
潰せないと分かった。
それで諦めるなら、話は終わる。
だが、俺の頭は、もう次を考えていた。
――どうすれば潰せるか。
規模が違うなら、やり方を変えればいい。
道を塞ぐのでは足りないなら、底に届く方法を探せばいい。
二十年、俺はそうやって仕事をしてきた。
できない、で終わらせたことがない。
◇
「マリ」
「うん」
「――正直に言う」
俺は言った。
「言って」
「潰せないと分かった時、俺は、がっかりした」
俺は、自分の掌を見た。
「安心じゃなくて、がっかりした」
マリは、何も言わなかった。
「……それが、まずい」
俺は言った。
「自分でも、分かってる」
彼女は、しばらく俺を見ていた。
見て、それから、こう言った。
「いえて、よかった」
「――何が」
「いま、いえた」
彼女は言った。
「だまってたら、もっと、まずい」
俺は、縄を巻き取り直した。
巻き取りながら、その通りだと思った。
思いながら、荷の底の図面を、まだ捨てていないことも、同時に思った。




