一日一言
俺たちは、サルカドに住むことにした。
正確には、円の広間に荷を降ろして、そこを拠点にした。
家が焼けたので、戻る場所がない。ギルドの上の部屋はあるが、往復に半日かかる。
――ここで寝たほうが、早い。
そう言った時、マリは何も言わなかった。
何も言わずに、自分の毛布を広げた。
◇
二日目の朝、俺は狭い部屋へ降りた。
開口部は、開いたままだった。
置いた石も、動いていない。
俺は、その前に立って、野帳を開いた。
今日の欄は、空白だ。
――一度だけ。
俺は息を吸って、唱えた。
――シャルカディ・オム・ネイア。
◇
返事は、すぐに来た。
四つの区切り。
最初が長く、次が短く、三つ目が短く、最後が長い。
だが、少し違った。
昨日より、ゆっくりだった。
――繰り返してくれている。
そう感じた。
俺は、その音を頭の中で三度なぞった。
なぞって、野帳に書いた。
書いたのは、文字ではない。
線の長さと、間の空きだ。長い線、短い線、短い線、長い線。その間に、どれだけ空くか。
――測量と同じだ。
意味は分からなくていい。まず、寸法を取る。
◇
三日目。
俺は、昨日聞いた通りに唱えてみた。
自分の癖ではなく、向こうの言い方で。
――シャル・カディ・オム・ネイア。
区切りを、少し変えた。
返事があった。
今度は、短かった。
二つの区切り。
俺は、それを書いた。
◇
「ハルト」
その晩、マリが訊いた。
「いま、なにしてるの」
「――辞書を作ってる」
「じしょ」
「そうだ」
俺は野帳を見せた。
線と、空きと、日付が並んでいる。
「毎日、一言。向こうが返す。……それを全部書く」
「どのくらい、かかる」
「分からん」
俺は正直に言った。
「だが、二百日あれば二百言だ」
俺は野帳を閉じた。
「二百言あれば、規則が見える」
◇
マリは、しばらく黙っていた。
それから、こう訊いた。
「ハルト」
「なんだ」
「――つぶすのに、じしょ、いる?」
俺は、手を止めた。
止めて、答えなかった。
答えられなかった。
――要らない。
潰すだけなら、辞書は要らない。
どこを叩けば崩れるかは、もう出ている。図面に線を引いてある。
なのに、俺は毎朝ここへ降りて、一言唱えて、返事を書き取っている。
「……分からん」
俺は言った。
「分からんが、やってる」
マリは、頷いた。
それ以上、訊かなかった。
◇
十日目、俺は気づいた。
同じ返事が、三度来た。
一日目、四日目、九日目。
どれも、二つの区切り。短い、短い。
俺は、その三日に自分が何を言ったかを見返した。
――違う。
一日目は、いつもの句。四日目は、向こうの言い方を真似た句。九日目は、区切りを一つ抜いた句。
三つとも違うことを言って、返事は同じ。
「マリ」
「うん」
「同じ返事が三度来た」
「なんて」
「分からん。だが、三度とも同じだ」
俺は野帳を見せた。
「――何を言っても、同じ返事が返る言葉ってのは、何だと思う」
マリは、少し考えた。
「……『はい』?」
「そうかもしれん」
俺は言った。
「あるいは、『分からない』だ」
◇
その考えは、俺を少し暗くさせた。
――向こうも、分かっていないのかもしれない。
俺が意味の分からない音を唱えて、向こうが「分からない」と返している。
それを二十日続けている。
二人とも分からないまま、規則正しく音を交換している。
「マリ」
「うん」
「――間抜けな話だ」
「なんで」
「向こうも分かってないかもしれん」
俺は言った。
「なら、これは会話じゃない。ただの、音の往復だ」
マリは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「わたしと、おなじ」
俺は顔を上げた。
「さいしょ、ハルト、なにか、いった。わたし、まねした」
彼女は言った。
「いみ、しらない。おとだけ」
彼女は、自分の口を指した。
「でも、いまは、はなしてる」
◇
俺は、その言葉を、しばらく飲み込んでいた。
――そうだ。
四月半前、俺とこの娘は、まったく同じことをしていた。
意味の分からない音を交換して、絵を描いて、指を差して。
あれを会話ではないと言うなら、俺たちは今もまだ、他人だ。
「マリ」
「うん」
「――続ける」
「うん」
「二百日でも、三百日でも」
俺は野帳を開いた。
開いて、その日の欄に線を引いた。
――十日目。句、一度。
◇
だが、その夜、俺は別の紙も開いた。
サルカドの図面だ。
人型標の回廊。その真上の、旧市街の廃邸三軒。
どこを抜けば、どこまで落ちるか。
俺は、その計算を三度やった。
三度とも、同じ答えが出た。
――消していない。
毎日、辞書を作りながら、俺はこの紙も持ち歩いている。
捨てていない。
破ってもいない。
俺は、しばらくその紙を見ていた。
見て、また畳んで、荷の底に入れた。
――まだ、決めていない。
そう自分に言った。
言うたびに、その言葉が薄くなっていくのが分かった。
◇
十四日目、コトリが動いた。
布に包んで、荷の一番上に入れてある。
あれ以来、一度も光っていない。
その夜、包みの中で、かたり、と音がした。
俺は起き上がった。
布を開ける。
狐は、そのままの姿勢で転がっていた。
だが――背中の模様の、一番内側が。
薄く、光っていた。
◇
消えなかった。
いつもは一秒か二秒で消える。
今度は、消えなかった。
ゆっくり明るくなって、ゆっくり暗くなって、また明るくなる。
息をしているようだった。
「ハルト」
マリが、隣で起き上がっていた。
「――見てる」
俺は言った。
俺たちは、しばらくそれを見ていた。
狐は、二十数える間、光り続けた。
それから、ふっと消えた。
二度と光らなかった。
◇
俺は、野帳にそれを書いた。
〈十四日目ノ夜、狐、光ル。約二十数エル間〉
書いて、しばらく考えた。
――なぜ今日だ。
昨日でも、明日でもなく。
今日、この場所で。
俺は、荷の中を見た。
狐。水。食料。図面。野帳。
――何も変わっていない。
変わったのは、場所でも物でもない。
変わったのは、深さだ。
俺たちは今、円の広間にいる。
地上から、四層下。
「マリ」
「うん」
「――こいつは、近づくと光るんじゃない」
俺は狐を持ち上げた。
「近くに、何かが来ると光るんだ」
◇
マリが、狐を覗き込んだ。
「なにが、くる」
「――分からん」
「でも、きた」
「来たか、通ったかだ」
俺は狐を布に戻した。
「こいつは、たぶん、見張り番の一部だ」
俺は言った。
「壊れて、棄てられて、拾われて、直された。……本来の仕事は、何かを知らせることだったんだろう」
「だれに」
「――それだ」
俺は手を止めた。
知らせる相手が、いる。
千年、この狐は誰かに知らせるために作られて、誰にも知らせないまま転がっていた。
俺が直したせいで、また知らせ始めた。
「マリ」
「うん」
「――俺は、たぶん、余計なことをした」
彼女は、しばらく黙っていた。
「なおしたこと?」
「そうだ」
「わたしは」
彼女は言った。
「なおして、よかった、とおもう」
「なぜ」
「だって」
彼女は狐を見た。
「こわれたまま、ずっと、ここに、あった」
彼女は言った。
「だれも、しらない、まま」
◇
俺は、その夜も眠れなかった。
考えていたのは、狐のことではない。
――知らせる相手が、いる。
その相手が、あの暗がりの向こうにいるなら。
あれは、俺が毎朝一言だけ交わしている相手だ。
だとしたら。
――俺が来たことは、とっくに知られている。
二十日、俺は毎朝挨拶をしている。
挨拶をしながら、荷の底に、この場所を潰す図面を入れている。
俺は、暗がりのほうを見た。
見えるはずがない。ここは広間で、あれは二層下だ。
それでも、見た。
◇
二十一日目、俺は規則を破りかけた。
朝、一度唱えて、返事を書いた。
書いて、荷を担いで上がろうとして――足が止まった。
もう一度、唱えたくなった。
理由は、はっきりしている。
昨日の返事が、いつもと違ったからだ。
三つの区切り。長い、長い、短い。
初めて聞く形だった。
――もう一度、同じことを言えば、もう一度返るかもしれない。
俺は、口を開いた。
開いて、閉じた。
――日に一度。
三百年前の門番が書いた規則だ。
守る理由は、俺には分からない。回数に限りがあると書いてあっただけだ。
分からない規則を、分からないまま守る。
――俺の家は、それを千年やってきた。
俺は梯子に手をかけた。
かけて、しばらく動かなかった。
「ハルト」
上から、マリの声がした。
「――上がる」
俺は言った。
言って、上がった。
上がりながら、指が震えているのに気づいた。
欲しかった。
もう一言が、欲しかった。




