扉の向こうの返事
六日、俺は動かなかった。
仕事もしなかった。ギルドの上の部屋で、紙を並べていた。
並べていたのは、サルカドの図面だ。
百年ぶんの写しと、俺が十日で描いた新しい分。
全部を貼り合わせると、卓に乗らなかった。
床に広げた。
◇
俺が測っていたのは、崩落の可能性だった。
どこが弱いか。
どこを叩けば、どこまで落ちるか。
二十年、俺はこれの逆をやってきた。
どこが危ないかを測って、人を通さないようにする。それが仕事だった。
同じ知識で、逆をやる。
――やり方は、変わらない。
弱い場所を探す。ただ、目的が逆になっただけだ。
簡単だった。
簡単なのが、一番よくなかった。
◇
三日目に、答えが出た。
人型標の回廊。
あそこは、上に土がない。
四月半前、俺は方位と深さを控えている。
あの回廊の真上は、丘の斜面ではない。野原だ。
そして――旧市街の廃邸が、その真上に三軒ある。
どれも、階段が三段の浅いやつだ。
あの床を抜けば、上から土と石が落ちる。
回廊は埋まる。
その先の広間も、たぶん埋まる。
――下の門までは、届かない。
だが、道は塞がる。
道が塞がれば、百年は誰も行けない。
俺は、その計算を三度やった。
三度とも、同じ答えが出た。
◇
四日目、俺はマリに紙を見せた。
黙って、置いた。
彼女は、しばらくそれを見ていた。
図面は読める。この娘は最初から読めた。
だから、説明は要らなかった。
「――ここ、おとす」
「そうだ」
「そしたら」
「回廊が埋まる。……たぶん、二百年は掘れない」
「にひゃくねん」
彼女は、その数字を繰り返した。
「わたし、いない」
「いない」
「ハルトも、いない」
「いない」
俺は言った。
「誰もいなくなってから、誰かが掘るかもしれん。……その時は、その時だ」
◇
マリは、紙を置いた。
置いて、こう訊いた。
「はちねんは」
「――八年後に、お前を帰す」
俺は言った。
「帰してから、落とす」
「はちねん、まもれる?」
「――何をだ」
「はちねん、ハルト、いきてる?」
俺は、答えなかった。
答えられなかった。
八年だ。
その間に、連中は来る。何度でも来る。
家はもう焼かれた。次は、たぶん、もっと直接来る。
「……分からん」
俺は言った。
「わからない」
彼女は繰り返した。
「じゃあ、なんで、はちねん、まつ、って、いえるの」
◇
俺は、そこで初めて、自分の計算の穴に気づいた。
――八年守る、という計算をしていない。
俺は、潰す計算だけをした。三日かけて、三度やった。
その前提にある「八年間、二人とも生きている」を、一度も計算していない。
測量士として、これは恥だ。
「マリ」
「うん」
「――俺は、都合のいい前提を置いてた」
「うん」
「気づいてたのか」
「きのう、きづいた」
彼女は言った。
「いわなかった。……ハルト、いま、きくきぶんじゃ、ないとおもった」
俺は、その言い方に、少し笑った。
「――言え、と言っただろう」
「いった」
「なぜ言わなかった」
彼女は、しばらく黙った。
それから、正直に言った。
「こわかった」
◇
「――俺がか」
「うん」
彼女はあっさり頷いた。
「いまの、ハルト」
彼女は、卓の紙を指した。
「これ、みてるとき、かおが、ちがう」
俺は、自分の顔に手を当てた。
当てても、分からない。
「どう違う」
「しずか」
彼女は言った。
「ハルト、いつも、しずか。……でも、これは、ちがう、しずか」
彼女は、言葉を探した。
「あの、ろじの、ときと、おなじ」
――路地。
両親を「事故」と呼ばれた、あの夜だ。
あの時、俺は殺す気になった。
この娘は、それを見ている。
◇
五日目、六日目は、何も言わずに過ぎた。
俺は図面を見ていた。
マリは、自分の帳面を書いていた。
二人とも、同じ部屋にいて、口をきかなかった。
――四月半前と、同じだ。
あの時も、四日、口をきかなかった。
仕事はした。縄は張られたし、灯りの位置もずれなかった。
今回は、仕事がない。
仕事がないぶん、沈黙が長かった。
◇
七日目の朝、俺は荷を作り始めた。
マリが、顔を上げた。
「どこ、いく」
「サルカドだ」
「なにを」
「――確かめる」
俺は言った。
「三日で出した答えが正しいか、現場で確かめる。……図面だけで決めるのは、素人だ」
マリは、しばらく俺を見ていた。
「わたしも、いく」
「――来なくていい」
「いく」
彼女は立ち上がった。
「ハルト、ひとりで、いったら」
彼女は言った。
「ひとりで、きめる」
◇
サルカドまでは、いつも通り半日だった。
石段の前で、レイヴが待っていた。
この男は、まだいる。
「またですか」
「また来た」
「――中へは」
「入る」
レイヴは、少し目を細めた。
「ハルトさん」
「なんだ」
「顔色が悪い」
「家が焼けたんだ」
「そうではなく」
彼は言った。
「――何かを決めた顔です」
俺は、答えなかった。
◇
石段の一段目に、足を置いた。
窪んでいるところに。
百年ぶんの誰かが、ここで足を止めた場所に。
――今日は、使うか。
使わずに、回廊までは行ける。道は知っている。
だが、その先を見るなら、要る。
俺は、野帳を開いた。
今日の欄は、空白だ。
――日に一度。
三百年前の門番が、そう書いた。
その門番は、何のためにその規則を作った。
残りを減らさないためだ。
――残りを、何のために取っておいた。
俺は、そこで手が止まった。
◇
門番は、開けるなと書いた。
上からの求めにも応じるな、と。
下からの音があれば、書き留めて、答えるな、と。
そして、句は日に一度を超えるな、と。
――開けないために、取っておいたのではない。
開けないなら、そもそも使わなければいい。日に一度も要らない。
規則があるということは、使うということだ。
毎日、一度は使う。
――日に一度、何をしていた。
◇
俺は、その問いを持ったまま、石段を降りた。
回廊へ。
北の壁へ。
抜いた穴を通り、狭い点検口を這い、金属の梯子を降りた。
三歩四方の部屋。
正面の、継ぎ目のない壁。
――開いている。
十日前に開けた壁は、そのままだった。
俺が置いた石も、動いていない。
誰も来ていない。
◇
俺は、開口部の前に立った。
暗い。
灯りは、三歩先で消える。
石を投げた。
――音が、返らない。
十日前と同じだ。
俺は、しばらくそこに立っていた。
立って、それから、口を開いた。
――使う。
今日の一度を、ここで使う。
俺は息を吸った。
そして、唱えた。
――シャルカディ・オム・ネイア。
◇
返事は、すぐに来た。
暗がりの奥から。
音だった。
低くて、区切りがあって、抑揚があった。
だが、十日前とは違った。
――長い。
十日前は、一度きりの短い音だった。
今日は、続いた。
三つ。四つ。五つ。
音が、並んでいる。
俺は、その並びを聞いていた。
聞いていて、背中が冷えた。
◇
――同じ形だ。
四つの区切り。
最初が長く、次が短く、三つ目が短く、最後が長い。
俺が今唱えた句と、同じ形をしていた。
――繰り返している。
いや。
違う。
俺は、その音をもう一度、頭の中で並べた。
同じ形だが、同じではない。
音が、少しずつ違う。
――訛りを、直された。
◇
俺は、動けなかった。
二十四年、俺はこの句を唱えてきた。
親父から音で受け取って、意味も知らずに繰り返してきた。
その音が今、暗がりの向こうから、正しい形で返ってきた。
――お前の言い方は、こうではない。
そう言われている気がした。
俺は、口を開いた。
開いて、閉じた。
――今日は、使った。
二度目は、駄目だ。
規則だ。三百年前の門番が書いた規則だ。
俺は、握った拳を、ゆっくり開いた。
◇
そして、俺は言った。
この国の言葉で。
「――お前は、誰だ」
返事は、なかった。
しばらく、何も返ってこなかった。
やがて、また音がした。
今度は短い。
二つの区切り。
俺には、意味が分からなかった。
分からなかったが、なぜか、こう聞こえた。
――こちらこそ。
◇
梯子を上がる間、マリは何も言わなかった。
点検口を抜けて、広間に出て、円の床を横切って、階段を上がった。
石段の下で、彼女がようやく口を開いた。
「ハルト」
「なんだ」
「――あれ、なおした」
「ああ」
「ハルトの、ことば、なおした」
「そうだな」
俺は、灯りを持ち直した。
「――なおせるって、ことは」
マリは言った。
「もとの、かたち、しってる」
俺は、足を止めた。
止まって、振り返った。
暗い階段の、下を。
「……そうだ」
俺は言った。
「あそこに、元の形が残ってる」
俺は、そこでもう一つ気づいた。
――潰したら、それも消える。
三百年、誰も読めなかった言葉の、元の形が。
俺は、しばらく暗がりを見ていた。
見ていて、動けなかった。




