地上へ
十日目の夕方、俺たちは地上へ出た。
正確には、俺が「十日目の夕方」と決めた時刻だ。
地の底では、時刻は決め事でしかない。
石段を上がると、外は本当に夕方だった。
――当たった。
二十年の経験は、こういうところで役に立つ。役に立って、誰も褒めない。
◇
石段の外に、レイヴがいた。
十日、本当にいた。
部下と交代で見張っていたのだろう。それでも、この男自身が同じ場所に立っていた。
俺を見て、彼は明らかに安堵した顔をした。
「――ご無事で」
「無事だ」
「十日、ぴったりですね」
「そういう仕事なんだ」
俺は荷を下ろした。
◇
セレンが、荷馬の陰から出てきた。
この女も、いた。
「突き合わせは」
開口一番、それだった。
「した」
「――結果は」
「二十八種だ」
俺は野帳を出した。
「そちらの十四種は、全部こちらにある。こちらには、そちらにない字が十四種ある」
セレンの手が、震えた。
彼女は紙を受け取って、その場で膝をついた。
地面に紙を広げて、灯りを近づけて、読み始めた。
レイヴが咳払いした。
「――記録官」
「お待ちを」
「馬車の中でも読めるだろう」
「揺れます」
彼女は顔も上げなかった。
◇
「ハルトさん」
レイヴが、俺の横に来た。
「なんだ」
「十日で、どこまで」
「言わん」
「――でしょうね」
彼は苦笑した。
「一つだけ、答えてください」
「内容による」
「扉は、開きましたか」
俺は、少し黙った。
「――開いた」
レイヴの息が、止まった。
「そして、閉めてきた」
俺は言った。
「いや、閉まらなかった。開いたままだ」
「――開いたまま」
「そうだ」
俺は彼を見た。
「だから、あんたらは入れる。……入りたければな」
◇
レイヴは、しばらく黙っていた。
それから、首を振った。
「入りません」
「なぜ」
「三百年、入れなかったからです」
彼は言った。
「入口が開いていないから入れなかったのではない。……入る資格がないから入れなかった」
彼は、俺を見た。
「開いていても、我々が入れば、たぶん死にます」
「――根拠は」
「記録です」
彼は言った。
「三百年で、十七人試して、十七人戻っていません」
◇
俺は、その数字を頭に入れた。
十七人。
――削られた模様も、十七か所だった。
偶然だろう。
偶然だろうが、覚えておく。
「レイヴ」
「はい」
「一つ訊く」
「どうぞ」
「あんたらは、なぜ待ってる」
俺は言った。
「三百年だ。長すぎる。……何を待ってるんだ」
レイヴは、しばらく黙っていた。
それから、こう言った。
「――星です」
◇
俺は、動かなかった。
「大きな重なりを待っています」
彼は言った。
「次は、八年と三月後です」
俺は、その数字を聞いて、顔に出さないようにした。
――同じ数字だ。
昨日、マリが出した数字と、同じ。
「その夜に、何が起きる」
「分かりません」
レイヴは言った。
「記録には『門が開く』とあります。……ですが、我々の記録は劣化しています」
彼は、セレンのほうを顎で示した。
「読めていないんです。三百年、読めないまま待っている」
◇
俺たちは、その夜、メルシアへ戻った。
俺の家は、焼け跡になっていた。
黒い柱が三本、立っているだけだ。
隣の家は無事だった。
レイヴの部下が、間の板塀を落として延焼を止めたという。
俺は、その焼け跡の前に立った。
しばらく立って、それから中に入った。
◇
棚があった場所を探した。
直した測量具は、全部熔けていた。
蜜の壺は――割れていた。
中身は、焼けて黒くなっていた。
千年、封じられていた蜜だ。
俺は、その破片を一つ拾った。
拾って、しばらく持っていた。
――誰かが、詰めて、封をして、開けなかった。
その千年を、一晩で終わらせた奴がいる。
俺は、破片を懐に入れた。
◇
その時、後ろで足音がした。
俺は振り返った。
フェイラだった。
息を切らしている。
「ハルト」
「――どうした」
「あんた、無事だったのね」
「無事だ」
彼女は、俺の顔を見て、それから言葉に詰まった。
詰まった顔を、俺は知っている。
悪い報せを持ってきた人間の顔だ。
「フェイラ」
「……うん」
「――誰だ」
◇
彼女は、しばらく言えなかった。
やがて、こう言った。
「ゼルさん」
俺は、動かなかった。
「情報屋の。……あんたと、よく飲んでた」
「――ああ」
「六日前」
彼女は言った。
「東の路地で。……刺されて」
俺は、その言葉を、しばらく飲み込めなかった。
「――生きてるのか」
フェイラが、首を振った。
◇
俺は、焼け跡の中に立っていた。
足元に、熔けた金属がある。
二十年かけて直した道具だ。
――関係ない。
そう思った。
道具は、道具だ。
人が死んだ。
「フェイラ」
「うん」
「――何か言ってたか」
「言ってたわ」
彼女は、懐から紙を出した。
「これを、あんたに」
俺は受け取った。
安い紙だ。折り目が四つ。
開くと、一行だけ書いてあった。
◇
〈兄貴分の借りは、返した〉
それだけだった。
俺は、その一行を、しばらく見ていた。
――四年前、東の坑で崩落があった。
俺は図面を出した。三人生きて出た。うちの一人が、この男の兄貴分だった。
あの男は、それを恩だと言った。
恩は、返せるうちに返しておく、と。
俺は、紙を握った。
握って、破らないように力を抜いた。
◇
「フェイラ」
「うん」
「ゼルは、何をしてた」
「調べてたのよ」
彼女は言った。
「あんたの家を焼いた連中を。……誰にも頼まれてないのに」
俺は、目を閉じた。
――頼んでない。
頼んでいない。
だが、あの男は行った。
なぜなら、俺が四年前に図面を出したからだ。
仕事として。金をもらって。
覚えてもいない仕事のせいで、人が一人死んだ。
◇
マリが、俺の隣に来た。
何も言わなかった。
俺も、何も言わなかった。
しばらくして、俺は口を開いた。
「マリ」
「うん」
「――家は、いい」
俺は言った。
「道具も、蜜も、いい。物だ」
俺は、焼けた柱を見た。
「だが、人は違う」
俺は言った。
言った声が、自分でも驚くほど平らだった。
平らすぎた。
「ハルト」
マリの声が、少し変わった。
「なんだ」
「……いま、こわい、かおしてる」
「そうか」
俺は言った。
「そうだろうな」
◇
その夜、俺は野帳を開いた。
開いて、今日の欄に線を引いた。
句、一度。
守った。
守ったことを書いて、俺は筆を止めた。
――守って、何になった。
俺が十日、地の底で数を数えている間に、地上で人が死んだ。
規則を守り、日に一度に抑え、数えて、書いて。
その十日で、ゼルは死んだ。
俺は、野帳を閉じた。
閉じて、しばらく動かなかった。
――数えて、どうする。
四月前、マリが俺に訊いた言葉だ。
あの時、俺は答えられなかった。
今も、答えは出ていない。
だが、一つだけ、はっきりしたことがある。
――このまま数え続けても、また誰か死ぬ。
◇
俺は、灯りをつけたまま、部屋の中を見回した。
ギルドの上の部屋だ。ダウムが空けてくれた。
寝台が二つ。卓が一つ。窓が一つ。
――誰の家でもない。
俺の家は焼けた。
この部屋は、借り物だ。
二十年、俺は「静かに暮らす」ことだけを守ってきた。
目立つな。何も持つな。腕一本で食え。
守った結果が、これだ。
――いや。
守ったからじゃない。
守っていたのに、こうなった。
俺は、その違いを、しばらく考えていた。
考えて、答えが出た。
――守り方が、間違っていた。
俺は、自分が目立たなければ何も起きないと思っていた。
だが、起きたことは全部、俺が何をしたかとは無関係だった。
両親は、俺が生まれる前から狙われていた。
ゼルは、俺が四年前に出した図面のせいで死んだ。仕事で出した図面だ。
――俺が静かにしていても、関係なかった。
あれが、そこにあるからだ。
俺は、卓の紙を見た。
サルカドの図面だ。
二十年、俺が描き足してきたもの。
俺は、その紙を、しばらく見ていた。




