北の壁
十日目の朝、俺は北の壁を抜いた。
その日の句は、まだ使っていない。
使わずに済むなら、それが一番いい。
◇
半刻で、頭が入るだけ開いた。
灯りを差し込む。
――通路だ。
だが、これまでのどれとも違った。
狭い。
幅、二尺八寸。
人がやっと通れる。肩を斜めにしないと入らない。
「マリ。ここは、俺が先に入る」
「うん」
「もし俺が詰まったら、足を引け」
「わかった」
「遠慮するな。肩が外れてもいい」
彼女は、少し嫌そうな顔をした。
◇
入ってみて、分かった。
これは通路ではない。
――点検口だ。
壁の中を通っている。
左右の壁は、外側の壁と内側の壁だ。その間の隙間を、人が通れるように広げてある。
俺は、そこを二十歩進んだ。
二十歩で、下へ折れた。
梯子が組んである。木ではない。金属だ。
錆びていない。
――千年、錆びない金属。
俺は、それを一度だけ確かめて、それ以上考えないことにした。
◇
降りた先は、狭い部屋だった。
三歩四方。
人が二人立てば、それで終わりだ。
正面に、扉がある。
いや――扉ではない。
壁だ。
継ぎ目のない、滑らかな壁。
その中央に、模様がある。
同心円。枝分かれする線。三本。
削られていない。
◇
俺は、しばらくそれを見ていた。
――ここだ。
これまでの壁とは、違う。
あの九話の壁は、石を積んだ壁だった。目地が一分未満まで詰まっていたが、石だった。
これは、石ではない。
継ぎ目が、一つもない。
そして、模様がある。
「マリ」
「うん」
「――ここから先は、たぶん、別だ」
「べつ」
「遺跡じゃない」
俺は言った。
「遺跡は、人が入るところだ。……ここから先は、人が入るように作ってない」
◇
俺は、野帳を開いた。
開いて、今日の欄を見た。
空白だ。
まだ使っていない。
「マリ」
「うん」
「――使うぞ」
彼女は、少し黙った。
「うん」
「一度だけだ」
「うん」
「開かなかったら、引き返す」
「うん」
彼女は、灯りを持ち直した。
正しい位置に。俺の斜め後ろ、少し高く。
――四月半、この位置は一度もずれていない。
◇
俺は、壁の前に立った。
息を吸う。
――日に一度。
三百年前の門番が、そう書き残した。
その門番は、たぶん、俺の何代か前だ。
同じ血で、同じ言葉を持って、同じ場所に立った。
そして、数えろと書いた。
――数えます。
俺は、心の中でそう言った。
誰に言ったのかは、自分でも分からなかった。
そして、唱えた。
――シャルカディ・オム・ネイア。
◇
壁が、光った。
今度は、俺も見た。
模様が、青みがかった光を帯びる。
ゆっくり明るくなって、ゆっくり消えた。
一秒か、二秒。
――四月半前、マリが見たものだ。
俺は「疲れてるんだ」と言った。
今、自分の目で見ている。
壁が、動いた。
音もなく、上へ。
◇
開いた先は、暗かった。
灯りが届かない。
俺は、灯りを前へ出した。
――届かない。
三歩先で、光が消えている。
壁も、床も、天井も見えない。
俺は、足元に石を落とした。
音がした。
近い。床はすぐそこだ。
次に、前へ投げた。
――音がしない。
俺は、投げた方向を見た。
何も返ってこなかった。
◇
「マリ」
「うん」
「入らないぞ」
「――え」
「ここは、測れない」
俺は言った。
「石を投げて音が返らない。灯りが届かない。……広さが分からん」
俺は一歩下がった。
「広さが分からん場所に入るのは、素人だ」
マリは、しばらく黙っていた。
「――ハルト」
「なんだ」
「いま、いきたい、かおしてる」
俺は、口を閉じた。
「……行きたい」
俺は正直に言った。
「行きたいが、行かない」
◇
その時だった。
――音がした。
暗がりの、奥。
低い音だった。
石が擦れるような。あるいは、何か大きなものが身じろぎするような。
一度。
それきり、止まった。
俺は、動かなかった。
マリも動かなかった。
――生き物か。
いや。
獣の音ではない。
獣は、あんなに規則正しく止まらない。
◇
二度目の音は、少し違った。
高い。
金属が、細く鳴るような音。
――近づいてる。
俺は、杆を持ち替えた。
「マリ。梯子へ」
「ハルトは」
「後から行く」
「――ほんとに」
「本当だ」
彼女は、迷った。
迷ってから、動いた。
俺は、灯りを掲げたまま後退した。
暗がりから、目を離さずに。
◇
三度目の音は、言葉に近かった。
言葉ではない。
だが、区切りがあった。
抑揚があった。
――問われている。
そう感じた。
根拠はない。ただ、そう感じた。
俺は、口を開いた。
開いて、閉じた。
――今日は、使った。
一度使った。二度目は、駄目だ。
俺は、杆を握り直した。
そして、代わりに、こう言った。
「――また来る」
この国の言葉で。
通じるはずがない。
通じるはずがないが、言った。
◇
暗がりは、静かになった。
俺は、そのまま後退して、壁の手前まで戻った。
壁は、開いたままだった。
閉まる気配はない。
――閉まらないのか。
俺は、しばらくそれを見ていた。
そして、決めた。
俺は、荷から石を一つ取り出した。
カラン村で拾った、ただの石だ。重しに使っていた。
それを、開口部の下に置いた。
――目印だ。
誰かがここを閉めたら、この石が動く。
動いていれば、誰かが来たと分かる。
◇
梯子を上がりながら、俺は考えていた。
――返事があった。
四月半前、この遺跡は俺に扉を開いただけだった。
今日は、音が返ってきた。
区切りのある音が。
それは、機械の音かもしれない。
だが、俺には、そう聞こえなかった。
――誰かが、いる。
俺は、その言葉を口に出さなかった。
出さなかったが、上でマリが待っていて、こう言った。
「ハルト」
「なんだ」
「――あれ、こたえた」
彼女も、そう聞いていた。
◇
その夜、俺たちは円の広間まで戻って、そこで休んだ。
狭い部屋には戻らなかった。
理由は、二つある。
一つは、逃げ道だ。あの部屋は行き止まりに近い。
もう一つは――正直に言えば、怖かったからだ。
あの開口部の向こうから、何かが出てくるかもしれない。
出てくるなら、広い場所のほうがまだいい。
「マリ」
「うん」
「――お前は、あれを何だと思う」
彼女は、しばらく考えた。
「ひと」
「人か」
「わかんない。でも」
彼女は言った。
「きかいは、なおさない」
俺は顔を上げた。
「なおす、って」
彼女は、自分の口を指した。
「ハルトの、ことば、まちがってた。あれ、なおした」
彼女は言った。
「きかい、まちがい、おしえない。……ただ、うごかない、だけ」
俺は、その言葉を飲み込んだ。
――そうだ。
扉は、間違えれば開かないだけだ。「そこが違う」とは言わない。
言うのは、教える気がある相手だけだ。
「――なら、あそこにいるのは」
俺は言った。
「教えようとしてる」
俺は、灯りを見た。
「千年、誰も来なかった場所で。……最初に来た人間に」
◇
俺は、その晩、なかなか寝つけなかった。
考えていたのは、規則のことだった。
――日に一度。
あの規則を守れば、俺はあれと、日に一往復しか話せない。
一日に一言。
それで、どれだけかかる。
言葉が通じるまでに、どれだけかかる。
――四月半だ。
俺は、隣で眠っているマリを見た。
この娘とは、四月半かかった。
毎日、朝から晩まで一緒にいて、四月半。
日に一言なら――
俺は、その計算をやめた。
やめて、目を閉じた。




