十日の底
一日目は、既知の道だった。
浅層、中層、未踏区画。四月前に測った場所を、そのまま降りる。
変わっていない。
当たり前だ。遺跡は動かない。
――だが、俺は変わった。
四月前、俺はここを「妙に規格が揃った遺跡」として測っていた。
今は違う。
通路幅四尺五寸。天井八尺二寸。段の蹴上げ六寸。
この数字を、俺はもう「揃っている」とは思わない。
――同じ型で抜いてある。
そう思って歩くと、同じ通路が、まるで別の物に見える。
◇
二日目、人型標の回廊に着いた。
継ぎ目のない床。天井の枠。緑がかった人の像。
四月前に俺が引き返した場所だ。
あの時、俺は蓋の上に瓦礫を積んだ。
積んだ瓦礫は、そのままだった。
誰も来ていない。
「マリ」
「うん」
「あの時、俺は怖くて引き返した」
俺は言った。
「今日は、怖くないのか」
彼女が訊いた。
俺は、しばらく考えた。
「――怖い」
「うん」
「だが、帰る家がない」
言ってから、少し笑ってしまった。
情けない理由だ。
だが、事実だった。
◇
回廊の先は、まっすぐ続いていた。
俺は歩数を数えた。
三百、四百、五百。
――長い。
この距離は、地上の丘に収まらない。
俺は野帳に方位を落とし続けた。
五百二十歩で、通路が下り始めた。
傾斜、およそ一分の八。緩い。だが、確実に降りている。
千歩で、階段になった。
◇
三日目の朝――と、俺が決めた時刻に――俺たちは広間に出た。
灯りを上げても、天井が見えなかった。
俺は杆を伸ばした。届かない。
石を投げた。
落ちる音がした。遠くはない。床は近い。
だが、天井は高い。
「――ここは」
マリの声が、反響した。
三回。四回。
俺は数えた。
――広い。
俺は、壁伝いに歩き始めた。
◇
外周を測るのに、丸一日かかった。
結果は、こうだ。
差し渡し、およそ二百四十歩。ほぼ円形。
天井高、推定四十尺以上。
そして――床が、平らだった。
継ぎ目がない。
二百四十歩の円が、一枚だ。
俺は、その真ん中に立って、灯りを掲げた。
「マリ」
「うん」
「この床に、模様はあるか」
彼女は、灯りを持って離れた。
しばらくして、戻ってきた。
「ある」
「どこだ」
「ここ」
彼女は、俺の足元を指した。
「まんなか。……ハルト、うえに、たってる」
◇
俺は、一歩下がった。
埃を刷毛で払う。
――出た。
同心円。枝分かれする線。
これまで見たどれより、大きい。
差し渡し、十歩はある。
俺は、その線を辿った。
辿って、気づいた。
――一本、足りない。
これまで見た模様は、中心から三本の線が出ていた。
これは、二本しかない。
三本目があったはずの場所が、削られている。
俺は膝をついた。
石の表面が、そこだけ荒れている。
鑿の跡だ。
「……削ってある」
◇
俺は、削られた跡に指を這わせた。
新しくはない。だが、遺跡そのものよりは新しい。
何十年か。何百年か。
――削るものが尽きた。
あの男が言った言葉が、頭に浮かんだ。
三百年ぶんの面を、十年で使い切った。もう削るものがない、と。
俺は立ち上がって、床全体を見回した。
「マリ。灯りを持って、外周を回れ」
「なにを、さがす」
「同じ跡だ」
俺は言った。
「削られた跡を、全部数える」
◇
半日で、十七か所見つかった。
どれも、模様の一部が削り取られている。
線の一本。円の一部。中心の点。
全部が、模様の「一部だけ」を持っていっている。
俺は、その位置を図面に落とした。
落として、しばらく眺めた。
「――足りない」
「なにが」
「削り方だ」
俺は指で示した。
「削るなら、模様ごと持っていけばいい。石の板一枚だ。切って運べる」
「そうだね」
「だが、こいつらは一部だけ削ってる」
俺は野帳を叩いた。
「なぜ、一部でいい」
◇
マリは、しばらく図面を見ていた。
それから、こう言った。
「ぜんぶ、いらない、から」
「――どういう意味だ」
「たとえば」
彼女は、指で紙に何か書いた。
「ハルトの、なまえ。……オルソ・サルカディア」
「ああ」
「『オ』だけ、ほしい、ひと、いる?」
俺は、口を開いた。
開いて、閉じた。
「――いない」
「いない」
彼女は頷いた。
「でも、ぜんぶの、なまえから、『オ』を、あつめる、ひと、なら」
彼女は俺を見た。
「たくさん、いる」
◇
俺は、その意味を飲み込むのに、少し時間がかかった。
――集めている。
部品を。
模様の全体ではなく、模様を構成する要素を。
十七か所から、線を一本ずつ。円の一部を一つずつ。
――何のためだ。
俺は、荷を開けた。
セレンから受け取った紙を出す。
三百年、写しの写しの写しを重ねて、形が丸くなり、区別が消えた文字。
――足りない、と彼女は言った。
十四種では足りない。本来はもっとあるはずだ、と。
俺は、床の模様を見た。
削り取られた十七か所を見た。
「……集めてるんだ」
俺は言った。
「文字を」
◇
「連中は、句を口で伝えてる」
俺は続けた。
「口で伝えれば、訛る。三百年で、形が丸くなる」
俺は削り跡を指した。
「だから、彫ってあるほうを集めてる」
マリが、息を呑んだ。
「――もとの、かたち」
「そうだ」
俺は言った。
「口伝は劣化する。石は劣化しない」
俺は立ち上がった。
「連中は、三百年かけて、自分たちが失った字を、石から拾い集めてる」
◇
その夜――と俺が決めた時刻に――俺たちは広間の隅で休んだ。
火は焚かない。
マリが、干し肉を齧りながら訊いた。
「ハルト」
「なんだ」
「あつめたら、どうなる」
「――読めるようになる」
「よめたら」
俺は、答えなかった。
答えられなかった。
読めれば、句の意味が分かる。
意味が分かれば、正しく唱えられる。
正しく唱えられれば――
「マリ」
「うん」
「セレンが言った言葉を、覚えてるか」
「『く、は、へる』」
「そうだ」
俺は、灯りを見た。
「意味が分からんかった」
俺は言った。
「今も分からん。だが、一つだけ思いついた」
「なに」
「――口伝は、使えば減る」
俺は言った。
「唱えるたびに、少しずつ訛る。百年、二百年と唱え続けたら、元の形が消える」
俺は、自分の口を指した。
「俺の句も、たぶん、もう減ってる」
◇
言ってから、俺は自分の言葉を確かめた。
――どのくらい減ったかは、確かめようがない。
比べる相手がいないからだ。
親父の発音を、俺は覚えていない。音の並びは覚えている。だが、細かいところは分からない。
二十四年、俺は自分の口の中だけで、この言葉を回してきた。
人が一人で同じ言葉を繰り返せば、必ず崩れる。
――測量の縄と同じだ。
縄は伸びる。使えば使うほど伸びる。
だから測量士は、必ず基準を持つ。伸びない金属の尺を一本、宿に置いておいて、月に一度、縄をそれに当てて確かめる。
当てなければ、縄は少しずつ長くなって、本人は気づかない。
――俺の句には、当てる尺がない。
「マリ」
「うん」
「――俺は、二十四年、確かめてない」
「なにを」
「自分の言い方をだ」
俺は言った。
「合ってるかどうか、一度も確かめてない。確かめる相手がいなかった」
彼女は、しばらく黙っていた。
「それでも、あいた」
「開いた」
「じゃあ、まだ、あってる」
「――今は、な」
俺は言った。
「今は開く。いつまで開くかは、分からん」
俺は灯りを見た。
「縄は、ある日いきなり切れるわけじゃない。少しずつ伸びて、ある日、寸法が合わなくなる」
俺は、そこで一つ思いついた。
「――だから、彫ったものを集めるのか」
「え」
「連中だ」
俺は言った。
「口伝は伸びる。石は伸びない。……あいつらは、伸びない尺を集めてる」
俺は野帳に、それを書いた。
書きながら、少し嫌な気分になった。
――理屈が、分かってしまう。
あの連中のやっていることが、正しく思えてしまう。




