記録官
サルカドの石段の前に、荷はそのまま置いてあった。
ダウムが手配して、前日のうちに運ばせていたものだ。
油、水、食料、篩、刷毛。十日ぶん。
――家より、こっちが残った。
俺は、その皮肉を口に出さなかった。
◇
夜明け前だった。
東の空が、まだ紫だ。
レイヴが、二人の部下と一緒に立っている。
「ここまでで結構です」
俺は言った。
「――中へは」
「入らせない」
俺ははっきり言った。
「あんたらが入ると、扉が開いた時に面倒だ」
レイヴは、少し笑った。
「正直ですね」
「嘘は下手なんだ」
「存じています」
彼は頭を下げた。
「では、外で待たせていただきます」
「待たなくていい」
「待ちます」
彼は言った。
「あちらが、また来ますので」
◇
俺が荷を担ごうとした時、後ろから声がした。
「――お待ちを」
女の声だった。
振り返ると、外套の一人が前へ出てきた。
レイヴの部下だと思っていた一人だ。
頭巾を下ろす。
三十前後だろうか。目つきが鋭い。
鋭いが、荒事の目ではない。
――紙を読む人間の目だ。
「セレンと申します」
彼女は言った。
「観星卿団の記録官です」
◇
「記録官」
「はい。古語の解読と、記録の管理を」
彼女は、レイヴを一瞥した。
「団長。よろしいですか」
「――手短にな」
レイヴは、少し困った顔をした。
この男が困る顔を、俺は二度目に見た。
セレンは、俺に向き直った。
「一つ、お願いがございます」
「聞かん」
「まだ何も申し上げておりませんが」
「句のことだろう」
俺は言った。
「昨日、あんたらの団長に断った」
「存じています」
彼女はあっさり言った。
「報告書を読みました。……三行しかありませんでしたが」
俺は、レイヴを見た。
彼は目を逸らした。
◇
「私がお願いしたいのは、句ではありません」
セレンは言った。
「では、何だ」
「これです」
彼女は、懐から紙を出した。
広げる。
――写しだった。
文字が並んでいる。
規則が、整いすぎている文字。
俺は、それを知っていた。
「――ギルドの綴りか」
「いいえ」
彼女は言った。
「我々の書庫のものです」
俺は、顔を上げた。
「――同じ字だ」
「ええ」
セレンは頷いた。
「あなたの町の書庫にも、同じものがあるはずです。……百二十年前の綴り」
俺は、答えなかった。
「答えなくて結構です」
彼女は言った。
「私がお願いしたいのは、あなたの持っている写しと、これを突き合わせることです」
◇
「なぜだ」
「文字が、足りないからです」
セレンは言った。
「我々の側に伝わっている字は、十四種です。……三百年、それで解読を試みてきました」
彼女は紙を指した。
「十四では足りません。同じ形が繰り返しすぎる。……言語として成立しません」
俺は、その言葉に引っかかった。
――ドルスと同じことを言っている。
文字なら、頻度に偏りが出る。均一なら文字ではない。
この女は、逆から同じ問題に当たっている。
「足りない、というのは」
「本来はもっとあるはずだ、ということです」
彼女は言った。
「我々は、写しの写しの写ししか持っていない。三百年、書き写すたびに形が丸くなり、区別が消えた」
彼女は、初めて少し口を歪めた。
「――我々の側は、何もかも劣化しています」
◇
俺は、その言い方に、少し引っかかった。
自分の一族を「劣化している」と言う人間は、あまりいない。
「セレン」
「はい」
「あんたは、それを団長に言ってるのか」
「言っています」
彼女は即答した。
「毎年、報告書に書いています」
彼女はレイヴを見た。
「読んでいただけているかは、存じません」
「――読んでいる」
レイヴが言った。
「読んで、判を押している」
「押すだけですね」
「押すだけだ」
彼は認めた。
「私には、直しようがない」
◇
俺は、二人のやり取りを聞いていた。
――この組織は、たぶん、俺が思っているより退屈だ。
三百年待っている。
待っている間に、書類が溜まる。溜まった書類が劣化する。劣化を報告する係がいて、報告書に判が押される。
それだけだ。
巨大な悪意ではない。
――長すぎる時間だ。
「セレン」
「はい」
「――突き合わせて、どうなる」
「分かりません」
彼女は言った。
「ただ、一つだけ言えます」
彼女は紙を畳んだ。
「文字が揃えば、読めるかもしれません」
彼女は俺を見た。
「読めれば、我々は初めて、自分たちが何を待っているのかを知ることができます」
◇
俺は、そこで少し迷った。
――この女は、レイヴとは目的が違う。
レイヴは、開けたがっている。
この女は、読みたがっている。
開けるのと、読むのは、違う。
「――写しは、俺の手元にない」
俺は言った。
「ギルドの書庫だ。マスターの部屋にある」
「では」
「あんたを連れていくことはできん」
俺は言った。
「あんたが入れば、記録に残る。……フェイラが巻き込まれる」
セレンは、少し目を細めた。
「受付の方ですね」
「知ってるのか」
「調べました」
彼女は言った。
「三十四歳。独身。母親と暮らしている。母親は足が悪い」
俺は、杆を握った。
「――脅しか」
「いいえ」
彼女は、はっきり言った。
「私は、巻き込まない相手を調べます。巻き込む相手ではなく」
◇
俺は、その言い方を、しばらく考えた。
――巻き込まない相手を調べる。
誰を守るかを、先に決めているということだ。
俺は、杆を下ろした。
「……写しは、俺が取る」
「よろしいのですか」
「ただし、条件がある」
俺は言った。
「そちらの写しを、先に置いていけ」
セレンは、少し驚いた顔をした。
それから、笑った。
この女が笑うのを、初めて見た。
「――先に渡せ、と」
「そうだ」
「三百年守ってきたものを、初対面の人間に」
「そうだ」
俺は言った。
「あんたは読みたいんだろう。読みたい人間は、渡す」
◇
セレンは、しばらく俺を見ていた。
それから、紙を差し出した。
迷わなかった。
「――どうぞ」
「レイヴ」
俺は言った。
「止めなくていいのか」
レイヴは、深く息を吐いた。
「止めますよ、普通は」
彼は言った。
「ですが、うちの記録官は、止めても勝手にやります」
「団長」
「事実だろう」
「事実です」
セレンは、あっさり認めた。
◇
俺は、紙を受け取った。
受け取って、荷にしまった。
「十日で戻る」
俺は言った。
「その時に、突き合わせる」
「お待ちしています」
セレンは頭を下げた。
下げてから、顔を上げて、こう言った。
「一つ、申し上げても」
「なんだ」
「――中で、句をお使いにならないほうがよろしいかと」
俺は、動きを止めた。
「なぜだ」
「分かりません」
彼女は言った。
「ただ、記録にあります。三百年前、本家の者が『句は減る』と言い残しています」
俺は、その言葉を繰り返した。
「――減る」
「意味は不明です」
セレンは言った。
「ですが、記録官として、伝えないわけにはいきませんでした」
彼女は、それだけ言って、下がった。
◇
俺は、石段の一段目に足を置いた。
窪んでいるところに。
――句は減る。
意味が分からない。
分からないが、覚えておく。
俺は、いつも通り唱えた。
――シャルカディ・オム・ネイア。
何も起きなかった。
いつも通りだ。
俺は、灯りを持ち上げて、石段を降り始めた。
後ろで、マリが続いた。
◇
五段ほど降りたところで、後ろから声がした。
「ハルトさん」
レイヴだった。
俺は振り返らなかった。
「一つ、お伝えし忘れました」
「なんだ」
「昨夜の連中は、四人でした」
彼は言った。
「三人が倒れ、一人が逃げた。……その一人は、まだ町にいます」
俺は、足を止めた。
「――追わなかったのか」
「追いました」
レイヴは言った。
「撒かれました」
彼の声に、初めて悔しさが混じった。
「あれは、そういう連中です。三百年、隠れることだけで生きてきた」
俺は、灯りを持ち直した。
「――中まで来るか」
「来ないでしょう」
彼は言った。
「彼らは、あなたを生かしておきたい。……中で無理をさせて、崩落にでも巻き込まれたら困る」
「じゃあ、出てきたところか」
「出てきたところです」
俺は、その言葉を頭に入れた。
――十日後。
出口に、待たれている。
「レイヴ」
「はい」
「――十日後、あんたはどうする」
彼は、少し間を置いた。
「ここにおります」
「守るのか」
「守ります」
彼は言った。
「あなたのためではありません」
彼は、はっきり言った。
「三百年待った鍵を、あんな連中に潰させたくないだけです」
俺は、その正直さに、少し笑った。
「――そのほうが、信用できる」
「でしょうね」
レイヴは言った。
「善意だと言われたら、あなたは疑うでしょう」
俺は、石段を降り始めた。
降りながら、思った。
――この男は、俺のことをよく見ている。
三月しか会っていないのに。
いや。
――二十四年、見ていたのかもしれない。




