四つ数える
先に来たのは、右の男だった。
井戸の囲いを避けて、内側から。
――正しい。
狭いほうを避けるのは、正しい判断だ。
正しいから、読める。
俺は、その正しさに向かって、杆の石突きを置いた。
男の踏み込みが、石突きに乗った。
乗った瞬間、俺は柄を跳ね上げた。
膝が抜けて、男が前へ倒れた。
倒れる背中に、握りの側を落とす。
――一つ。
◇
二人目は、待たなかった。
仲間が倒れる前に、もう動いていた。
速い。
俺は下がった。
下がって、井戸の囲いに背中を寄せた。
――ここなら、右から回れない。
男の棒が、上から来た。
俺は杆を立てて、受けた。
衝撃で、掌が痺れた。
――重い。
この男は、力で来る。
力で来る相手に、力で返してはいけない。
俺は受けた杆を、そのまま横へ流した。
男の棒が、井戸の囲いを叩いた。
石が欠けた。
その一瞬で、俺は内側へ入った。
肘で顎を跳ね上げて、体をぶつける。
男が、井戸の囲いに背中から落ちた。
――二つ。
◇
後ろから、足音。
三人目と、四人目。
路地の入口から来る。
俺は振り返らなかった。
振り返る代わりに、マリの腕を掴んだ。
「走れ」
押し出す。
彼女が走った。
俺は、その後ろについた。
路地の突き当たりを右。
この先は、市場だ。
夜は無人だが、屋台の骨組みが残っている。
――障害物がある。
◇
市場に飛び込んで、俺は屋台の骨組みの間を抜けた。
高さ四尺。人が屈まないと通れない。
俺は屈んだ。マリは、そのまま通れた。
後ろで、木が倒れる音がした。
追ってきた一人が、骨組みに引っかかっている。
――そこが狙いだ。
俺は足を止めた。
止めて、振り返って、杆を伸ばした。
骨組みの隙間から、突く。
男の膝に入った。
悲鳴が上がった。
――三つ。
◇
四人目は、来なかった。
立ち止まって、こちらを見ている。
距離、十五歩。
俺は杆を構えたまま、動かなかった。
男も動かなかった。
――計算してる。
こいつは、頭がいい。
三人やられた。自分一人で来ても、同じことになる。
だから、来ない。
やがて、男は口を開いた。
「――名乗っておく」
声が、思ったより若かった。
「俺たちは、名を持たない」
彼は言った。
「持たないことにしている。……三百年前に捨てた」
俺は、答えなかった。
「お前の親父も、同じことを聞いたはずだ」
男は言った。
「聞いて、断った」
◇
俺は、その言葉に反応しかけて、抑えた。
――誘っている。
こちらを動かそうとしている。
動けば、隙が出る。
俺は動かなかった。
男は、少し笑った。
「賢いな。親父より賢い」
彼は言った。
「あの男は、動いた」
俺は、杆を握り直した。
「――何を断ったんだ」
訊いてしまった。
訊いてから、しまったと思った。
だが、男は答えた。
「一緒に来い、と言った」
彼は言った。
「血がある。句もある。……一緒に来れば、扉が開く」
男は肩をすくめた。
「断られた。それだけだ」
◇
「――それで、焼いたのか」
「焼いたのは、俺じゃない」
男は言った。
「二十四年前だ。俺は十だった」
俺は、その言葉を飲み込んだ。
――同い年だ。
こいつは、俺と同じ年に十だった。
「今日、なぜ来た」
「削るものが尽きた」
男は、あっさり言った。
「三百年ぶんの面を、十年で使い切った。もう、削るものがない」
彼は言った。
「なら、鍵を取りに行くしかない」
「――俺を殺す気か」
「殺さない」
男は言った。
「死んだら開かない。……血は、生きてないと駄目らしい」
彼は、少し首を傾げた。
「だから、家を焼いた。出てきたところを押さえるつもりだった」
彼は言った。
「二十四年前と、同じやり方だ。……あの時は、失敗した」
◇
俺は、その言葉で、二十四年前の絵が繋がった。
――押さえるつもりだった。
殺す気はなかった。
なかったのに、両親は死んだ。
俺だけが逃げた。
誰かが、逃がしたからだ。
「――俺の親は」
「死んだよ」
男は言った。
「火が回るのが速すぎた。油を置きすぎてたんだ」
彼は、平然と言った。
「事故だ」
俺は、杆を握る手が震えるのを感じた。
――事故。
この男は、それを事故と呼ぶ。
油を撒いて、火を放って、それを事故と呼ぶ。
◇
「ハルト」
背後で、マリの声がした。
「――ああ」
「ひと、きた」
俺は、振り返らずに耳を澄ませた。
足音が、複数。
市場の反対側から。
――増援か。
だが、足音が揃っていた。
揃っている足音を、俺は知っている。
男の顔が、初めて動いた。
彼は舌打ちして、後ろへ下がった。
「――邪魔が入った」
彼は言った。
「また来る」
彼は、倒れた三人を残して、路地の闇へ消えた。
◇
揃った足音が、市場に入ってきた。
灯りが上がる。
外套の連中だった。
六人。
先頭に、レイヴがいた。
「――ご無事ですか」
彼は、俺と、それから倒れている三人を見た。
「三人ですか」
「三人だ」
「――お一人で」
レイヴは、少しだけ驚いた顔をした。
「路地が狭かった」
俺は言った。
レイヴは、その答えの意味を正しく理解したらしい。
彼は頷いた。
「なるほど」
◇
「なぜ来た」
俺は訊いた。
「見張っていました」
レイヴは、正直に言った。
「あなたの家を、ですか」
「はい」
「――勝手にか」
「勝手にです」
彼は頭を下げた。
「申し訳ありません。……ですが、今夜に関しては、それが役に立った」
俺は、燃えている方角を見た。
俺の家は、もう半分崩れているだろう。
八年住んだ。
棚に、直した測量具が並んでいた。
蜜の壺があった。
――全部だ。
◇
「レイヴ」
「はい」
「――一つだけ、頼みがある」
「なんなりと」
「町の連中に、火が回らないようにしてくれ」
俺は言った。
「俺の家は、いい。だが隣は、子どもがいる」
レイヴは、部下に短く指示を出した。
四人が走っていった。
彼は俺に向き直った。
「ハルトさん」
「なんだ」
「行くところは、おありですか」
俺は、答えられなかった。
――ない。
家が焼けた。荷は、水と灯りと野帳と、狐だけだ。
「――ある」
俺は言った。
言ってから、自分でそう決めた。
「サルカドだ」
レイヴの目が、動いた。
「あそこには、十日ぶんの荷を置いてある」
俺は言った。
「明日から入る予定だった。……予定を早める」
◇
市場を出る前に、俺は倒れた三人を見た。
三人とも、生きている。
骨は折っていない。折らないように打った。
――なぜ折らなかった。
自分に訊いた。
答えは、簡単だった。
折る打ち方を、俺は知らない。
二十年、獣にしかやっていない。獣は、折る必要がない。動きを止めれば、それで終わる。
人にも、同じ打ち方をした。
――今日は、それでよかった。
次も、それでいいのか。
俺は、その問いを、頭の隅に置いた。
置いて、答えは出さなかった。
◇
マリが、俺の袖を掴んだままだった。
掴んでいることに、たぶん本人は気づいていない。
「マリ」
「うん」
「――手を離せ」
彼女は、はっとして離した。
「ごめん」
「謝ることじゃない」
俺は言った。
「杆が振れないだけだ」
「――ごめん」
「だから、謝るな」
俺は、少し声を落とした。
「怖かったか」
彼女は、しばらく黙っていた。
「……こわかった」
彼女は言った。
「ハルトが、こわかった」
俺は、動きを止めた。
「――俺が」
「うん」
彼女は、正直に言った。
「あのひとが、『じこ』って、いったとき」
彼女は、自分の手を見た。
「ハルト、いきが、とまった」
俺は、何も言えなかった。
「わたし、そのとき、おもった」
彼女は言った。
「あ、ころす、って」
◇
俺は、しばらく黙っていた。
黙って、それから、正直に言った。
「――思った」
「うん」
「一瞬な」
「うん」
彼女は頷いた。
「でも、やめた」
「――お前が止めた」
「わたし、なにも、してない」
「袖を引いた」
俺は言った。
「あれで、止まった」
マリは、しばらく黙っていた。
それから、小さく言った。
「よかった」
「――何が」
「ハルトが、とまって」
彼女は言った。
「ころしたら、ハルト、ずっと、それ、もつ」
彼女は、自分の胸を指した。
「わたしの、くにの、ことば、で」
彼女は、少し言葉を探した。
「――『いっしょう』」
「一生か」
「いっしょう」
彼女は頷いた。
「いっしょう、もつ」




