火の匂い
準備に、五日かけた。
十日潜るなら、荷が倍要る。油、水、食料。それに、埃をさらうための篩と刷毛。
ダウムには、依頼の形を作ってもらった。
――サルカド遺跡、新規区画の精査。依頼者、測量士ギルド。
ギルドが自分で依頼を出す形だ。金は俺が出した。三万レンの残りがある。
「阿呆な使い方だな」
ダウムは書付に判を押しながら言った。
「他に使い道がありません」
「そうだろうな」
彼は判を置いた。
「――気をつけろ」
「はい」
「連中は、お前が入るのを見とる」
彼は言った。
「入るのを見て、出るのを待っとる」
◇
出発の前の晩だった。
俺は荷の最後を詰めていた。
マリは、竈で明日の分の焼き物をしていた。
――風が変わった。
最初に気づいたのは、匂いだった。
俺は手を止めた。
「マリ」
「うん」
「火を落とせ」
彼女は、何も訊かずに火を落とした。
三月と少しで、彼女は俺の声の調子だけで動くようになっている。
部屋が暗くなった。
俺は、戸に近づいた。
――匂いだ。
油の匂いがする。
うちの油ではない。
もっと重い、燃やすための油だ。
◇
俺は、戸の隙間から外を見た。
暗い。
通りに、人影はない。
だが、匂いは強くなっている。
――家の裏だ。
俺は土間を横切って、裏の窓に寄った。
窓は小さい。人は通れない。
その隙間から、覗いた。
――いた。
三人。
外套は着ていない。ただの旅装だ。
一人が、壁際に桶を置いている。
もう一人が、その桶から何かを撒いている。
――油だ。
俺は、窓から離れた。
◇
「マリ」
俺は、声を低くした。
「うん」
「荷を持て。全部じゃない。水と、灯りと、野帳」
「うん」
「それと、狐だ」
彼女は、迷わず動いた。
俺は杆を取った。
――前の戸は駄目だ。
油を撒いているのは裏だが、前で待っている者がいる可能性が高い。
火を放って、出てきたところを押さえる。
二十四年前も、たぶんそうだった。
――なら、どうする。
俺は、天井を見上げた。
◇
この家は、俺が八年住んでいる。
八年、俺は毎年、自分の家を測っている。
癖だ。
癖だから、頭に入っている。
――屋根裏。
北側の梁の上に、板が一枚外れる場所がある。
三年前、雨漏りを直した時に自分で外した。
戻したが、釘は打っていない。
「マリ。上がれるか」
俺は指した。
彼女は天井を見上げて、それから頷いた。
俺は卓を寄せて、椅子を乗せた。
◇
屋根裏は、狭かった。
俺は肩がつかえた。
マリは楽に入った。
――こういう時、体が小さいのは有利だ。
板を押し上げると、外の空気が入った。
夜だ。星が見える。
俺は先に頭を出して、周りを見た。
――前の通りに、二人。
やはりいた。
こちらを見ていない。戸を見ている。
俺は身を屈めて、屋根を渡った。
この家は、隣の物置と屋根が繋がっている。
繋がっているのも、測ってあるから知っている。
◇
物置の屋根から、隣家の塀へ。
塀から、路地へ。
降りたところで、後ろが明るくなった。
――燃えた。
振り返ると、俺の家の裏から、火が上がっていた。
速い。
油が回っている。
あの家は、藁と木でできている。
「ハルト」
マリが、俺の袖を掴んだ。
「――行くぞ」
俺は路地を走った。
◇
二本目の路地を曲がったところで、正面から人が出てきた。
一人。
旅装。手に、短い棒。
――見張りだ。
路地の幅を、俺は知っている。
三尺五寸。
狭い。
狭いのは、こちらの味方だ。
男が踏み込んできた。
俺は下がらなかった。
杆を寝かせて、石突きを男の足元へ滑らせた。
男が跳んで避けた。
――避けたか。
避けたということは、こいつは知っている。
俺は跳んだ男の落ち際に、杆を立てた。
握りの側で、脇腹を打つ。
男が壁に叩きつけられた。
◇
俺は息を整えた。
――違う。
あの避け方は、慣れている。
外套の連中とは違う。
あれは、荒事を仕事にしている人間の動きだ。
「マリ、走れ」
俺は言った。
彼女が走った。
俺も走った。
背後で、声が上がった。
一つではない。
――囲まれてる。
◇
三本目の路地で、俺は足を止めた。
前に、二人。
後ろから、足音。
左は塀。右は、井戸の囲い。
――抜けられん。
俺は、マリを背中に回した。
前の二人が、ゆっくり近づいてきた。
片方が、口を開いた。
「――サルカディアの」
声が、レイヴのものとは違った。
丁寧ではなかった。
「二十四年ぶりだ」
男は言った。
「あの晩、ガキが一人逃げた。あれがお前か」
俺の手が、杆を握り込んだ。
「あの家は、よく燃えた」
男は言った。
「油をよく置いてる家だった。……行商だからな」
◇
俺は、その言葉を聞いた。
聞いた瞬間、頭の中が、妙に静かになった。
――こいつだ。
いや。
こいつ本人かどうかは、分からない。
だが、こいつの側だ。
俺は、杆を持ち替えた。
持ち替えて、初めて、自分が何をしようとしているかに気づいた。
――殺す気だ。
俺は、そのことに気づいて、止まった。
止まったのは、後ろで袖を引かれたからだ。
「ハルト」
マリの声だった。
小さかった。
「――だめ」
◇
俺は、息を吸った。
吸って、吐いた。
――四つ数える。
いつも通り。
いつも通りに、やる。
殺すためではなく、抜けるために。
俺は道の幅を測った。
四尺。井戸の囲いのぶん、右が狭い。
二人は、横に並べない。
――一人ずつだ。
俺は、杆を寝かせた。
いつもの構えに。
◇
構えてから、俺はもう一度、周りを見た。
――逃げ道を、先に決める。
これも、遺跡と同じだ。
入る前に、出口を決める。決めずに入る奴が死ぬ。
左は塀。高さ六尺。登れない。
右は井戸。囲いの高さ三尺。乗り越えられる。
その向こうは、狭い路地。
――そこだ。
俺は、井戸の位置を頭に入れた。
二人を通り抜けたら、右へ。囲いを越えて、路地へ。
路地の先は、市場だ。
「マリ」
俺は、声を落とした。
「うん」
「井戸を越えろ」
「いま?」
「いや」
俺は言った。
「俺が前に出たら、だ」
「ハルトは」
「後から行く」
彼女は、少し黙った。
「――ほんとに?」
「本当だ」
俺は言った。
「二人だ。三人じゃない。……抜けられる」
嘘ではなかった。
二人なら、抜けられる。
抜けられるが、無傷では済まない。
それは、言わなかった。




